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中山道の「和田宿」に和宮の降嫁を追う

                                                     <和田宿本陣>

Wadasuwa203中山道行って、大分時間を経ってしまったが、そんな旅の思い出に「和田宿」についてひも解いてみる。
何といっても和宮の行列の落とした影響が大きい
文久元年(1861)11月6日(現12月)に泊まれたので今年で丁度150年を迎える。
和宮の行列の本体は2794人記録が残っているが京都方から送って見える方が1万人、江戸から迎えに来た人が1万5千人と言われている。
普通は継ぎ立てと称して宿間で荷物程度であったが、この人が特別なため、色んな警護の者が付帯するので4集団に別れた言われているが、先触れから始まり、4日間で総人数が、何と8万人の大集団が通ったと言われている。

<大火事で消滅したが>
折しも和宮が来られる年の3月に和田宿では大火事が発生し宿の殆どが、全焼してしまった。燃え尽きた宿から、急場の借り住まいも、目処の建たないのに、皇女が休まれる居住を用意することはとても出来ないと幕府に願い出た。
幕府からはまかり成らぬ、直ぐ建て直せと言う命令が下った。命令する以上、幕府も相当腰入れし、資金や、全国から調達した材料も貸し与え、職人も全国から動員され、3月に出火し、突貫工事で宿場は9月には復旧させてしまった。
何故そこまでして、やらざるを得なかったのであろうか・・・?。

<幕府の政治路線で載せられた >
皇女和宮は有栖川宮幟仁親王と婚約していたが、幕府から将軍の妻として降嫁の願いが出される。
当時、幕府は外国と開国条約を結ぶが、外交権は天皇にあり、幕府の越権行為と京都御所を背景に反対する過激志士など大きな渦となった。
日本国の主権は幕府にあり、条約締結は天皇に許可を必要とするのか、否、外交権は天皇にありと国論が割れて幕府は整合出来なかった。ここで生れたのが「公武合体」論であった。
天皇と幕府を一体化し幕藩体制をしく政治路線を強化したかった。
<無事に降嫁>
そんな背景から、和宮は婚約者が居たのに、いやいやながら天下太平のためなら、余儀なしと受け入れられた。
文久元年(1861)10月20日、桂御所を発ち中山道をたどり江戸城へ向かった。
11月5日、下諏訪へ入り、本陣に宿泊した。
16歳の和宮が読まれた、「食べごろも濡れまさにけり渡り行く、心も細き、つゆの架け橋」
木曽を通ってきて下諏訪宿で読まれた唄。下諏訪を朝7時に出発して、夕方6時に和田宿に到着したと言う記録が残っている。
火事後、生れたのが、この本陣建物がある。
住まいとして利用した「主屋」は残されたが、しかし大名や和宮が宿泊された「座敷棟」は無くなってしまった。

<現在の姿>
和宮はお迎え出来たが7年後には大政奉還で新政府に移り変わり、宿場制度も無くなる。このため収入が断たれ、大火災の復旧に関わる返済は、幕府から借金返済は無くなったが、他の松代、下諏訪からも借金だけが残ってしまった。その返済のために和宮を迎えた総檜の御殿の間は丸子と言うお寺さんに売られてしまった。
この家の通りを挟んだ向かい側が「かあちゃんち」と言われる元脇本陣の家である。

                                                  <脇本陣(かあちゃんち食堂)>

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脇本陣は二つあり緑川家と羽田家が、月の半分半分交代で仕事をしていた。羽田元総理も同地方出身で写真が掲載されてあった。
文化、文政のころ870mの宿に72軒もの旅籠があった和田宿であり、街道筋に多数の旅籠が残されるが、僅か観光に訪れる客ぐらいでひっそりとした町並みであった。

本陣の建屋に上がって、からくりやら、漬け物石をのせられた屋根、 色々面白いその姿を確かめた。

中山道を行く「和田宿」 

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