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隅田川沿いの幕末の史蹟を行く

隅田川を挟んで幕末の史蹟を歩んでみた。
将軍家鷹狩りから、甲斐甲府藩主松平綱重(つなしげ)の別邸となり、江戸時代の代表的な大名庭園の浜御殿を一回りする。
庭園内を離発着する水上バスに乗って隅田川を上り、浅草へむかう。
折しもスカイツリーの喧騒の中の浅草であったが、ここを潜り閑静な今戸に戊辰の戦いで傷を負い旧幕府軍の将兵を治癒した陸軍病院跡など、見てくる。
両箇所とも、幕府の繁栄から崩壊へを辿る道を今日に語り伝えるようであった。
庭園、江戸湾、隅田川と目の前の情景が変化に富んだ楽しい1日コースであった。

<浜御殿>(現浜離宮恩賜庭園)
◇中島に茶屋

Img_25201111 都内では唯一の海水の池でボラ、セイゴ、ハゼ、うなぎなど海水魚が棲息する珍しい池である。
中島の茶屋は宝永4年(1707)造られ以来、将軍公家が眺望を堪能した場所である。
14代将軍家茂、和宮、天璋院の三人が束の間の幸せをこの中島の茶屋で甘受した場所であった。
皇室の殻を崩さない和宮が武家出身の天璋院から指図を受けることを嫌いトラブルは耐えなかった。
そんな背景の中、和宮が足袋のまま庭に飛び下り、敷石に家茂の草履を取ると言う予想外の行動に篤姫はそれを見て、ようやく、宮も徳川家の人になられたという熱い思いがこみあげてきた。
その家茂も朝廷の威力が増大し、幕権の衰退を背景に京へ上洛し、政変に巻き込まれ、京で病死する。

◇将軍お上がり場

Img_2525111 江戸湾に繋がる海上の出入り口として機能し、幕府200数十年の繁栄と崩壊の歴史のドラマがこの「将軍お上がり場」の石階段を駆け抜けている。
文久3年(1863)を皮切りに家茂が度々、此処から上洛するが、病死し慶応2年(1866)亡骸で帰ってくる。
慶応4年(1868)鳥羽伏見の戦いで破れ、突如、大阪を逃れ品川に幕府軍艦開陽丸に何の前触れもなく戻ってきた徳川慶喜の姿があった。肩を落とし、悄然とこの「お上がり場」の階段を登る、慶喜に最早、徳川の将軍に相応しい威厳も何も無かった。

隣接する場所から水上バスに乗船する。船上から歴史を思い起こす。

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<軍艦操練所>

浜離宮の隣、現在の築地市場のあたりに長崎海軍伝習所から軍艦操練所が創設維新以後この地は海軍省用地となり、海軍兵学校、海軍病院など武術の訓練施設を造った。
<品川沖から艦隊の悲劇>
慶応4年(1868)8月榎本武揚が抗戦の意志を持つ、脱走兵を集め、旗艦「開陽丸」として艦隊を組み品川から蝦夷へ目指す。
榎本艦隊は品川沖を就航間もなく、銚子沖で暴風雨に遭遇し、「美賀保丸」は銚子沖で座礁し沈没溺死する者、捕縛され処刑される。「咸臨丸」は相模湾を漂い、清水港での新政府軍艦から、追討され乗組員を惨殺し36の遺体が清水港に投げ捨てられる悲劇も生まれた。

水上バスは浅草で下船し、隅田川沿いを上流に向かい今戸方面へ向かうと、静かな住宅地になる。
◇稍福寺
慶応4年鳥羽伏見の戦いで破れた新選組は富士山丸で江戸へ引揚げ、品川の釜屋から、神田和泉橋御徒町の医学所、更に稍福寺の野戦病院に運ばれ 、近藤勇と沖田総司は松本良順の手当てを受けたと思われる。病舎を作って急遽幕府側陸軍病院(野戦病院)と成った所である。

◇今戸神社

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今戸の神社の境内の隅に自分の宿舎を建て良順は住み稍福寺に病舎を作って陸軍病院(野戦病院)として、自分の所に居る患者達も一緒に連れて其処に移し、良順は病舎と宿舎間を往復した。
沖田終息の地の碑が立っているが、永倉新八の「同志連名記」から「浅草今戸の松本良順先生宿にて病死」が一つの拠り所になっている。但し、沖田総司は5月に亡くなっているが、肝心の松本良順は4月から9月迄の5カ月間は今戸には不在であり、当地の死亡説は疑問とされている。

今戸神社から再び、浅草方面へ向かう。
戊辰戦争など幕府を支えた浅草弾左衛門の居住地跡付近に皮革加工屋など見ることができる。檀家寺の本龍寺で弾左衛門(矢野家)の墓をご住職の家族に教えて貰い、墓前で手を合わせる。
言問橋を渡り、アサヒビールの建屋近くに勝海舟の銅像前に到着する。
タフなコースであったが、たっぷり楽しむ事が出来た。
詳細は以下でご案内

浜御殿と江戸湾

今戸に総司を追って

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