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腰痛に思う、3人の幕末の人物

急激な寒さで変調をおこし、通院するも腰痛は一向に見通しがたたない。
整骨院で、横になる。丸で打ち上げられ、これからセリに掛けられる魚河岸のマグロの如く、格好も何もない。
しかし、ベットに横になり温熱され、背骨のマッサージが至福の世界である。
そんな中、治療に関わり、幕末の三人の人物と生活の中での繋がりが、ふと思い浮かばれる。

□土方歳三

戊辰の戦いで新政府軍は宇都宮城の攻防戦で一度落とされた城を奪環すべく、城下の西で 激しい攻防戦でかなりの死傷者が出た。
その時歳三は足の指を銃創する重傷を負い戦線を離脱する。
深い傷を負った歳三は約3カ月を戦線の第一線を外れ、治癒に専念し、 東山温泉で療養した。
湯にうたれ、治癒する傍ら、戊辰の戦いで、東西を目まぐるしく駆けめぐった足跡を振り返りながら、束の間の休息を取り、明日の英気を養ったのでは無かろうか。

Image11             <東山温泉 「原瀧」 野天風呂>

歳三が傷を癒したのは会津藩の座敷役場を兼ねた旅館「瀧の湯」(のちの旅館 松島、現在の「庄助の宿 瀧の湯」)であった。
早速その東山温泉に行ったが予約取れず、同じ温泉の「原瀧」であった。
硬くなった筋肉が、湯の温もりで温まり、腰痛の痛みが湯に浸かっている間は忘れさせた。
歳三同様、長期間の治癒にこのまま湯治の世界にと思ったが、そんな甘い湯治は許せなかった。
源泉掛け流しで歳三の気合を貰っただけで、再び腰を曲げての旅であった

□坂本龍馬

慶応2年(1866年)「龍馬」の奔走により「薩長同盟」が成立。伏見寺田屋へ戻り祝杯を挙げたが、伏見奉行が「龍馬」捕縛の為に200名が急襲する。「龍馬」は危うく逃れたが瀕死の重傷を負うが「おりょう」の渾身的な看病で助けられ、後日祝言を上げる。
事件後、未だ傷が完治してないまま、傷の治癒をかねて九州ハネムーンに鹿児島に向かっている。
そのハネムーンが日当山、塩浸、霧島などの温泉を巡り、寺田屋で負った傷の養生に努めたと言う。
温泉の効果であろうか傷の治りは早く数日後に霧島山登山し、新たに入手した短銃で鳥撃ちに興じるなど、はしゃぐ二人は最も幸せを感じた一時であったろう。

Oryou0205                    <龍馬とおりょう>

霧島に近い薩摩のおごじょから霧島温泉の「湯の花」を送って頂いた。早速我が家の風呂にしっかり入れ湯治の二人旅を描きながら、湯に浸かり、思いを馳せた。
「花は霧島 たばこは国分 燃えて上がるは オハラハー桜島」と唄いながらの霧島温泉であった。
この時は腰痛も無かったので、単に龍馬繋がりだけであった。

□千葉佐奈

「龍馬」は脱藩し、土佐を離れ、江戸へ千葉道場で千葉佐奈に出会う。
「龍馬」が姉の「乙女」あてに手紙を書いている。
馬に乗り、剣も強くて、長刀も出でき、力は普通の男よりも強い。十三絃の琴を弾き、絵も描き、物静かな女性。顔形は平井加尾より少しいいとのこと。「龍馬」は「佐那」と出会ってから10年後、密かな想いをこのように書いて、姉に打ち明けている。
しかし国事に東奔西走する「龍馬」は自然と「佐那」の間と離れてしまう。

「佐那」は横浜に移って鳥取藩士と結婚するが離縁し、千住に移り住み桶町から千住で灸治院を行う。明治25年(1892)に「小田切謙明」と妻「豊次」が「千葉灸治院」に来院し、針灸を通じて「佐那」と深い絆が生れる。
「佐那」は山梨の小田切家に訪れ針灸による渾身的な治療など往き来があったようである。
「佐那」が亡くなった後、「豊次」が谷中墓地に墓参りし無縁仏になると、危惧し、分骨して貰い甲府市朝日町の「妙清山清運寺」の小田切家の墓所に埋葬したと伝えられる。

Img_8836111                <千葉さな子墓>

早速その甲府に行ってみた。「佐那」の墓石の前で未だ鉄道も無い時代にわざわざ甲府まで来ての「佐那」の渾身的な治療に小田切夫婦は幸せだったろうなと思う。
「乙女」姉やんに送った龍馬の手紙から、誉れ高い美人の「佐那」が浮かび上がる。

「佐那」の手からの針に掛かれば、重い腰痛も劇的に直るのかと、思えてしまう。そんな幻想の世界から夢が覚める。「はい、今日は終わり」先生の神の手から、解き放される。

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02、幕末」カテゴリの記事

コメント

こんばんは~。益満休之助をたどって、こちらまできました~。私は益満休之助の子孫です。1月にちょっと奄美大島へ旅へ行こうと思って、もう一度先祖の歴史について調べていました。昔はなかなかヒットしなかった人物ですが、歴史上重要人物なのでしょうか?隠密だとか聞いたことがあります。

投稿: あゆっぺ | 2012年12月30日 (日) 23時33分

あゆっぺ様ようこそいらっしゃいました
益満休之助の子孫様とは
こんなサイトに来宅頂き、感動しております。
何か失礼な記事があればご容赦下さい

幕末の中、数奇な運命
それを取り上げる記事も少なく、中々辿るのは難しいです。
私の実家、杉並には盆・正月に行きますが、近くの大圓寺に益満休之助を見つけた時は感動ものでした。
上野戦争で亡くなった薩摩の墓が集約され、一緒に埋葬されてありました。

「ようこそ幕末の世界へ」
当hp赤峰隊の記事の中に紹介させております。

有り難うございました
此れに懲りず、何か情報がありましたら、宜しくお願いします。

投稿: 隠れ新八 | 2013年1月 2日 (水) 06時57分

お返事有難うございます^^
大圓寺というお寺にお墓があるのですか。
情報有難うございます。
私の祖母の祖父が益満休之助になるのかな??
すみません時代的に良く分からなくって^^;
もしかしたらそのお父さん??
とりあえず、祖母の旧姓は益満です。
こちら側はあまり祖先の事を詳しく伝わってなくて・・。
また遊びに来させてくださいね。宜しくお願いします!

投稿: あゆっぺ | 2013年1月27日 (日) 00時09分

今年の正月に実家に行き、大圓寺((だいえんじ)圓が正しいので修正)に行ってまいりました。
井の頭線永福町駅から駅前の商店街を大宮公園方面に向かうと通りに面して大圓寺があります。
山門を潜って右側に大きな「戊辰薩摩藩戦死者の墓」があります。
薩摩藩主光久の子供綱久が江戸で死去、以来、島津家の江戸の菩提寺になっています。
是非、お線香でもあげて供養すれば、益満も喜ぶのではと思います。
尚、当hpにようこそ幕末の世界で詳しく書きましたのでそちらにも、併せてご覧いただければ嬉しいです。http://homepage3.nifty.com/byp/
肝心の益満や薩摩の菩提寺の写真でもあれば嬉しいのですが・・・。今後とも宜しくお願いします

投稿: 隠れ新八 | 2013年1月27日 (日) 06時46分

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