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「船中八策」と赤松小三郎

◇現代でも持て囃される「船中八策」
選挙が総て、己の保身のみに走り、国民不在、停滞した政治に、もううんざりする。
国難とも言うべきこの時期に、大阪の維新の会 橋下徹代表は、次々と大胆な提案をしている。
その一つに幕末期に坂本龍馬が起草したとされる国家構想「維新八策」が出ている。
中身が見えないまま、心地よい言葉の響きに現代版「船中八策」が一人歩きし、龍馬人気にあやかっているようで、 草葉の陰で、龍馬も嘆いているのではなかろうか。
さて、その「船中八策」は生れる過程は多くを語り伝えれているが、その原本となるべき、建白書を作った人物が居た。
龍馬程、多くを語られず、郷土史家で取り上げられる程度で、埋もれた人物「赤松小三郎」に、光を当ててみた。

              <赤松小三郎>

Sentyuhassaku201
◇海野宿で「赤松小三郎」(小三郎)と出会い
昨年(2011年)北国街道の海野宿に行きそっくり江戸の文化残される、建物で気抜きと卯建は印象的であった。
観光客も少なく、閑散した海野宿の一画に「贈従五位赤松小三郎君之碑」と巡り逢える。
上田藩出身の小三郎は勝海舟と出会い、長崎海軍伝習所の伝習生の一人でもあったが、近代兵学や教育の先駆者でもあった。小三郎が松平春獄に出した建白書が時代を先読みした、国家構想が「船中八策」の原本の一つともされている。

         <海野宿の一画に「贈従五位赤松小三郎君之碑」>Sentyuhassaku401

◇「船中八策」
「船中八策」は、幕末の志士・坂本龍馬が慶応3年6月、土佐藩船「夕顔丸」で上洛中の洋上で策定した新国家体制の基本方針である。
後藤象二郎は、龍馬の提案とされる船中八策に基づいて大政奉還建白書を提出。将軍・徳川慶喜は受け入れ大政奉還を行った。
上田の一藩士である赤松小三郎が既に作成した「御改正之一二端奉申上候口上書」が「船中八策」の内容に酷似していると言われているが、小三郎の話は殆ど出て来ない。

◇赤松小三郎
天保2年(1831年)4月4日 上田藩士芦田勘兵衛の次男として生まれ、清次郎と名付けられる。後、同藩士赤松弘の養子となり名を小三郎と改める。
上田藩主の松平の意志もあって、兵学・数学測量・医学など藩の熱心な教育環境の中で小三郎も藩校明倫堂で教育を受ける。
嘉永元年(1848)江戸に出て、和算・天文・測量・歴学・地理・蘭学・砲術を学ぶ。
安政2年(1865)勝海舟に随行して長崎海軍伝習所に行き、オランダ人より蘭学・英学・兵学・航海術を修める。
横浜在住のイギリス騎兵士官より騎兵術、英語を学ぶ
慶応元年(1865)英国歩兵練法を出版する。
慶応2年(1866)より、京都に居を移し、私塾「宇宙堂」を開き、英国式兵学を教える。
慶応3年(1867)京都市内で暗殺される。

◇豊かな才覚
小三郎の豊かな才覚は蘭語や英語など語学が遺憾なく発揮され、長崎海軍伝習所や横浜の外人居留地などでイギリス人やオランダ人と自由に意思疎通が出来、ヨーロッパの近代科学の基礎から応用まで、知見を深めた。
長崎にいた4年間で蘭語の原書を74冊も読破し、一緒に参加している伝習生のためにテキストの翻訳までやっている。

◇私塾「宇宙堂」の活躍
慶応2年(1866)より、京都に居を移し、私塾「宇宙堂」を開き、英国式兵学を教える。
門下生には、薩摩・肥後・会津・越前・大垣などの各藩士から新選組の隊士までが含まれており、後の戊辰戦役の幕府軍側や相まみえる倒幕側の藩士が呉越 同舟状態で学んでいた。
薩摩藩は英国の近代軍備を学ぶため 慶応3年(1867)薩摩藩は京都の薩摩藩邸で小三郎を兵学教授として招き、英国式兵学塾を開講した。門下生には、大日本帝国陸軍の幹部となった東郷平八郎、野津道貫、など次世代を担う人物がbなど門下生は約800人に及んだ。
     
◇建白書の提出
慶応元年(1865)第二次長州征伐には幕府の総力を上げ、長州鎮撫に動員されている。
小三郎はこの第二次征長の役に関しては、「勝算がなく、負けるのは当然だ」と幕府に向かって堂々と主張し、幕政改革の必要性を説いている。
小三郎の主張は天皇家と幕府を合体させて平和的な政権を作るという意味の「天幕一和」であった。
日本人同士が争う愚かさを説き、幕府に大政奉還させて、平和的に新体制に移行させる思想を遂行することであった。
こうした主張で各藩が赤松小三郎に注目するようになり、越前の松平春嶽は使いを出して小三郎に建白書の提出を求めた。
一方、薩摩藩では武力で持って王政復古の断行が決議され、倒幕が必要と固まっていた。従って薩摩藩が倒幕の意向を貫くためには小三郎の存在そのものも、邪魔だったのであった。

