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殉節両雄之碑が語りかける

Ryouyu01 高幡不動の境内には土方歳三像と並んで殉節両雄之碑が立っている。
殉節両雄とは多摩の出身で幕末の京都において勤皇の志士から恐れられた新選組の隊長近藤勇と副長土方歳三を指している。
明治7年(1874)8月明治政府は今後、戊辰戦争で新政府軍に敵対し「朝敵」となった戦死者の霊を祭ることが出来る太政官布告を出した。
早速、旧幕府の典医松本良順の呼びかけで、佐藤俊正(彦五郎)や小島為政らが賛同し、旧門人や有志から募金を集められ高幡不動で近藤、土方の墓碑建立が、具体化される。
碑文は二人の誕生から死に至るまでの略歴と功績を記して顕彰するために建立することになった。
しかし、内容が単なる慰霊碑ではなく、両氏の賊名を晴らし、忠勇義烈を讃える顕彰碑であった。神奈川県に提出したが建立の許可が中々貰えなかった。明治9年の銘が入っているが、実際に建つたのが明治21年であった。
「朝敵」とされた二人に対する戊辰動乱の怨念の激しさが、許可に長期間要したことが伺える。
碑で書かれている両雄の足跡は多摩を起点に京都へ、更に戊辰の勃発で関東から東北で転戦、最後は蝦夷地で戊辰の幕引きを迎える。足跡は、国内本土の半分以上を要する壮大なものであるが、こつこつ歩き、2010年には念願叶い主要部分を廻りきることが出来た。碑文に沿って、二人が残した足跡とも合わせ、二人の思いを紹介する。

■概略の碑文
近藤勇と土方歳三は多摩川の両岸の生れで、二人は剣法、天然理心流を近藤周助邦武(くにたけ)に学ぶ

◇新選隊(組)誕生と京都市中の治安維持
文久3年2月、二人は14代将軍家茂公の上洛の折に京都市中警護の為に京都に向かう。
新選隊として名付けられ、勇が隊長、歳三が副長となり京都守護職松平容保に属して京都市中取締をおこなった。「池田屋事件」や「禁門の変」などの活躍が内外に新選組の名が広がる。
薩長同盟など倒幕派の勢い付く中で、慶応3年10月慶喜公は将軍職を辞任し、大政奉還する。

◇戊辰戦争勃発
鳥羽伏見の戦いで、東軍は敗走し、慶喜公や新選組は大阪から江戸へ引き上げる、
慶応4年3月新選組は甲斐鎮撫を命じられ甲州に向かったが、勝沼で、破れ流山に逃げ帰った。
勇は流山で官軍に捕まり、4月15日に板橋で処刑され、その首は京都三条河原に晒された。

◇江戸から会津更に箱館へ
慶応4年4月江戸城開城し、歳三は徳川軍を抜け出した兵士と合流し東北へ向かう。
大鳥圭介と共に宇都宮城を攻略し、城を奪ったが、再奪取される。歳三は負傷する。
会津若松城に向かうが、激戦の上9月23日城主、松平容保以下が降伏する。
明治元年10月松島に碇泊した榎本の艦隊に歳三や大鳥圭介らは兵を率いて合流し蝦夷に向かう。
軍艦6隻を帥いて鷲の木へ上陸し五稜郭を抑えた。土方軍は松前城を落とし、引き継いで江刺を攻略した。
明治2年3月新政府軍が侵攻し乙部海岸に上陸。幕府軍劣勢の中、土方軍は二股で勝利する。
5月11日の未明、新政府軍大挙して箱館に攻勢する。歳三は刀を抜いて指揮を取っていたが銃丸が下腹を洞(つらぬ)いて戦死した。年齢35歳。
5月18日に榎本武揚・松平太郎以下1000人余りが五稜郭を出て官軍に降伏して箱館の戦いは終了し、戊辰戦争は集結する。

◇慶喜の涙
篆額の揮毫は最初、松本良順の斡旋で徳川慶喜に申請した。ところが慶喜は依頼の書面を見入り、繰り返し目を通しただ黙って涙を流したと言う。側用の者が後刻尋ねても同じような様子であったのではっきりした返事を受けないで終わった。
松本良順は慶喜公の揮毫を断念し、松平容保に依頼することにした。
慶喜は最後の将軍から賊魁へ零落流転の日々、江戸城から謹慎の身で上野寛永寺、水戸城下、更に駿河へ向かう。
自分の為に潔く、散って行った「近藤昌宣」と「土方義豊」の生きざまにただただ涙したのであろう。
碑文から二人が残した言葉とは、こんな事からと考える。

「近藤勇昌宣」

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慶喜公に反逆者の名を被(き)せて天子の名の軍隊がいなずまのように攻めてきた。何とか無実の罪をそぎたいと希(こいねが)っているだけなのだ。今更弁解がましくしゃべることなどない」少しも態度を変えることなく堂々と刃を受けた。

「土方歳三義豊」

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「私がさきごろ「昌宣」と死を共にしなかったのはもっぱら慶喜公の冤(むじつ)の罪を雪(そそ)ぐ日のあることを期(き)していたからである。今このような状況になってしまった以上、いさぎよく戦死するだけである。命を永らえたとしても、私はどうして再び地下の「昌宣」と顔を合わせることが出来るだろうか(とても出来ないことだ)」

二人の軌跡は殉節両雄之碑に載せてある

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