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お十夜

Image1国時代末期小田原城主北条氏康の子氏照が関東の西の守として八王子城を築いた。
大善寺は、天正13年八王子城主北条氏照の命により自身の菩提寺として讃誉牛秀上人を開山として滝山城下に創建された。

その後、城を元八王子に移し、八王子城とし、大善寺も一緒に移る。
城は山頂に本丸、ふもとで政務を行い、客を迎える御主殿、城山川を堀とした自然立地を活かした山城であった。
しかし天正18年(1590)豊臣秀吉の関東征伐で猛攻にあい、わずか1日で落城、北条方3~4000とも言われる兵が殲滅した。
八王子城が落ち、北条氏政、氏照兄弟は切腹する。
血で染まったと言われる滝壺、八王子城で討ち死にした武士の供養塔と言い、戦場の痕跡が残されている。

Img_3362 亡くなった方に対してあるいは非業の死をされた方に対して敬意を払いながら祀っていき、近郊近在の参拝者と共に八王子城落城の戦死者を弔う「お十夜」が市内の名物行事として、三百年余の歴史と伝統をもつ行事が大横町時代まで続けられた。
現在地の大谷に移ってから、50年振りと言われる「大善寺十夜大法会」が10月20日に開かれ、早速行ってみた。
大善寺は八王子駅から北に真っ直ぐ、市街地を抜け浅川大橋を渡り、緩斜面を登り緑の濃い小宮公園の一画にある。
大人も子供も家族連れで、この道で続々と詰めかける。駅から一直線、日和も良かったので3、40分程で付いてしまった。
道の途中に係員がお十夜の行きの誘導をしており、大変心強かった。

◇葵の御紋
屋根瓦始め、本堂には葵の御紋が飾られてるのは江戸時代に徳川家康公以来の幕府の保護による御朱印(領地)を承っている。大善寺は徳川家の檀家寺である増上寺をトップにした壇林(僧侶養成の場、学問所)住職の法系図に繋がっており、浄土宗の関東十八の一つとして、僧侶のみならず政財界に幾多の人材を輩出している。
このように葵の御紋が密接な繋がりを表している。

◇仁王像
仁王像は江戸時代中期に製作されたと言われている。
特に張り出した腹、胸部は力感に溢れ、鋭い眼光とも合わせ逞しく、外部からの魔物を追い払い門前役を務めていた。
昭和37年の大横町時代は山門の両脇にはこの金剛力士像が300年近く、お寺を守って居た。
色々仁王像は見たが、外部に晒されていることもあって、埃を被り金網越しに、色つやを失い、かなり風化している。
手入れもされたか、つやつやした輝いた姿を目の前で見るのは初めてで迫力があった。

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本堂前の広場ではお十夜にちなんで賑やかにライブが開かれていた。

お十夜太鼓、講和、嘉門達夫のトークライブに大人も子供も大善寺に集まり、物凄い賑わいを見せていた。

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荘重なお十夜の儀式をイメージしたが、まあともかく祭りの復活というところなのであろうか・・・。

講和では第三代住職を務めた呑龍(どんりゅう)上人が江戸初期に、飢餓に喘ぐ中で国の禁を犯してまでも恵まれない子供を育成し、「子育て呑龍」の住職の話しに心をうった。

大変爽やかな季節、小宮公園の深い緑、八王子の繁華街から、歩いて行ける所に豊かな自然の中の大善寺であった。

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四谷・千駄ヶ谷に取りつかれ

千駄ヶ谷駅でティッシュペーパに吊られて不動産の広告紙を受け取った。
「外苑ビュウー、美しき社との響きあう、最愛の都心へ」とまあ、購買意欲をかき立てられる綺麗な言葉が書き並べられている。
都市開発がどんどん進められる中で、神宮外苑、新宿御苑、明治神宮と緑の濃い、自然に覆われた環境が守られている。
そんな環境の中、幕末を飾る歴史が多数あり、それを繋ぎ合わせると、格別なコースメニュウが生れ、大好きなコースの一つである。
その幅広い歴史遺稿は当ブログやホームパージでも既に紹介しているが、その関わる人物が剣客榊原鍵吉、新選組の沖田総司あり、天璋院篤姫あり、話題に事欠かない。最後は大政奉還など幕末から維新にかけての国の行く末を決める80枚の歴史的な有名な絵画の絵巻物を絵画館で堪能し歴史旅を締めくくることが出来る。

ひょんなご縁から、わざわざこの日の為に京や、首都圏から来られた幕末に造詣の深い暦女達とこの歴史の遺稿を確かめ会い、何度目かの町巡りを楽しむことが出来た。

□寺町の左門町
信濃町駅から左門町へ、路地に入ると車が来ると人が道脇に避け、漸く通り抜けられる狭い道にぎっちりと寺が密集している。

           <かっては寺町として賑わい見せた道>

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◆何故寺町が生れたのだろうか
この夥しい寺群は江戸城西北に外堀を設置することになり、立ち退きを余儀なくされた麹町地区の寺社群が四谷地区に移転し、須賀町・若葉二丁目(かつての寺町・南寺町)一帯に寺院が多く見られるのはこの集団移転によるものである。外堀は堀の岸は石垣で築かれ、併せて見附(警備のための城門)が設けられた。今日、JR四ッ谷駅付近に見られる四谷見附跡(千代田区六番町)は当時の名残のひとつである。寺院の移転と見附の設置により、四谷地区の様相は一変した。
寺院の周辺には門前町屋が軒を並べ、商人職人の活動が栄えたようである。

