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天皇陛下の心臓手術と順天堂

                <佐倉の順天堂>

Jyunten01 天皇陛下の心臓大手術が行われ、無事に終わり術後の養生されておられることは喜ばしいことである。
この大手術に東大と順天堂大学との合同チームと言う異例の治癒態勢であったことが報じられている。
陛下の心臓の病気を診てきた東大が、非常に良い成績を残されている実績から、敢えて順天堂大学の天野篤教授に協力要請し、ベストの治療を目指した選択であったと、評価されている。
天野教授は心臓を動かしたまま、血管を縫い合わせるオフポンプの手術のリーダー的存在で、これまで約5500件の心臓手術実績が裏打ちされている。
TVでも模型を使って、天眼鏡もどきで拡大し、心臓を動かしたまま血管を針と糸で縫い合わせる微細で高度な手作業であった。
高度医学が進んだ現代でも、経験に培われた、その手腕による「匠の技」そのものである。

順天堂と言えば佐藤 泰然(さとう たいぜん)の名前が浮かんでくる。
泰然は天保14年(1843年)江戸から佐倉に移住した「佐倉順天堂」を開設し、現在の「順天堂」に繋がっている。
「順天堂」は大阪の緒方洪庵の適塾とならぶ有名蘭学塾であった。

「泰然」は、文化元年(1804年)公事師の佐藤藤佐(さとうとうすけ)を父に現在の神奈川県川崎市生まれる。
名は信圭(のぶかど)泰然は通称である。
蘭方医を志し、長崎に留学し、蘭学の見識を深める。
天保9年(1838年)、江戸へ戻り、両国薬研堀に「和田塾」を開く。外科の優秀性を認められ、患者や塾に生徒が集まってくる

◇「泰然」が残したもの
「泰然」は順天堂の塾生がオランダ語の習得と書物だけの勉強に偏ることなく、診療に役立つ知識・技術を習得させることを目指し、教育した。その結果、多くの人材が育ち、日本の近代医学の発展に大きな役割を果たしている。
ウイルス感染により起こる天然痘は当時大変恐れられていた病気であったが、「泰然」の積極的な西洋式の医療技術の取り入れ策から、安全で進歩した牛痘法を佐倉藩内にいち早く導入し、高く評価されている。

◇多くの人材が羽ばたく
「泰然」は実子を後継者とすることにこだわらず、医者として有能な人物は選んだ進歩的な選択は代々受け継がれ、「順天堂」の発展を支えている。実子の「良順」も松本家に養子に出し、「松本良順」として幕府の頭取になり、戊辰戦役では幕府典医として活躍し、新選組とも関わりを持っている。
一方、優秀な弟子であった「尚中」を養子にし、「順天堂」の後継者としている。これも「泰然」の拘りが貫かれている。
幕末期の戊辰戦役では、幕府軍、新政府軍の軍医として主要な要職をはじめ、軍の要職や外務大臣な始め、榎本武揚の妻など内外の主要ポストに繋がる系譜が生まれている。
「泰然」の後を継ぐ、人物は養子であり、4代まで続いている。姉妹はそれぞれ各界の要職の妻として嫁がしている。

「泰然」のこうした「順天堂」の発足思想である有能な人材の育成が今日まで、実践され、代々受け継がれている。
一昨年、その 「泰然」を追い佐倉順天堂に行って見た。

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「ようこそ幕末の世界へ」サイト引っ越しのご案内

移り行く激しいネットの世界で変化が求められるのも、時代の流れなのであろうか。
幕末の情報の場として流していた「ようこそ幕末の世界へ」はこれまで多くの皆さんに御贔屓にして頂き、かなりのエネルギー注ぎ運営してきた。
そのサーバー提供会社のinfoseekから、一方的にホームページの運営は今年で停止する旨の宣言をされてしまった。
思えば同サイトも、当時の話題の人物「ホリエモン」の運営するライブドアで幕を開けた。
その「ホリエモン」が収監され、表舞台から消え、ライブドアもホームページの運営が中止になり、現在のinfoseekに移行を余儀なくされた。
そのinfoseekからも、今回このような宣告に「おいおい、またかよ」と思わざるを得ないが、企業のトップポリーシに逆らう事も出来ない。

「さあ、折角積み上げた情報の山をこのまま、流してしまうのも悔しい、せめて足腰の動く間、脳味噌が固まらない間は何とか続けよう。」
色々、提供会社を模索し、niftyの"la coocan"に乗換を決定し、ようやっと引っ越しを完了した。
10年以上の運営から積み上がった情報量はファイルの数にして4500に及び、その間、ファイルに溜まった埃など修復しながらの、作業であった。
既に、時代から取り残されたISDNの遅い転送速度に新サーバーへのお引っ越しに3時間にも及ぶものであった。
重い、重い引っ越し作業も何とか終わり、いよいよご来店を待つばかりにこぎ着けた。

