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魁(さきがけ)塚

昨年(2011)の秋、念願かなって、下諏訪の魁塚に行ってきた。

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◇凄惨な処刑が
慶応4年(1865)3月1日岩倉具視の率いる東山道総督府は下諏訪に進んだ。既に下諏訪に着いていた赤報隊は岩倉に本陣を譲り、辺鄙な桶橋(とよはし)へ下がった。
総督府の使いから軍議があるから出頭するように命令が下り、相楽が下諏訪に到着すると、潜んだ兵士たちが突然襲いかかった。
その数日前に本営からあらためて官軍先鋒を認める旨の墨付きが届いて居たため、彼らの意志が認められたと信じ、相楽は立ち向かおうとした部下をきつくたしなめ、率直に両刀を差し出した。
設楽以下54人はただ一度の取り調べもなく、二昼夜、下諏訪神社の境内で並木に縛られ氷雨の中さらされた。
3月2日、相楽以下赤報隊の幹部8名は礎田の刑場に移され、「赤報隊はご一新の時節に乗じ、官軍先鋒を偽り諸藩や農民を脅かした」と言う罪によるもので処刑を宣告され、、無言のうちに斬られていった。
「にせ官軍」であると言う罪文をちらりと見せただけで、有無を言わせず残酷な処刑であった。
江戸騒乱に動員され、倒幕の前線で利用され、今度はご維新のために江戸城開城のお先棒を担がされ、挙げ句の果てに処刑とはどういうことかと、怒り心頭の矛先も納めぬまま、順次処刑された。そして最後は相楽であった。
相楽は同志の最期をじっと眺め、死の座になると皇居の方角に向かって、遙杯(ようはい)し、太刀取りに「しっかりやれ」と声をかけた。振り降ろした刀に相楽の首は三尺飛び、地に音をたてて落ちた。
東山道総督府は斬首8名を含む54人の処分を行った後、3月4日下諏訪を立ち、江戸へ向かった。
諏訪湖の北岸、長野県下諏訪町の市街地の一角に、「魁塚」(さきがけづか)、または「相楽(さがら)塚」と呼ばれている場所がある。戊辰の年の慶応四年(1868)三月三日、「偽(にせ)官軍」という罪状で、八人が斬首された場所だ。

◇「魁塚」
「魁塚」は、下諏訪駅から国道20号線に出て、西側、国道から少し入った住宅街の空き地にある。当時は廻りは畑で盛り土で、高くなった部分が、現在でもそのまま残されている。
墓碑には、上段に相楽の名があり、下段に七人の名が列記されている。
◇「相楽総三」
相楽は本名、小島四郎左衛門将満(まさみつ)(通称四郎)と言い、国学と兵学を教え百人の門人を数えた。
慶応3年(1864)10月初め、四郎は江戸の薩摩藩邸に入り、以後、「相楽総三」を名乗り、西郷の倒幕計画に呼応し江戸市中の強盗・放火などテロ活動が行う。佐藤彦五郎が薩摩浪士捕縛にかかる、壺伊勢屋事件もこの騒乱の一環である。幕府は薩摩藩邸を攻撃し、薩摩藩邸炎上、相楽らは京都に逃げた。この藩邸焼き討ちが、口実となり、結果的に倒幕決戦として戊辰戦争を引き起こす。
慶応4年1月相楽は赤報隊を名乗り、官軍の東征を助ける先鋒隊を結成し「租税半減」の旗を押し立て、京都方面から木曽街道を下った。新政府は財政が厳しい中で年貢半減を相楽達が進めると、困ること。更に本隊の東海道行きの命令を無視して東山道へ進軍してしまったこと。そんな背景から偽官軍として処分してしまった。「魁塚碑」は「相楽総三」の孫、木村亀太郎が長い苦難の末無実の罪を証明し、此処に建てられた。

◇境内で縛られた場所を追ってみたが
                     <下諏訪神社>

Img_1501 彼らが縛られたのは色々資料から境内の一角と言われている。境内であれば何らかの目印なり、案内があるだろうと、無性にその所在を確かめたく、杉の木探しに走った。たまたま目の前に移動する巫女さんの姿に思い切って声かけたが、判らなかった。我が儘な来訪者の意向をくんで頂き、此処へ行けば、誰か判るだろうと案内されるまま彼女の後を追い、社務所に向かった。役職者とも思われる人から、その所在について「岩波家の山の上で秋宮神社の境内ではない」旨の説明であった。
バスの旅に限られた時間に、これ以上の深追いは出来なかったが、当地へ思い描いていた場所はそれで十分であった。

こちらで、詳細を紹介しています

赤報隊「相楽総三」の軌跡

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02、幕末」カテゴリの記事

コメント

十年以上も幕末にはまっていて、赤報隊、天狗党、よく混乱します。
 こうして、話題で出していただくと、本文を読み、また本を引っ張り出し、読み返し、頭を整理します。
 角川文庫の「日本史探訪」の中で、作家、長谷川伸の著作「相楽総三とその同志」により、赤報隊の
名誉回復がなされた、とあったので、私も、アマゾンで購入して読みました。
 本には読了、平成20年11月22日とありますが、内容はほとんど覚えていません。
 ただ巻頭の、総三の孫が祖父の汚名をはらそうとする「木村亀太郎泣血記」は強く胸に残っています。
 総三らの赤報隊また天狗党。あまりに悲惨な
結末を思う時、彼らの無念さがどんなものだったか、やり切れない思いになります。
 本にも書かれていましたが、彼らが無事に目的を果せば、西郷など、上の立場の人たちに都合の悪い事があったのでしょうか。

 

投稿: 鳴門舟 | 2012年2月 7日 (火) 12時21分

綿密な考証によって成立した著作と評判の長谷川伸の作品と言われていますね

「鳥羽・伏見」以後、倒幕がどんどん朝廷側に有利に動く情勢をから、新政府の中枢に藩にも属さない相楽ら浪士は使うだけ使い「用済み」としてしまった。
自分たちが主導権を握る新国家建設のためには、武士に有らざる者は有害と考える、差別意識から、消してしまったのでしょう。

魁塚、下諏訪神社、諏訪宿本陣、見どころ一杯の歴史の宝庫でした。

投稿: 隠れ新八 | 2012年2月 8日 (水) 20時44分

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