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榎本武揚と小樽の街

                      <小樽運河と倉庫街>

Img_07531毎年の恒例行事となってしまった北海道旅行。
旧多摩の郡部に身を置き、歴史史跡案内など、多少土方歳三の関わりを持つ者として歳三の終焉地へは行ったことが無いのは、何とも肩身の狭いものとも思っていた。
親戚縁者で何時も行くメンバーは北海道は好きである。
しかし、歴史、しかも新選組に特化した歴史旅ともなると、寺や墓石、形のない碑どをターゲットの特殊世界である。
その観光巡りとは異質な歴史旅を廻るのは心苦しかったが我が儘を許してもらい、戊辰戦争の終焉となった函館戦争の戦跡巡る歴史旅が何とか実現した。
今年は歴史限定の枠を外し、再び風景・名跡などの観光巡りで道南に隣接する道央の積丹半島を主体に廻ってみた。
その一つ小樽は明治維新から国内が新しい息吹きの芽は此処港町小樽で、物流の拠点として育ち、海産商、米雑穀商、海運業など発展し「北のウオール街」と呼ばれる程、隆盛を究めた。1次・2次世界大戦による国交や国政の変化により、その役割を終えた。
その繁栄の象徴である、欧米の文化や街並みがそっくり残された素敵な街並みである。

                           <榎本武揚の夢>

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幕末から明治にかけて榎本武揚は小樽の発展に名を留めている。幕末に旧幕府軍として戊辰戦争で官軍と戦い、北に新天地を求め函館で蝦夷共和国を樹立し、選挙により総裁となる。
しかし、旧幕府艦隊の旗艦「開陽」を江差で座礁沈没で失い、戦費の枯渇、新政府軍の弁天台場砲台の攻撃、箱館湾海戦の全艦喪失で戦いは追い詰められた。
明治2年(1869)敵将黒田清隆の説得により五稜郭を開城・捕虜となる。
黒田は彼の人柄と博識を惜しんで助命に尽力、明治5年(1872)榎本は釈放され、北海道開拓使に任官し北海道開拓に尽力する。
明治5年(1872)小樽の稲穂町の土地の払い下げを受け、同僚の北垣国道とともに管理会社「北辰社」を設立する。この一帯は町外れの沼地で、山側の丘はアイヌ民族の神聖な場所であった。数多くの神へ供物「イナウ」が立ち並び、これが「稲穂」の語源と言われている。
北辰社は明治37年(1905)頃から大規模な開墾を行い、現在の街並みの基礎を造った。
稲穂町にある「梁川通り」は榎本の雅号に「静屋通り」は北垣の雅号にちなんで命名された。
稲穂町の龍宮神社は明治9年(1876)榎本が創建している。
明治政府官僚となってからも、その知識と探求心を遺憾なく発揮し、民衆から「明治最良の官僚」と謳われたほどであったが、藩閥政治の明治政府内においては肩身の狭い思いもしばしばであった。

一方、福澤諭吉が榎本を評して言うには、「江戸城が無血開城された後も降参せず、必敗決死の忠勇で函館に篭もり最後まで戦った天晴れの振る舞いは大和魂の手本とすべきであり、新政府側も罪を憎んでこの人を憎まず、死罪を免じたことは一美談である。
勝敗は兵家の常で先述のことから元より咎めるべきではないが、ただ一つ榎本に事故的瑕疵があるとすれば、ただただ榎本を慕って戦い榎本のために死んでいった武士たちの人情に照らせば、その榎本が生き残って敵に仕官したとなれば、もし死者たちに霊があれば必ず地下に大不平を鳴らすだろう」と「瘠我慢の説」にて述べている。
榎本武揚や勝海舟のように、旧幕臣でありながら新政府でも要職に就く姿勢を「オポチュニスト」(日和見主義)と徹底的に批判する一面もある。

小樽の商店街の一角に掲げられた大きな垂れ幕の榎本武揚の写真がたなびき、ふと調べてみた。
垂れ幕の影に戊辰の戦いで蝦夷で消えていった霊も忘れてはならないことを改めて思い知らされた。

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