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明治天皇行幸と山岡鉄舟

Meiten305明治14年(1881)2月、中央道巡幸に継いで馬車で皇居を出発出発された明治天皇御一行は八王子、恩方方面で狩猟をなさって、連行寺へ向かう過程で、日野の旧佐藤邸で小休止された。
夜来の雪はあがり、晴れわたり、明治天皇御一行は八王子行在所で御発輦され、甲州街道を東下し午前中に旧佐藤邸に到着する。
昨年に継ぐ、御駐輦は急であったようであるが彦五郎以下は感激し、御迎えの準備する。表門の軒が低いので、路面を掘り下げて、御乗馬のまま御通りできるように工作し、家族一同は台所で差し控え御迎えた。
式台のある玄関口から渡り廊下を通じて、奥座敷にお通りになる足音が、台所にいた家族の耳に響き、何とも言えない心強い気持ちになって、目頭が熱くなったと言う。
暫くすると山岡大書記官(鉄舟)が主人に「聖上にお酒を差し上げる用意を」と言う。「お召料になるような上酒は土地にございませんが」と申し上げると「いや、地酒で良い。「酒器も当家で使用しているものでよろしい」と言われた。
早速酒屋和泉屋(宇津木氏)から最上の地酒を取り寄せて差し上げた。急な、御駐輦で酒の準備に滞り、混乱したようであった。
◇さっそうと愛馬「金華山」で
御殿峠御猟のご帰途、更に多摩村連行寺向ヶ丘御猟地へ兎狩りに行幸された。その折りには、当家までは御馬車で小休止された後玄関前にて「金華山」と呼ばれる御愛馬に乗馬され、薄雪白き、麦田圃の畦道を勇ましく猟場さして2里の行程を鞭打たれた。
明治天皇は騎馬軍服の姿で立ち振る舞い、近衛騎兵が警護にあたっていた。八王子・日野周辺の関心はもっぱら明治天皇の兎狩りに集中していた。サポート役として山岡鉄舟も乗馬し、行動する。

◇寵愛深く「金華山号」
『金華山号』は天皇のご寵愛深く、明治13年から16年間御料馬として公式行事使われ、名馬の誉高い馬として知られている。
金華山号は、体躯はさほど大きくない。栗毛の毛艶も鮮麗とは言い難く颯爽とした風姿に乏しかったが、骨格全体のバランスは良かった。
陛下の御乗馬にいつも敬礼の姿勢をとった。 万馬がいななきや突然の砲声や小銃にも驚か動かずに位置を保っているなど「頭部美しく、怜悧沈着で外物に驚かない特質」と評されている。。
明治28年(1895)6月、金華山号は馬としては長寿といえる26歳で死亡した。このとき明治天皇は大変ご悲嘆され、剥製にして主馬寮に置くよう仰せられた。この剥製は神宮外苑の正徳記念館に安置されている。

Img110◇何故山岡鉄舟が陛下の側近役に
慶応4年(1868)慶喜が江戸城を出て上野・寛永寺で謹慎した直後に追討軍が江戸に到着し、慶喜の処刑と大江戸大決戦がささやかれた。そんな背景の中で勝海舟は山岡鉄舟を使者として官軍参謀の西郷隆盛のいる静岡に派遣し、江戸城無血開城と慶喜の助命嘆願の予備交渉に当たらせた。官軍が埋めつくされる東海道の駿府へ、山岡の肝をすえた気迫に慶喜の件は何とか西郷預かりになった。この山岡の働きによってようやく総督府との具体的な交渉の手がかりがつかめ、後の「海舟・西郷会談」の成約を向けてのレールが敷かれたと言われている。江戸での西郷と勝の会見が、後に大きく取り上げられるが、実質的な交渉は静岡会見での山岡に負う所が大きく、江戸での会見は単にセレモニーとも思える。

山岡鉄舟はそんな経過を踏まえ西郷隆盛から人物評価されており、特別な推薦もあって、明治5年、明治政府から天皇陛下の側近侍従長として教養及び剣術の御指南まですることになった。
平安朝以来、女官たちに囲まれた天皇の生活に、無骨な男子の空気に一変させようと言う西郷の官中改革に協力したものであった。
侍従鉄舟のエピソードに彼が青年明治天皇に相撲の相手をし、畏れ多くも天皇を投げたおし、辞職を願い出たという話がある。
弟子はこれを否定している。鉄舟は天皇の青年らしい、多少度の過ぎた奔放な行跡を改めていただくよう、相撲の機会に諌言(かんげん)し、聞き入れなかったら辞職すると言って自ら謹慎したというのである。

Img_4529◇時代を越えて多摩を馬で
山岡は江戸から静岡まで官軍兵士がの居並ぶなか、「朝敵徳川慶喜の家来、山岡鉄太郎、大総督府に参る」と叫びつつ、早馬を走らせた。東海道を疾走する山岡の早馬の図は有名な錦絵となっている。
ダイナミックに走る馬上姿の山岡と、背後を追うように、ここでは白馬姿の薩摩藩士益満休之助が描かれている。
時代を越え、山岡は立場を変えて、明治天皇の従者として、乗馬でさっそうと多摩の原野をかけ走った。
旧東海道の府中宿(現静岡伝馬町通り)、西郷隆盛と山岡鉄太郎が会見した松崎屋源兵衛宅跡があり、記念碑と錦絵が飾られている

