« 「ようこそ幕末の世界へ」ご案内 | トップページ | お十夜 »

四谷・千駄ヶ谷に取りつかれ

千駄ヶ谷駅でティッシュペーパに吊られて不動産の広告紙を受け取った。
「外苑ビュウー、美しき社との響きあう、最愛の都心へ」とまあ、購買意欲をかき立てられる綺麗な言葉が書き並べられている。
都市開発がどんどん進められる中で、神宮外苑、新宿御苑、明治神宮と緑の濃い、自然に覆われた環境が守られている。
そんな環境の中、幕末を飾る歴史が多数あり、それを繋ぎ合わせると、格別なコースメニュウが生れ、大好きなコースの一つである。
その幅広い歴史遺稿は当ブログやホームパージでも既に紹介しているが、その関わる人物が剣客榊原鍵吉、新選組の沖田総司あり、天璋院篤姫あり、話題に事欠かない。最後は大政奉還など幕末から維新にかけての国の行く末を決める80枚の歴史的な有名な絵画の絵巻物を絵画館で堪能し歴史旅を締めくくることが出来る。

ひょんなご縁から、わざわざこの日の為に京や、首都圏から来られた幕末に造詣の深い暦女達とこの歴史の遺稿を確かめ会い、何度目かの町巡りを楽しむことが出来た。

□寺町の左門町
信濃町駅から左門町へ、路地に入ると車が来ると人が道脇に避け、漸く通り抜けられる狭い道にぎっちりと寺が密集している。

           <かっては寺町として賑わい見せた道>

12200066

◆何故寺町が生れたのだろうか
この夥しい寺群は江戸城西北に外堀を設置することになり、立ち退きを余儀なくされた麹町地区の寺社群が四谷地区に移転し、須賀町・若葉二丁目(かつての寺町・南寺町)一帯に寺院が多く見られるのはこの集団移転によるものである。外堀は堀の岸は石垣で築かれ、併せて見附(警備のための城門)が設けられた。今日、JR四ッ谷駅付近に見られる四谷見附跡(千代田区六番町)は当時の名残のひとつである。寺院の移転と見附の設置により、四谷地区の様相は一変した。
寺院の周辺には門前町屋が軒を並べ、商人職人の活動が栄えたようである。

◇コースでの一番の人気は
幕末から明治にかけて活躍した、「最後の剣客」といわれた榊原鍵吉の西應寺。「鬼平犯科帳」の「鬼平」で世に知られる長谷川 宣以、通称長谷川平蔵は「戒行寺」等がある。何と言っても刀の切れ味を試す「御佩刀(ごはいとう)御様(おためし)御用」を代々勤めていたが、その後斬罪人の処刑を行う「打ち首 同心」の山田浅右衛門「勝興寺」が一番印象的であったようである。

日野宿佐藤源之助(彦五郎の長男)が東征軍に捕まり、刀を奪われただろうと、歳三から贈った「越前康継」は名刀の一つである。中子に書かれている裏名に「山田浅右衛門」が試し斬りされた、日付と場所が書かれている、そんな身近な所に浅右衛門が居る。

◇お岩さんで願掛けて
路地から分岐して、住宅地の一画に旗がはためくはめくお岩稲荷神社へ向かう。お岩さんの美徳から福を招き、お岩の幸運にあやかろうと、心願成授の石にそれぞれ願を掛ける。皆さん、叶玉を買い、石に入れるが、はてさて、何を掛けたのであろうか?

□左門町から内藤神社へ
左門町から離れて内藤町に向かい、外苑東通り渡ると「習成館道場」がある。
勝海舟が命名した「鞍馬流」「習成館道場」が今なお健在であり、大きなお面のモニュメントに思わず歓声があがる。剣術の名残が未だしっかり、継承され、武家世界が漂っている。

◇多武峰(とうのみね)神社(内藤神社)
内藤清成は白馬に跨がり、現在の新宿御苑内の榎を中心に駆けだし、家康との約束で、その土地を与えられ、その縁の白馬堂がある。
内藤家を受け継ぐ17代の当主である内藤頼誼氏が今でも内藤町にお住まいになっている。
当主たりとも下屋敷(御苑)に入るにはしっかりと入園料を払っていると、ブラタモリで紹介されていた。

