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白河口から会津へ

            <紅葉の蔭に青葉城>Img_34511111111

戊辰戦争の流れに沿って、2日間、白川城、鶴ヶ城とその周辺を地元に実家を構えるE大兄のきめ細かなアレンジでミニバスで遊覧した。
自分の庭先とまではとは言えないが、勝手知ったる土地を背景に戊辰役と言う歴史をターゲットに意のままに道先案内頂き大変過福な旅であった。

そんなE大兄の会津に対する思い入れはこんな所から生れている。
因みに6月(2012年)にTBSで放映された「ヒストリー函館の歳三」に繋がっている。。
旧幕府軍は戊辰戦役で函館で破れた。旧幕府軍を率い 最後まで戦った榎本武揚は降伏した後は江戸で獄中生活をした。
当然、処刑も考えられたが助命嘆願したのが新政府軍の総攻撃を指揮した黒田清隆。
海外から吸収した知識、特にヨーロッパの近代農業がこれからの日本に必要だ、しかもその方法が粋だ、丸々のつるつる坊主姿で各所に榎本を助けてくれと触れ回る。この熱意が伝わって榎本の命が助かった。

榎本は新政府だけに留まらず、行き場を失った旧幕臣達の師弟の教育に尽力した。そこで造ったのが徳川育英会育英校農業科は後の東京農業大学であった。榎本が生き延びなかったら、名物の大根踊りも存在しなかった。
榎本は行き場を失い路頭に迷う3万人の旧幕臣他を救うため、手を尽くす。
その一つが師弟の教育で、そこで作ったのが「徳川育英会育英校農業科」なんとE大兄の尊母校である。

しかしそれだけに留まらず、県立会津高等学校も出身母校である。
県立会津高等学校は戊辰戦争後の会津の再興には若人への教育が欠かせないと、時の文部大臣(第二代)榎本武揚が動き、明治天皇から御下賜金三百円を受けた。会津では山川浩、山川健二郎、高木盛之輔といった人たちの尽力で、旧藩士らが国からの就産金を贈り、幾多の変遷を経て誕生している。
つまり、E大兄は戊辰戦役後、榎本武揚や旧幕臣達の遺構を受け継いでおられる。

会津に生れ育ち、先人の遺産を受け、純粋培養された生粋の会津人なのである。
時代が遡れば恐らく会津藩校の日新館へ通い、英才教育を受けていたのではなかろうか。

不案内な場所探しに神経を使うことなく、バスに載せられるまま、広範囲な場所を濃密に戦域跡を辿った。併せて旧幕府軍として参加した新選組の屯所も土方歳三と最後は別れて行った斉藤一(山口)のそれぞれの抗戦場所も辿れる贅沢な旅であった。
会津市内で遠巻きに市街地を眺望しながら、E大兄の意のままバスは駆けめぐる。走るバスの車窓から遥か彼方に1樹齢数百年の巨木が僅かに確かめられる。「あの木も敷地内にあり、代々守ってきたがその下にある家が実家である。」と紹介され、由緒ある家であることも確かめられた。

戊辰役では激しい両軍の砲弾の嵐の中、噴煙に包まれ、恐怖の毎日にの真っ只中にあったことは紛れもない事実であろう。

二日間の目まぐるしい旅は昨年の東日本大地震は内陸部だけに津波の被害は無かったが、深い傷跡は未だ消えていない。
白河城の石垣は大きく崩壊しており、大小の石を一つ一つ積み上げる昔ながらの工法で積み上げにとてつもない時間がかかりそうである。今回の旅の二つの拠点でもあった白川城と鶴ヶ城ではあったが、その片側の白河城は優美な外観を工事中の柵越しから臨むだけで、内部には残念ながら入れなかった。

            <男装の新島八重>Img297

そんな背景の中、来年の大河ドラマ「八重の桜」が予定されている。新島八重が断髪、男装して会津城で籠城し、スペンサー銃を取って果敢に戦った。京都で同志社創設者、新島襄と結婚、後に日清、日露篤志(とくし)看護婦として従軍した。

激動の時代を生き抜いた「ハンサムウーマン」と称される躍動的な姿があちこちで紹介され、「八重」さんブームに復興の期待も掛けられている。

両日の旅紀行は以下で紹介してます。ご覧下さい

ようこそ幕末の世界へ

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東山温泉で歳三の気も

Image11        <東山温泉 「原瀧」 野天風呂>

長い長い猛烈な暑い日が続いたが、秋を通り越して、一段と寒くなってしまった。
身勝手な温度急変に体が付いて行けず、あちこちにマスクの姿が見受けられるようになった。
一気の温度の急変は腰が重く、座ったたり、立ち上がったりは腰に負担がかかる。
前々から予定していた、白河、会津行きは、そんな変調の中、まあ何とかなるだろうと、参加した。
長い時間の着座はそれ程、苦にならないが、車から降りて、歩く時は腰をかがめ、まったくのじいさんそのものであった。
腰をかがめ、案内されるまま何とか白河の拠点を廻った。

戊辰戦争の1日の戦いで両軍合わせて1000人近くが亡くなる激戦地の白河口を廻り、墓石や碑の渦であった。
会津から駆けつけ、斉藤一、率いる再編成の新選組のデビュウ戦の姿も追った。
その時、歳三は会津に居たが、治癒に専念していた。

歳三の傷は戊辰の戦いで宇都宮まで遡る。
新政府軍は宇都宮城の攻防戦で一度落とされた城を奪環すべく、城下の西で 激しい攻防戦でかなりの死傷者が出た。その時歳三は足の指を銃創する重傷を負い戦線を離脱する。新選組隊士に介護され今市に搬送される。
負傷した会津藩士秋月登之助と会津入りし、田島陣屋で別れ、6人の隊士と城下七日町、清水屋に行く。
深い傷を負った歳三は約3カ月を戦線の第一線を外れ、治癒に専念し、 東山温泉でも、しばしば療養に訪れた
歳三の姿を目撃した人も多いと言われている。
湯にうたれ、治癒する傍ら、戊辰の戦いで、東西を目まぐるしく駆けめぐった足跡を振り返りながら、束の間の休息を取り、明日の英気を養ったのでは無かろうか。

新選組が会津から出陣し、白河へ。新政府軍に白河城を奪取され、新選組は敗退し、再び福良へ滞陣している。
その福良から出発した車は国道49号線で猪苗代湖の西側の湖岸沿いを走り、今晩泊まる東山温泉へ向かう。
歳三が傷を癒したのは会津藩の座敷役場を兼ねた旅館「瀧の湯」(のちの旅館 松島、現在の「庄助の宿 瀧の湯」)であった


凄い賑わいに予約取れず、同じ東山温泉の「原瀧」であったが、同じ源泉であるから歳三と一緒の湯の仲間と思えば良し。
「ああ~これで、会津で身も心も、同じ湯船で」幕末の歳三の想いを重ねながら、湯に浸った。
日野に住み、一度は来たかった東山温泉、ようやく念願叶った、贅沢の一時であった。

硬くなった筋肉が、湯の温もりで温まり、腰痛の痛みが湯に浸かっている間は忘れさせた。
歳三同様、長期間の治癒にこのまま湯治の世界にと思ったが、団体旅に許せなかった。
歳三の気合を貰い、治癒されと思ったが、やはり甘かった。再び腰を曲げての旅であった。
そもそも心がネジ曲がり、体も歪んでしまったのであろうか?
生活も性格も改善しないと、根治は難しいとの結論であった。(笑い)

以下の紀行文から

白河口の戦い

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