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明治天皇の全国巡幸で日野小休

Img_11321明治天皇を御迎して既に130年以上も経過するが、余り、多くを知らされていない。その真実を追っかけ、幕末から維新にかけて、新しい時代を迎え、眩いばかりの皇室を迎える大変大きな、出来事であった。
明治天皇は京都御所に住み、外の世界には全く出ることはなく、民衆からは天を遍く神のような離れた存在であった。近代明治国家ではそんな因習から生まれ変わり、国民に親しまれる元首として、その姿を見て貰い民衆との触れ合いの機会を積極的に作っていった。
明治天皇の巡幸は隔年ではあるが、10数年がかりで88回に及ぶ、全国巡幸を精力的に行われている。
この地方巡幸を計画した中心人物は断定されていないが、大久保利通・岩倉具視の路線から生れたと言われている。
巡幸半ばで推進役の一人大久保は襲撃変死するが、大久保の構想は岩倉や伊藤博文や山形有朋らに引き継がれる。


<明治天皇を迎える街の様子は>
新生国家の元首の街への御登場は鮮烈なアピールであったに違いないが、一部では覚めた様子も伝えている。
・老婆は路端にうすべり(縁をつけたござ)を敷き正座し、天皇の通過をお待ちした。中にはちょんまげを付ける人、正装の人々など様々であった
・「東北御巡幸の御発輦(れん)を拝まんと、御道筋の両側は、万世橋より千住までの間に錐(きり)を立へき隅も無き程に充満し」と東京中が歓送の渦の中にあったことを延べている。
・農作業を妨げてまで歓迎にかりだしてはならないと言う通達にも関わらず「鳳輦を見かけ両手を合して拝むもあり、両手を打つもありて何れも遠近の村落より出たる人なるべし」・・・「鳳輦随行記」
・「天子様は生き神様」と言う信仰を抱いて、天子様を拝めば目がつぶれると言う流言を率直に受け入れた者もあれば、初めて見る天皇に概して庶民が冷淡であったことは、赤子に乳を飲ませながら行列を眺め立っている農婦の姿からうかがえる。

<日野で2回も明治天皇を迎える>
日野は徳川家康関東入国以来、甲州道中など街道の整備が進められた。幕末・維新時期には日野宿は幕府直轄領だった日野と幕府との強い結びつきから農兵隊や新選組が生れ、より佐幕色の色濃い土地であった。当時の人も「明治維新」・「御一新」の言葉より、徳川幕府の崩壊を捉えた「瓦解」が使われたのも、幕府との絆の深さを物語っている。
そんな土地背景の中、薩長色の濃い新しい体勢の明治国家の中で、明治10年代に日野に2度も明治天皇が「行幸」(ぎょうこう)の過程で立ち寄られている。
その1回目は明治13年(1880)、明治天皇は山梨・三重両県と京都府巡幸があり、6月16日に東京を出発され、日野に立ち寄られている、

Meiten1104<金色に輝く菊花紋の馬車の大パレード>
「君が代」や「日の丸」の国旗を先頭にフランス式の近衛騎兵が親衛する朱塗り、金色に輝く菊花紋の馬車を中心に一行は貞愛親王を始め太政大臣三条実美や寺島宗則・伊藤博文・山田顕義の三参議、その他維新以来の元勲連、山岡鉄舟など重臣顕官が奉じ、騎兵・夫卒・馬丁等を合わせて約360人に及ぶ大集団であった
明治天皇の御行幸の一行は府中の大国魂神社に幣帛料を供せられ、新しく架けた多摩川の仮橋を渡られ、午後3時頃旧佐藤彦五郎宅(以下佐藤邸)に到着し、小休止された。 近衛兵数十基をともなって、当日のために選ばれた日野の名望家は意義を正して玉川橋で、天皇の御一行を出迎えた。日野宿内では天皇の一行を祝して門々に国旗を掲げた。

<当日の佐藤邸では>
佐藤邸の表門前に厚い檜板の組枠高札「御小休」が建てられ、邸外四方警護厳しく、板塀内側には幔幕(まんまく)を張りめぐらし、屋内各間には絨毯を敷き詰められた。
奥の間の廊下先の御厠(かわや)を本削り材を持って新調し、内側一帯に、運ばれた青磁色の御緞子(どんず)を巡らせた。

絨毯が敷きつめられ、陛下は御靴のまま、玄関から上がられ、御足音高く、王座まで御運びあり、御茶を喫せられ、続いて清酒五合程も召し上がられた。
次々の各間には三条実美、寺島宗則・伊藤博文・山田顕義の三参議その他維新以来の元勲連、山岡鉄舟の元気な姿が目立ち、それぞれ待機していた。厨板の間(勝手と推測)の焜炉(こんろ)の傍らには神奈川県令 中島信幸などが煙草を喫煙していた。
小休後、午後5時に日野を御出発し、八王子に着かれた。

<無事大役勤めた佐藤家>
当時俊正(彦五郎)はこの南多摩郡長奉職中にて、恐懼(きょうく)描くこと知らず、家祖350年来まったく未曽有の光栄に欲すること、なお俊正として畢生(ひっせい)の労苦を重ねて、親しく建築したるこの邸宅に、有り難くも両度までも行幸御小休を仰ぎ奉ったのである。いかばかりか歓喜恐悦し、聖徳に感佩(かんぱい)(かたじけなく心に感じる))したことであろう。と同家で史話に残されている。
翌年の2回目の兎狩りは別途、予定。
詳細は>「明治天皇の全国巡幸と兎狩」で当サイトで掲載。 

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