◇沖田終焉の地を語り告げる乏しい物証

                <外苑西通りと渋谷川跡>

0310009311沖田終焉の地は当ブログでも紹介しており、細かい説明は割愛する。
終焉の地の縁の渋谷川の川沿いに、かっては水車が複数あり、御苑側に黒鉛を突いた水車小屋、更に下流側の池尻橋の近くには米引き用の水車小屋があり、川は外苑西通りを渡って、池尻橋の対岸に出る。
その渋谷川は埋設されており、池尻橋も外苑西通りを挟んで両側に欄干が残され、僅かにその跡を確かめる事が出来る程度で、その場所探しは初めて来る方には中々、難しい。
そんな背景の中、内藤神社の近くで石垣を背に「鉛筆の碑」が立っている。黒鉛を突いた水車小屋の存在を示す案内板もあり、川に残される痕跡が乏しい中で貴重な存在と言える。

□旧徳川邸跡
千駄ヶ谷駅前に出る。
千駄ヶ谷駅から向かって正面に津田塾がありその背後に徳川の旧邸があった。明治16年(1883)天璋院は49歳で此処で逝去する。
新邸は旧邸の東側(現在の体育館側)に大正6年建てられた。
江戸市内を数多く「お移り」をしており、芝の薩摩藩邸、に始まり渋谷の別邸、大手町の一橋邸、築地の一橋下屋敷、青山の紀州邸、戸山の尾州邸、赤坂の相良(さがら)邸、最後は千駄ヶ谷の紀伊邸等々十指に余る。
明治10年(1887)に13代将軍御台所の「天璋院」、14代将軍家茂の生母「実成院」らが移ってくる。
旧邸、新邸併せてその影さえ総て消え去って居る中で、旧邸の母屋付近と言われる場所に明治20年明治天皇が行幸された碑が立っている。

            <明治天皇行幸の碑>

Img_2768111 

書籍等では紹介されているが、塀越しに僅かにその姿を発見した時は鳥肌ものであった。
「ああ、ここに「天璋院」が」その姿を認めた。
「家達の跡取りが生れたら、島津家から嫁をもらうように」と遺言を残していった。17代将軍を継ぐ家正は明治17年誕生し、成人後薩摩藩主の娘「正子」を迎え「天璋院」の遺志は継がれた。

□聖徳記念絵画館
明治14年(1881)2月、兎狩りで日野にも訪れ、明治天皇は溺愛した愛馬「金華山」の剥製も展示されている。その幻の存在であったが、胴回りも太めでごっつい感じの「金華山」との対面に皆、感動していた。
大政奉還、鳥羽伏見戦、江戸開城談判、大阪行幸、諸藩軍艦御覧、西南役熊本籠城、馴染みの深い絵物語に時代を追って、一巡し幕引きを飾った。
蒸し暑い館内に来館者も多く、賑わっていた。
目一杯汗をかき、喉が乾き、信濃町で反省会。喉を潤し、幕末談義に花を咲かせた。

四谷大番町・千駄ヶ谷 で紹介してます

|

« 「ようこそ幕末の世界へ」ご案内 | トップページ | お十夜 »

09、四谷・千駄ヶ谷歴史散策」カテゴリの記事

コメント

遅くのコメントとなり申し訳ございません。
こちらのブログで今年を振り返らせていただきました。暑い中、大変興味深い幕末史跡めぐりとなり、とても勉強になりました。ありがとうございました。今後もブログ、幕末めぐりとお世話になりますがよろしくお願いいたします。

投稿: あおさわ | 2012年12月29日 (土) 22時33分

あおさわさん
明けましておめでとうございます
隠れ新八などハンドルを使ってます
ホームパージとここブログで
ちょっと無理して、記事書きに
生きも絶え絶え繋いでます。(笑い)

平時のコメントも少ないため、ついつい見送っていました。すみません。

今年も色々幕末に花を開きましょう
ようやっと大河ドラマも幕末に「八重の桜」を楽しみにしております。
宜しくお願いします。

投稿: 隠れ新八 | 2013年1月 2日 (水) 06時24分

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.f.cocolog-nifty.com/t/trackback/211410/47289306

この記事へのトラックバック一覧です: 四谷・千駄ヶ谷に取りつかれ:

» ケノーベルからリンクのご案内(2012/10/03 08:42) [ケノーベル エージェント]
千代田区エージェント:貴殿の記事ダイジェストをGoogle Earth(TM)とGoogle Map(TM)のエージェントに掲載いたしました。訪問をお待ちしています。 [続きを読む]

受信: 2012年10月 3日 (水) 08時42分

« 「ようこそ幕末の世界へ」ご案内 | トップページ | お十夜 »