◇小三郎の殺害
薩摩藩は小三郎を自藩の兵学教授として招きながら、藩の意向を真っ向から背く「危険な人物」として考え、たちまち世の中からも抹殺してしまう人物に仕立て上げてしまう。
小三郎の評判が高くなるにつれて他藩はもちろんのこと、幕府や会津藩までもが小三郎を招こうとするに及んで、薩摩藩は警戒心を強めた。
慶応3年(1867)9月3日、赤松小三郎は上田藩からの帰国命令を受けて帰藩することになった。その前日の2日の夜に薩摩藩の門下生の有志が集まって、送別会が開かれた。9月3日、小三郎は京都市内で知人に帰国の挨拶をして回っているときに白昼暗殺された。下手人は明治時代になっても判らず、昭和になって明らかになった。
「桐野利秋」こと、薩摩藩士の中村半次郎は日記に赤松小三郎を同僚と2人で暗殺したということを書いている。

暗殺した理由は、赤松小三郎は「佐幕派」であるというものである。
半次郎が、考え方の差から自らの意志で「宇宙堂」の恩師に刃を向け小三郎を斬ってしまうことは考えにくい。倒幕の意志に傾注する藩の意志に背くことは出来ず、その藩命から凶刃を振るったのではなかろうかと考えられる。
当時の事件に関し、以下のことが明らかにされている。
悪者を斬り殺すと理由を書いた斬奸状を2種類書いて市中に貼り出している。
葬儀に当って150両もの高額な弔慰金を贈り、兵学塾の門下生全員が葬儀に出席している。
慶応3年12月に旧幕府軍側の会津藩の本陣である、京都金成光明寺に小三郎の墓と碑を建立しているのも異質である。
などなど、明らかに組織的な事件であったことが判る。

詳細については以下で紹介している

船中八策を生んだ「赤松小三郎」

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夏休みの宿題

             <本陣、中庭>01130031

8月を迎え日の入り時間がめっきり早くなった。
猛烈な暑さは相変わらずであるが、朝晩は多少の冷気にホットさせられる。
担当の都合で急遽本陣の出番となった。

平日であるが学校は夏休み、こんな時期にはお父さんは会社で汗をかいて、いるので、お母さんと子供の連れ合いが、何時になく多い。
そんな連れ合いに、お母さんは独身時代からの暦女で子育の忙殺から開放され、せめて子供達に夏休みの宿題をかねて、やってくる。もとより暦女として深めた知見を背景に自分も楽しみ、歴史の仲間作りに、子供を連れてくることも多い。

小学1年生と5年生の男の子と母親の連れ合いでやってきた。
恐らく母親が無理きり引っ張り、やってきたと思いつつ、訪ねたら、いやいや、当方の全くの見当違いであった。
5年生の子が歴史好き、母親は元より歴史は理解するものの、子供にせがまれ只付いてきただけであった。

小さなノートとエンピツを持ち、一生懸命メモを取っていた。
そんなひたむきさに、心打たれ、案内する言葉も、選びメモ書きに合わせ、ゆっくり案内した。
専門的な言葉は、敢えて文字を書き、話が一方通行にならないよう心がけた。
こんな事が出来るのも、平日で、来館者も少ないために、こんなことも出来る。

このお兄ちゃんの姿に、影響されたのか、1年生の子も、普段無縁な世界の話しに退屈の余り、散漫となりがちであるが、広々とした畳みで暴走せず、しっかりお兄ちゃんの後を追っている。
何ともしっかりした男の兄弟に家族の躾けが、備わった麗しい親子連れであった。

折しも、幕末に信州の上田藩の熱心な教育環境の一つ藩校明倫堂で才覚を磨かれ上田藩の一藩士赤松小三郎姿が重なってくる。
小三郎は江戸に出て勝麟太郎(海舟)の門に学び、安政2年(1865)勝海舟に随行して長崎海軍伝習所に行き、オランダ人より蘭学・英学・兵学・航海術を修める。
京都に移り、私塾「宇宙堂」を開き、英国式兵学を教える。

門下生には、薩摩・肥後・会津・越前・大垣などの各藩士から新選組の隊士や、日露戦争など近代戦役における軍幹部となった、薩摩藩士の面々も含まれる。

小三郎は幕政改革に建白書を松平春嶽に提出しているが、その考え方が龍馬が作った船中八朔のひな型とも言われている。
小三郎の時代を越えた先読みは広く評価されたが、倒幕に傾注する薩摩藩に時代の逸材は抹殺されてしまう。

謂わば隠れた時代のヒーロであるが郷土史家が取り上げる程度で、龍馬人気の陰に、余り表には出てこない。

しっかりとメモを取り、学ぶ姿は小三郎の少年時代の姿を想い浮かばれる。
そんな小三郎は以下で書いてみた。

船中八朔を生んだ「赤松小三郎」

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