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「ならぬことは、ならぬものです」

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来年の大河ドラマは「八重の桜」
白河、会津へ行った観光地では看板、旗は「八重の桜」一色であった。
東北地方を襲った東日本地震に復興も未だ癒えぬまま、観光にも影響を及ぼしていることもあって、大河ドラマにかける期待も大きいものと思える。


「八重の桜」の新聞広報で主役の八重役に腰に帯刀し銃を手にする、勇ましい戦闘姿の綾瀬はるかが眩しく目に入る。
その広報記事のトップテーマに「ならぬことは、ならぬものです」が掲げられている。
あれ、聞き覚えた言葉と思ったが、会津藩の子弟教育の日新館に行った時に、この言葉が直ぐに浮かばれた。
「ならぬことは、・・・」こんなことから生れている

◇什(じゅう)
日新館に入る前の6~9歳まで構成する「什」と言われるとなる独特の組織がある。侍の子どもたちは6歳になると、必ず町内の子どもたちのグループ・什に入らなければならない。什の集まりは毎日午後からで、当番の家に集まり話と遊びが始まる。

年長が「什長」となり自分達が決めた規則である八条からなる什の掟を、全員正座の上、「什長」から聞く。
自治的な方法であるが、「ならぬことはならぬものです」と最後の一行だけが決められのは会津らしいやり方であった。

◇違反には処罰
もし違反者がいれば罰が与えられる。軽いものは無念と言い、皆の前で「無念でありました」と言い頭を下げ、手の甲にシッペイがある。重い罪は「派切り」と言って派から除外される。

「派切り」があると「什長」の前で父兄が誤りを正したことを言って謝る。全員が総て了解された上で罪は許される。

年長者への礼儀と尊敬、同年者との友情、これを自然に身につけさせる。武士としての日新館教育の前に、自然の遊びのうちに人の道、社会人としての基本を習う。将来を背負う会津の武士になるために厳しいしつけであった。

◇什の掟
一、年長者の言う事に背いてはなりませぬ
二、年長者にはお辞儀をしなければなりませぬ
三、うそを言う事はなりませぬ
四、卑怯な振る舞いをしてはなりませぬ
五、弱いものをいじめてはなりませぬ
六、戸外で物を食べてはなりませぬ
七、戸外で婦人と言葉を交えてはなりませぬ

「什の掟」を見るとかなり、時代のずれも感じるが、我々日常に忘れ去られ、軽視されている大事な掟が、改めて再認識させられる。
現実を振り返ると、自殺まで追い込む学校での陰湿ないじめなど、解決の目処さえたっていない。

「ならぬことはならぬものです」
100数十年前に、「什の掟」として唱え、6~9歳の幼年期に自分達でのルールを自然に守られていた。

先人達が残した貴重な伝統文化は日本の誇るべき遺産と思えるが、そんな根がことごとく崩れさっている。
「什の掟」の道徳が自然と植えつけられる素朴な手法が玉虫色に輝いて見える。
「いじめなんてめっそうもない」なんて今頃、草葉の蔭で呟いているのでは無かろうか・・・。

一方では「ならぬことはならぬものです」一徹な八重の生き方をドラマの展開で見守りたい。

関連する 会津藩校「日新館はこちらで案内しています

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腰痛に思う、3人の幕末の人物

急激な寒さで変調をおこし、通院するも腰痛は一向に見通しがたたない。
整骨院で、横になる。丸で打ち上げられ、これからセリに掛けられる魚河岸のマグロの如く、格好も何もない。
しかし、ベットに横になり温熱され、背骨のマッサージが至福の世界である。
そんな中、治療に関わり、幕末の三人の人物と生活の中での繋がりが、ふと思い浮かばれる。

