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念願の「金華山」と逢えた

明治14年(1881)2月、中央道巡幸に継いで、馬車で皇居を出発出発された明治天皇御一行は八王子、恩方方面で狩猟をなさって、日野の旧佐藤邸で小休止された後に、連行寺村へ向かったことは既に当ブログの「明治天皇行幸と山岡鉄舟」で書いている。
明治天皇は溺愛した愛馬「金華山」を携え、幕末から維新に駆けめぐった山岡鉄舟を従者として、従え、連行寺村、周辺多摩の山野を駆けめぐった。
四囲が住宅地で開発される中で、都立桜ヶ丘公園として、自然の森がそっくり残されている。
天皇の狩猟天覧は、郊外の狩猟地の一つとして、ここ連行寺村が選ばれ、御前山、大岳山、雲取山など素晴らしい眺望のきく高台にある

天皇が愛馬「金華山」に跨がり、この眺望を楽しみ、兎狩りの一時を此処で過ごされた。
馬を携えた明治天皇も山岡鉄舟も此処に来て、同じ姿を眺めていたのであろう。

Meiten303 旧多摩聖蹟記念館の中央に飾られた明治天皇のご寵愛深く『金華山号』とそれに跨がる明治天皇の姿を拝顔する事が出来た。
明治13年から16年間御料馬として公式行事使われ、名馬の誉高い馬として知られている。
陛下の御乗馬にいつも敬礼の姿勢をとった。 万馬がいななきや突然の砲声や小銃にも驚か動かずに位置を保っているなど「頭部美しく、怜悧沈着で外物に驚かない特質」と評されている。
長寿といえる26歳で死亡し、明治天皇は大変ご悲嘆され、剥製にして主馬寮に置くよう仰せられた。この剥製は神宮外苑の聖徳記念絵画館(以下絵画館)に安置されている。

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絵画館には何度も訪れている。長い武家政治から、維新に向かう歴史的な事実を背景に明治天皇・昭憲皇太后の主な業績が80枚の絵画で描かれている。画廊としても世界第一級の折り紙がつけられと言われ、歴史の紹介記事で何度か目にする絵の原点は此処から生れている。「大政奉還」や「江戸城開城談判」などなど生き生きとした歴史事実を今日に伝える、巨大な絵の前に思わず、吸いよせられてしまう。

そんな80枚の絵のインパクトが大変強く、「金華山」の存在は拝の中では薄かった。
しかし、色々調べるうちに、「金華山」の存在が大きくなり、どうしても、その姿を見たかった
絵画館中央の吹き抜けのホール一角にガラスケース越しに「金華山」の現姿を見ることができた。剥製と隣には骨格がそれぞれ陳列されている。
ああこれが「金華山か~」と剥製を前に、漸くたどり着いた、感慨も一入であった。旧多摩聖蹟記念館の銅像はやはり美術品で如何にも馬体が逞しく、美しく仕上がっているが、絵画館の物は馬脚も太く、短く、全体的にずんぐりしていた。

「クセなきは得がたかりけり 牧場より進めし駒の数はあれども」 
「乗る人の心をはやく知る駒は ものいうよりもあわれなりけり」 
「久しくもわが飼う駒の老いゆくが 惜しきは人に変わらざりけり」 
金華山号は、体躯はさほど大きくない。栗毛の毛艶も鮮麗とは言い難く颯爽とした風姿に乏しかったが、骨格全体のバランスは良かった。「頭部美しく、怜悧沈着で外物に驚かない特質」と評されている。明治天皇が上記の評句がある。
 

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風雨にうたれた沖田総司終焉の地

大凡2カ月前から、四谷地区を中心に歴史旅を計画した。
所が日にちが近づいてくるに従って、どうも週末の天候が怪しくなってきた。
当日の予報は東京地方、昼前後から雨、しかも風雨とも激しくなる。
公募もしたので、日程変更は出来ない。
祈るようにJR中央線信濃町駅から出発。
殆どが創価学会の建物になってしまったが、かっては17代将軍家正公(亀之助)が学んだ2000坪の学問所の紹介から始まる。外苑東通りを西側に旧寺町(左門町)に向かった。

寺町では剣豪榊原鍵吉や「鬼平犯科帳」の「鬼平」こと長谷川 宣以、通称長谷川平蔵。
打ち首同心こと首切り浅右衛門こと山田浅右衛門などの墓参までは祈りが通じたのか、天与の神が救ってくれたのか、傘をさすほどでもなく、歴史旅も順調に済んだ。
しかし、途中で軽く昼食を取り、外苑西通りを越え多武峰神社(内藤神社)辺りからこれ迄の穏やかな曇り空から一変し、雨風が激しく強くなった。
さす傘も吹き飛ばされ、おちょこになったり、風の止む間を見計らって建物の軒先に退避しながら、新宿御苑の柵付近の旧渋谷川の跡を追う。

風雨も激しい中、橋の欄干やかって流れていた川跡を示す、塞がれたトンネルに渋谷川の跡を確かめる。
この渋谷川にかっては川沿いには水車が複数あり、御苑側に黒鉛を突いた水車小屋、更に下流側の池尻橋の近くには米引き用の水車小屋があり、エコエネルギーの先駆け、として、この水流を貴重な動力源として使っていた。
外苑西通りを渡って、池尻橋の対岸に出る。

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沖田総司が匿われていた植木屋平五郎の納屋はこの付近と言われている。
付近はマンションとかって渋谷川の外壁に囲まれ、昼尚暗き、谷間にある。
だんだん強くなる雨、沖田総司が、もうこれ以上近寄るなとの悲痛な叫びとも思えたが、全員の意志は崩れることはなかった。

         <旧渋谷川跡>

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渋谷川の先はマンションの裏手になり、柵が設けられ、鍵がかかっている。
予め見学の主旨を手紙で伝え、許可を頂きこの雨風の中、ご出馬頂き、特別に開けて頂いた。

谷間に風は若干収まり、往事の姿を思い浮かべながら見る事が出来た。
普段、通りから離れた場所だけに、こうした見学機会の巡り合わせに特別な想いでの見学であった。

戊辰戦役に倒幕に勢いを得た薩長軍に対して、幕府も崩れ、最前戦に居た新選組も西から引き揚げる。
慶応4年(1868)1月大坂城から退去した新選組は富士山丸で品川に入港する。近藤と沖田は介護役の隊士と神田和泉橋の医学所に入り、その後、稍福寺の野戦病院に運ばれ 、松本良順の手当てを受けたと思われる。
沖田の謎めいた史実に、終焉の地も、浅草の今戸節とここ千駄ヶ谷(明治の半ば迄は南豊島郡大字千駄ヶ谷村、現新宿区大京町)節がある。
千駄ヶ谷の当地は雑木林に覆われた「御焔焇(えんしょう)蔵」といって幕府の火薬庫、西側には内藤駿河の守の広大な屋敷、南側は雑木林、新政府軍から探索を受けても、隠れ場所はいくらでもあった。

そんな節に行政も動きだし、「総司終焉の地も碑」の建立も噂されたが、沙汰止みとなり、新宿ミュージアムの一環で案内板が建てられるようである。
そんな長い先の話しでも無い様で、果たしてどんな物が用意されるか、改めて見届けたい。

現地の様子はこちらで紹介してます。沖田終息の地

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