そんな、引っ越し作業も終わりました
引き続きのご来店とも併せ今後とも、御贔屓に宜しくお願いを申し上げます。
お気に入りに、加えていただければ、嬉しいです。
http://bkmts.on.coocan.jp/

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魁(さきがけ)塚

昨年(2011)の秋、念願かなって、下諏訪の魁塚に行ってきた。

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◇凄惨な処刑が
慶応4年(1865)3月1日岩倉具視の率いる東山道総督府は下諏訪に進んだ。既に下諏訪に着いていた赤報隊は岩倉に本陣を譲り、辺鄙な桶橋(とよはし)へ下がった。
総督府の使いから軍議があるから出頭するように命令が下り、相楽が下諏訪に到着すると、潜んだ兵士たちが突然襲いかかった。
その数日前に本営からあらためて官軍先鋒を認める旨の墨付きが届いて居たため、彼らの意志が認められたと信じ、相楽は立ち向かおうとした部下をきつくたしなめ、率直に両刀を差し出した。
設楽以下54人はただ一度の取り調べもなく、二昼夜、下諏訪神社の境内で並木に縛られ氷雨の中さらされた。
3月2日、相楽以下赤報隊の幹部8名は礎田の刑場に移され、「赤報隊はご一新の時節に乗じ、官軍先鋒を偽り諸藩や農民を脅かした」と言う罪によるもので処刑を宣告され、、無言のうちに斬られていった。
「にせ官軍」であると言う罪文をちらりと見せただけで、有無を言わせず残酷な処刑であった。
江戸騒乱に動員され、倒幕の前線で利用され、今度はご維新のために江戸城開城のお先棒を担がされ、挙げ句の果てに処刑とはどういうことかと、怒り心頭の矛先も納めぬまま、順次処刑された。そして最後は相楽であった。
相楽は同志の最期をじっと眺め、死の座になると皇居の方角に向かって、遙杯(ようはい)し、太刀取りに「しっかりやれ」と声をかけた。振り降ろした刀に相楽の首は三尺飛び、地に音をたてて落ちた。
東山道総督府は斬首8名を含む54人の処分を行った後、3月4日下諏訪を立ち、江戸へ向かった。
諏訪湖の北岸、長野県下諏訪町の市街地の一角に、「魁塚」(さきがけづか)、または「相楽(さがら)塚」と呼ばれている場所がある。戊辰の年の慶応四年(1868)三月三日、「偽(にせ)官軍」という罪状で、八人が斬首された場所だ。

◇「魁塚」
「魁塚」は、下諏訪駅から国道20号線に出て、西側、国道から少し入った住宅街の空き地にある。当時は廻りは畑で盛り土で、高くなった部分が、現在でもそのまま残されている。
墓碑には、上段に相楽の名があり、下段に七人の名が列記されている。
◇「相楽総三」
相楽は本名、小島四郎左衛門将満(まさみつ)(通称四郎)と言い、国学と兵学を教え百人の門人を数えた。
慶応3年(1864)10月初め、四郎は江戸の薩摩藩邸に入り、以後、「相楽総三」を名乗り、西郷の倒幕計画に呼応し江戸市中の強盗・放火などテロ活動が行う。佐藤彦五郎が薩摩浪士捕縛にかかる、壺伊勢屋事件もこの騒乱の一環である。幕府は薩摩藩邸を攻撃し、薩摩藩邸炎上、相楽らは京都に逃げた。この藩邸焼き討ちが、口実となり、結果的に倒幕決戦として戊辰戦争を引き起こす。
慶応4年1月相楽は赤報隊を名乗り、官軍の東征を助ける先鋒隊を結成し「租税半減」の旗を押し立て、京都方面から木曽街道を下った。新政府は財政が厳しい中で年貢半減を相楽達が進めると、困ること。更に本隊の東海道行きの命令を無視して東山道へ進軍してしまったこと。そんな背景から偽官軍として処分してしまった。「魁塚碑」は「相楽総三」の孫、木村亀太郎が長い苦難の末無実の罪を証明し、此処に建てられた。

◇境内で縛られた場所を追ってみたが
                     <下諏訪神社>

Img_1501 彼らが縛られたのは色々資料から境内の一角と言われている。境内であれば何らかの目印なり、案内があるだろうと、無性にその所在を確かめたく、杉の木探しに走った。たまたま目の前に移動する巫女さんの姿に思い切って声かけたが、判らなかった。我が儘な来訪者の意向をくんで頂き、此処へ行けば、誰か判るだろうと案内されるまま彼女の後を追い、社務所に向かった。役職者とも思われる人から、その所在について「岩波家の山の上で秋宮神社の境内ではない」旨の説明であった。
バスの旅に限られた時間に、これ以上の深追いは出来なかったが、当地へ思い描いていた場所はそれで十分であった。

こちらで、詳細を紹介しています

赤報隊「相楽総三」の軌跡

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