□土方歳三

戊辰の戦いで新政府軍は宇都宮城の攻防戦で一度落とされた城を奪環すべく、城下の西で 激しい攻防戦でかなりの死傷者が出た。
その時歳三は足の指を銃創する重傷を負い戦線を離脱する。
深い傷を負った歳三は約3カ月を戦線の第一線を外れ、治癒に専念し、 東山温泉で療養した。
湯にうたれ、治癒する傍ら、戊辰の戦いで、東西を目まぐるしく駆けめぐった足跡を振り返りながら、束の間の休息を取り、明日の英気を養ったのでは無かろうか。

Image11             <東山温泉 「原瀧」 野天風呂>

歳三が傷を癒したのは会津藩の座敷役場を兼ねた旅館「瀧の湯」(のちの旅館 松島、現在の「庄助の宿 瀧の湯」)であった。
早速その東山温泉に行ったが予約取れず、同じ温泉の「原瀧」であった。
硬くなった筋肉が、湯の温もりで温まり、腰痛の痛みが湯に浸かっている間は忘れさせた。
歳三同様、長期間の治癒にこのまま湯治の世界にと思ったが、そんな甘い湯治は許せなかった。
源泉掛け流しで歳三の気合を貰っただけで、再び腰を曲げての旅であった

□坂本龍馬

慶応2年(1866年)「龍馬」の奔走により「薩長同盟」が成立。伏見寺田屋へ戻り祝杯を挙げたが、伏見奉行が「龍馬」捕縛の為に200名が急襲する。「龍馬」は危うく逃れたが瀕死の重傷を負うが「おりょう」の渾身的な看病で助けられ、後日祝言を上げる。
事件後、未だ傷が完治してないまま、傷の治癒をかねて九州ハネムーンに鹿児島に向かっている。
そのハネムーンが日当山、塩浸、霧島などの温泉を巡り、寺田屋で負った傷の養生に努めたと言う。
温泉の効果であろうか傷の治りは早く数日後に霧島山登山し、新たに入手した短銃で鳥撃ちに興じるなど、はしゃぐ二人は最も幸せを感じた一時であったろう。

Oryou0205                    <龍馬とおりょう>

霧島に近い薩摩のおごじょから霧島温泉の「湯の花」を送って頂いた。早速我が家の風呂にしっかり入れ湯治の二人旅を描きながら、湯に浸かり、思いを馳せた。
「花は霧島 たばこは国分 燃えて上がるは オハラハー桜島」と唄いながらの霧島温泉であった。
この時は腰痛も無かったので、単に龍馬繋がりだけであった。

□千葉佐奈

「龍馬」は脱藩し、土佐を離れ、江戸へ千葉道場で千葉佐奈に出会う。
「龍馬」が姉の「乙女」あてに手紙を書いている。
馬に乗り、剣も強くて、長刀も出でき、力は普通の男よりも強い。十三絃の琴を弾き、絵も描き、物静かな女性。顔形は平井加尾より少しいいとのこと。「龍馬」は「佐那」と出会ってから10年後、密かな想いをこのように書いて、姉に打ち明けている。
しかし国事に東奔西走する「龍馬」は自然と「佐那」の間と離れてしまう。

「佐那」は横浜に移って鳥取藩士と結婚するが離縁し、千住に移り住み桶町から千住で灸治院を行う。明治25年(1892)に「小田切謙明」と妻「豊次」が「千葉灸治院」に来院し、針灸を通じて「佐那」と深い絆が生れる。
「佐那」は山梨の小田切家に訪れ針灸による渾身的な治療など往き来があったようである。
「佐那」が亡くなった後、「豊次」が谷中墓地に墓参りし無縁仏になると、危惧し、分骨して貰い甲府市朝日町の「妙清山清運寺」の小田切家の墓所に埋葬したと伝えられる。

Img_8836111                <千葉さな子墓>

早速その甲府に行ってみた。「佐那」の墓石の前で未だ鉄道も無い時代にわざわざ甲府まで来ての「佐那」の渾身的な治療に小田切夫婦は幸せだったろうなと思う。
「乙女」姉やんに送った龍馬の手紙から、誉れ高い美人の「佐那」が浮かび上がる。

