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日本海海戦

                   <戦艦三笠の主砲>Mikasa14

年越しのロングドラマも最終回を迎え遂に終わってしまった。
高い山の切り立つ尾根筋の瓦礫を背景にたなびく雲を背景に流される、あのテーマ音楽が、何時までも耳に響き、わくわくするような感覚に思わずテレビの前に釘付けになってしまった。
12月28日の朝日新聞に"戦艦三笠、39年振りのにぎわい"と報じられ、年間見学者が、平時10万人 を越え、18万人を越える勢いであること、改めてNHKドラマの影響の大きさを感じさせられる。
拝も5月に横須賀に押しかけ三笠艦橋に登り、三笠に見学した中の一人であった。
最新鋭戦艦4隻を擁し、世界最大・最強レベルと言われていた巨大艦隊のバルチック艦隊を日本海で向かい撃ち、完膚なきまで叩き日本艦隊の勝利で、ドラマは終幕を迎える。
海戦が何故これまでに完璧終わったか、節々に伝えている。

             <情報戦で活躍した三六式無線電信機>    Mikasa4

1 )情報能力のツール
戦力を集中して1箇所でバルチック艦隊を捕捉迎撃するには位置と向かう方向が大事な情報である。
ロシアが有視界の旗信号に頼っていたが、貨客船「信濃丸」の三六式無線電信機から、日本艦隊に いち早く情報を伝え、大事な役割を果たしている。
モールス符号を使った無線電信は当時の最新鋭のものであったが、古典的な原理の無線機であり、モールス符号も既にプロでは使わなくなり、趣味のアマチュア無線の一部で使われている程度に淘汰されてしまった。

それはさておき、いち早く伝えられた情報を基に、艦隊編成を伴う次の作戦計画にに如何に重要であったかを物語る。

2)「丁字戦法」で緒戦を飾る
この時代の軍艦は砲の多くが舷側に並んでいるので、横方向に砲撃できる単縦陣が主流であった。
先頭をいく旗艦「三笠」は大胆に敵前大回頭、いわゆる「丁字戦法」「トーゴー・ターン」の開始であった。
しかし、敵前での回頭は危険の状態を晒し、ドラマでも当初は先頭の「三笠」に攻撃を集中し、多数の命 中弾を受けていた。そんなリスクを負いながら、単縦陣でまっすぐ進む敵艦隊に対して、進路を横にふさぐ形の、丁の字の体勢を形成する。
敵の後続艦が遠いうちに、味方の全艦艇の側方から先頭艦へめがけて一斉に砲撃する。連合艦隊の砲弾が バルチック艦隊先頭の2艦に多数命中し、「オスリャービャ」と「クニャージ・スヴォーロフ」で火災が発生する。

緒戦の砲戦でバルチック艦隊は統一のとれた艦隊運動が行なえず、連合艦隊が追撃し集中砲火で多数の艦船が炎上や沈没へ向かう。

        <伊集院信管をはめ込んだ 主砲弾頭>               Mikasa3

3)『飛んでくる水雷』
秋山真之が大本営に打った伝文が「天気晴朗なれど波高し」の天候であった。
軍艦の装甲構成は艦の水線付近は厚く施され、水線以下は海水が土塁の役割を果たし、装甲は全くされて いない。当日は波高しでロシア艦隊が絶えず動揺し、腹(水線以下)を見せるために其処へ日本の砲弾が命中し、海水が入り艦は傾き沈んだ。波高しは魚雷と同じ結果を引き出した下瀬火薬を詰め込み伊集院信管をはめ込んだ 主砲弾頭である。
『飛んでくる水雷』とも言われ恐れられた三笠の後部主砲下に置かれてあった。

4)射撃能力の高さ
鎮海湾で砲員の訓練で日本艦隊の射撃能力の高さはロシアの倍以上。100発中70発の命中の域に達し新たな数隻の戦艦、装甲巡洋艦などが戦列に加わった鮮烈に鮮烈にを増加した結果になる。
砲撃は一門だけが試射し、水煙を見て、その弾着を確かめて艦橋上から各砲台に距離を知らせ、正確な着弾が目標に向けられ、精度を高めた。
数隻の戦艦、装甲巡洋艦などを増加した結果になる。砲撃は一門だけが試射し、水煙を見て、その弾着を確かめて艦橋上から各砲台に距離を知らせ、正確な着弾が目標に向けられ、精度を高めた。

◇勝利に終わったが
撃沈された戦艦6隻、巡洋艦4隻、 死者約5000人、捕虜6100人 華々しい戦火を上げた大勝利に終わった。
しかし、連合艦隊の凱旋を前に三笠は佐世保港内の係留中に謎の爆破で、339人の船員と共に海底に沈没してしまう。