◇コースでの一番の人気は
幕末から明治にかけて活躍した、「最後の剣客」といわれた榊原鍵吉の西應寺。「鬼平犯科帳」の「鬼平」で世に知られる長谷川 宣以、通称長谷川平蔵は「戒行寺」等がある。何と言っても刀の切れ味を試す「御佩刀(ごはいとう)御様(おためし)御用」を代々勤めていたが、その後斬罪人の処刑を行う「打ち首 同心」の山田浅右衛門「勝興寺」が一番印象的であったようである。

日野宿佐藤源之助(彦五郎の長男)が東征軍に捕まり、刀を奪われただろうと、歳三から贈った「越前康継」は名刀の一つである。中子に書かれている裏名に「山田浅右衛門」が試し斬りされた、日付と場所が書かれている、そんな身近な所に浅右衛門が居る。

◇お岩さんで願掛けて
路地から分岐して、住宅地の一画に旗がはためくはめくお岩稲荷神社へ向かう。お岩さんの美徳から福を招き、お岩の幸運にあやかろうと、心願成授の石にそれぞれ願を掛ける。皆さん、叶玉を買い、石に入れるが、はてさて、何を掛けたのであろうか?

□左門町から内藤神社へ
左門町から離れて内藤町に向かい、外苑東通り渡ると「習成館道場」がある。
勝海舟が命名した「鞍馬流」「習成館道場」が今なお健在であり、大きなお面のモニュメントに思わず歓声があがる。剣術の名残が未だしっかり、継承され、武家世界が漂っている。

◇多武峰(とうのみね)神社(内藤神社)
内藤清成は白馬に跨がり、現在の新宿御苑内の榎を中心に駆けだし、家康との約束で、その土地を与えられ、その縁の白馬堂がある。
内藤家を受け継ぐ17代の当主である内藤頼誼氏が今でも内藤町にお住まいになっている。
当主たりとも下屋敷(御苑)に入るにはしっかりと入園料を払っていると、ブラタモリで紹介されていた。

◇沖田終焉の地を語り告げる乏しい物証

                <外苑西通りと渋谷川跡>

0310009311沖田終焉の地は当ブログでも紹介しており、細かい説明は割愛する。
終焉の地の縁の渋谷川の川沿いに、かっては水車が複数あり、御苑側に黒鉛を突いた水車小屋、更に下流側の池尻橋の近くには米引き用の水車小屋があり、川は外苑西通りを渡って、池尻橋の対岸に出る。
その渋谷川は埋設されており、池尻橋も外苑西通りを挟んで両側に欄干が残され、僅かにその跡を確かめる事が出来る程度で、その場所探しは初めて来る方には中々、難しい。
そんな背景の中、内藤神社の近くで石垣を背に「鉛筆の碑」が立っている。黒鉛を突いた水車小屋の存在を示す案内板もあり、川に残される痕跡が乏しい中で貴重な存在と言える。

□旧徳川邸跡
千駄ヶ谷駅前に出る。
千駄ヶ谷駅から向かって正面に津田塾がありその背後に徳川の旧邸があった。明治16年(1883)天璋院は49歳で此処で逝去する。
新邸は旧邸の東側(現在の体育館側)に大正6年建てられた。
江戸市内を数多く「お移り」をしており、芝の薩摩藩邸、に始まり渋谷の別邸、大手町の一橋邸、築地の一橋下屋敷、青山の紀州邸、戸山の尾州邸、赤坂の相良(さがら)邸、最後は千駄ヶ谷の紀伊邸等々十指に余る。
明治10年(1887)に13代将軍御台所の「天璋院」、14代将軍家茂の生母「実成院」らが移ってくる。
旧邸、新邸併せてその影さえ総て消え去って居る中で、旧邸の母屋付近と言われる場所に明治20年明治天皇が行幸された碑が立っている。

            <明治天皇行幸の碑>

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書籍等では紹介されているが、塀越しに僅かにその姿を発見した時は鳥肌ものであった。
「ああ、ここに「天璋院」が」その姿を認めた。
「家達の跡取りが生れたら、島津家から嫁をもらうように」と遺言を残していった。17代将軍を継ぐ家正は明治17年誕生し、成人後薩摩藩主の娘「正子」を迎え「天璋院」の遺志は継がれた。

□聖徳記念絵画館
明治14年(1881)2月、兎狩りで日野にも訪れ、明治天皇は溺愛した愛馬「金華山」の剥製も展示されている。その幻の存在であったが、胴回りも太めでごっつい感じの「金華山」との対面に皆、感動していた。
大政奉還、鳥羽伏見戦、江戸開城談判、大阪行幸、諸藩軍艦御覧、西南役熊本籠城、馴染みの深い絵物語に時代を追って、一巡し幕引きを飾った。
蒸し暑い館内に来館者も多く、賑わっていた。
目一杯汗をかき、喉が乾き、信濃町で反省会。喉を潤し、幕末談義に花を咲かせた。

四谷大番町・千駄ヶ谷 で紹介してます

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