「佐那」の手からの針に掛かれば、重い腰痛も劇的に直るのかと、思えてしまう。そんな幻想の世界から夢が覚める。「はい、今日は終わり」先生の神の手から、解き放される。

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新選組を熱く語った「早乙女貢」氏

Wakamatsu207白河・会津旅では天寧寺に行ってみた。
歳三は会津で療養中に天寧寺で戒名を刻んだ近藤の墓を建立した。寺の墓域から愛宕神社に抜ける参道の途中に 建てられ、鬱蒼とした木立は函館の壁血碑の雰囲気に似ている。新政府軍にしてみれば賊軍とされ、三条河原で晒した近藤の墓など当時の置かれた状況から、墓も憚る状況であった。本堂から離れ、山の中に隠れる様にひっそりと、隠れる様に墓地があった。
その途中におや、見覚えの有る作家「早乙女貢」が此処で眠っている。お亡くなりなったのは聞いていたが此処に墓があったのは驚きであった。早乙女貢は曾祖父為親が会津藩士で、会津藩士四代目を自任し、会津の山河と城下を心の故郷と愛し続け、2008年 82歳で亡くなる。
会津松平家の現当主松平保久とも親交があると同時に会津藩への思慕の強い作家。『會津士魂』に代表される幕末作品・考察における視点は一貫して会津・新選組など幕府側に立っている。
没後、遺骨はお別れ会を経て、静岡の富士霊園の「文学者の墓」に葬られたが、その後、此処に改葬された。
熱い会津の血が流れる当人の思いが遺言によっては残され、彼を支えた「士魂の会」が墓所を建立した。

早乙女貢の作品は読んで居ないが、日野市市政35周年記念講演会で来られていることが記憶によぎった。
その熱演振りは我が家に収蔵されたVTRにあった。VTRは時代の流れで既に淘汰され、新しい媒体に変っており我が家でも殆ど見る事は無くお蔵入りであった。会津行きをきっかけに眠っていたテープを取り出し、氏の鮮烈な語り口を見る事が出来、映りだされる画像は衝撃的であった。

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写真に有る、黒髪豊かでオールバックに着物姿、飾り気は全く無く、その風貌からして幕末の志士であった。
演題には一切のメモを持たず、記憶の中から回転良く、出てくる言葉に無駄はなかった。さながら攘夷志士と向き合い、或いは薩長に真剣勝負で斬りこんで行く様であった。
早乙女氏について、藩と終始敵対した長州藩とその関係者に対しては、徹底的に辛辣かつ一切容赦のない全面的に否定的な主張に終始している、と言われている。歯に衣を着せず、ずばずば言う氏に、批判も多かったようであるが、会津の魂がそのまま引き継がれ、骨っぽい作家であった。

新選組の名前が日本中に知れ渡る池田屋事件。当時としては此れだけの凄まじい働きをしたグループは無い。
何故それが生れたかを熱く語っている。
その生れた源泉は勇や歳三には多摩地方に代々住んでいたと言う郷士の伝統がある。
多摩地方は「武蔵7党」の戦国時代からある、由緒ある血をひいている。
この辺に居る人達は先人の血を引き武士の潔さ、武士がこうあらねばならないと言う伝統が続いている。
此れがいみじくも幕府が生きるか、倒れるかと言う幕末にはっきり近藤達の働きによって如実に現れてたということである。
板東武士(関東のことを板東)の本当の血の流れ日本人が持つ正義感、武士道で如実に形で現れた。
これがたまたま会津藩と結びついたと言う事によって封建時代は終わり、武士道の成果が武士道の最後の瞬間において、花びらのように美しく舞った。
と結んでいる。
早乙女貢氏が天寧寺で近藤、土方と近くに寝ていることも判る様な感じがする。
お冥福を祈る。

当日の旅紀行は以下で紹介してます。ご覧下さい

ようこそ幕末の世界へ

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