坂の上の雲の主役秋山真之はこの海戦の中枢を担う一人として活躍した。
戦略家として卓越した手腕や、文書も非凡な才覚を持ち、海軍幹部として将来を約束された逸材であるが、天才と狂人が同居しているとも言われ、穏当な官僚でもなくこの海戦で燃え尽きてしまったのか、50歳で病死してしまう。

華々しい海戦の陰に、こうした事実も、残しながら、歴史的な海戦であった。
NHKドラマとして、何度かエントリーされながら、消え、司馬遼太郎没後、3年越しのスパンで漸くドラマは終わった。
三笠の見学を含め、その姿をこちらでも書いてみた。

軍艦 三笠

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広瀬中佐

司馬遼太郎の代表的長編小説「坂の上の雲」は2009年から3年にわたって放送されいよいよ大詰めを迎える。
放映は1回1時間半の番組を13回(1170時間)にわたって放送するが、年に4~5回程度放送し、3年かけて完結される。
時間と金をたっぷりかけてじっくりと熟成させるようであるが、年末限定だけに、1年間のブランクは間延びしてしまいその間の記憶が薄れ、再放送版で、ようやく記憶を蘇らせ、ドラマの連続性を繋いでいるような感じがしてなら無い。
時間と金をたっぷりかけてじっくりと言う背景から、このような変則的な大河ドラマになるのであろうか。
まあ、そんなことはさておき、今年の歴史旅の印象的な一つはやはり軍艦三笠であった。
10数人の仲間を引き連れ、横浜、横須賀へ、予定したが、3.11の地震で鉄道の乱れが長く続き、止むなき延期する。

更に延期後5月28日は2号台風を迎えると言う、最悪の事態であった。天地異変が、付いて廻り、神がその旅行きを阻んでいるようでもあったが、それでも雨の中、僅かな欠席者もあったが、皆の熱意で決行した。

おりょうさん縁の横浜の田中屋、横須賀のおりょう会館に次いで、行ったのが軍艦三笠であった。
雨の中、滑る足元を、ほぼ垂直に近い梯子段をよじ登って、艦橋に出る。
歴史を変えた東郷平八郎か或いは天才と言われた秋山真之に気分は成りきって、艦上から、雄大な眺めをたっぷり味わった。
火を吹き、ロシア側戦艦を完膚無きまで叩き、撃沈させた主役の大きな砲門が実に印象的であった。

           <広瀬武夫の写真>

Hirose_takeo 短い時間の館内見学であったが、色々見る中で、広瀬武夫の写真の前に引き寄せられた。その夢とロマンが広瀬役を演じる藤本隆宏が重なりあい、ドラマのシーンが浮かび上がってくる。

                  <広瀬武夫役を勤める藤本隆宏>

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広瀬は日露戦争を予期し、ロシアへ留学してロシア語などを学び、貴族社会と交友し、ロシアを第二の故郷とこよなく、愛する存在になる。
友人のボリスとは絆を深めたが、日露戦争によって、そんな友情も、打ち砕かれ、敵味方となって相まみる悲劇が生れる。
中でも広瀬を愛し慕われていたアリアズナと語り合いや、広瀬が亡くなり、日露問わず、多くの人から、死を悼むシーンは思わず胸が熱くなってしまった。
広瀬役の藤本隆宏も以下のように語っており、広瀬役になりきっている姿が何とも共感をも呼ぶ。
「役者としてはあまり良くないのかもしれませんが、実は広瀬が亡くなる第9話の台本を読むと必ず涙が出てしまいます。」

                  <ロシアへ留学時代>Inter002

その死は広瀬(死後に中佐)と共に顕彰され、万世橋駅前に広瀬と共に銅像が建てられたが戦後撤去され、その陰も形も無くなっている。
他にも飛騨護国神社などに碑が建てられたようである。

文部省唱歌にもなった『広瀬中佐』の歌詞の最後の部分が何故か拝の幼き子供時代にも、意味の判らないまま伝わり記憶の中から蘇る。
♪♪・・・♪轟く砲音(つつおと)飛び来る弾丸(だんがん)
荒波洗うデッキの上に
闇を貫く中佐の叫び
「杉野は何処(いずこ)杉野は居ずや」

広瀬は第2回の旅順港閉塞作戦においては閉塞船福井丸を指揮する。撤退時に行方不明となった部下杉野孫七上等兵曹(戦死後兵曹長に昇進)を助けるため船内を3度捜索した後、救命ボート上で頭部にロシア軍砲弾の直撃を受け戦死。享年36。即日中佐に昇進した。

                <広瀬の遺体はロシア軍により手厚く埋葬>

Image1流れ着いた遺体はロシア軍により埋葬された。

ドラマはバルチック艦隊を迎え、終幕を迎える。

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