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熱く燃えて

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待ちに待った新選組まつり
昨年は3.11の列島を襲った大地震に、何処も、まつりは中止に新選組まつりも見合わせられた。
そんな背景の中で、2年振りのまつり、天気は快晴のお出かけ日和に、街ぐるみ人の渦で大変な賑わいであった。
本陣案内の巡り合わせに、遭遇し、かってない大量な来館者に嬉しい悲鳴をあげながらの一日であった。
朝9時頃の開門前には既に来館者の群れに、少々早めのご案内で始まった。以降次々に押しかける来館者は5時の閉館時間まで、人の渦は切れなく、結局960名近くの大量な入館者であった。
普段は平日は10名前後、休日で100名程度が通例で、4月の累積入場者が約1000名だったことから、ほぼ1カ月分の入場者が1日で来てしまった。
そんな中で幕末の空気が残される建屋の中で、真剣に聞いて頂ける方達との巡り合わせに、熱い語らいは始まった。

嘉永2年(1849)の火事を背景に生れた殺傷事件から、身を守るために剣術の稽古が宿命的に生れ、天然理心流の出稽古を通じて、近藤周助と養子の近藤勇との出会いと深い絆が生れた。
参勤交代の大名を迎い入れる為の建物の格式の世界。
京見回りから、故郷に帰った土方歳三が気持ちよく寝てしまった五月の心地良い風が吹き抜ける玄関の間。

倒幕の嵐の中、鳥羽伏見の戦いで破れ、急遽編成された新選組の生き残りが、甲陽鎮撫隊として、編成され甲府へ目指し、江戸を出発した。慶応4年3月、此処日野宿で休憩し、慌ただしく甲州道を西下したが、勝沼で破れ、江戸へ遁走、勇は捕縛され間もなく処刑された。

戊辰戦争の終末で土方歳三の最期とそれを伝える、市村鉄之介の報告に、徳川の天領地から維新を迎え、日野も大きく変ってゆく。
明治13年、300人以上の大集団をお迎えした明治天皇の京都行幸。
翌14年の多摩地区の兎狩りで訪れた明治天皇と付き添いの山岡鉄舟。その出発の折に愛馬「金華山号」に跨がる明治天皇の姿は旧多摩聖跡記念館に、「金華山号」の剥製は聖徳記念絵画館(明治神宮外苑)に展示の紹介。

明治26年日野の火災により、上段の間は彦五郎の息子の養子先の有山家に譲られた。その有山家が佐藤泰然が創設した順天堂の五代目の堂主である。泰然の息子は松本家に養子に出され新選組とも関わりの深い幕府の侍医「松本順」であり、そんな繋がりの紹介に、驚きの反応もあった。
高幡不動の殉節両雄の碑の書は「松本順」と説明したが、両雄の碑の存在そのものが、殆ど判らず、話が通じなかったのも、現実の姿と思えた。

甲陽鎮撫隊に付いて行ってしまった佐藤彦五郎は官軍に追われる身に、愛妻「のぶ」との五日市の大久野村への逃亡など受難の維新。
「散る雪や柳を見ても梅見ても」彦五郎が残した俳句に明治10年1月愛妻「のぶ」との別れと、残された木枕の話しなどなど幕末から維新にかけた、建物とそれにかかわる人達の足跡を駆け足で一気に、紹介した。

奥の深い、歴史建物だけに突っ込めば突っ込むほど、再現なく、繰り広げられる世界に、限られた時間の中で、どれだけ伝わっただろうか・・・。
切れ目ない来館に大声の発声で喉も、痛く、既に限界、疲労感の中にもやり終えた一日にであった。
駆け足の説明に最後まで付き合って頂いた謝意に、ささやかな拍手に、微力ながら、通じたのか、嬉しかった。

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