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波乱の薩摩藩士「益満休之助」

「益満休之助をたどって、こちらまできました~。私は益満休之助の子孫です。」こんなコメントまで残されていった。
益満休之助についてHPや当ブログでも紹介したが、こんなブログでも関係者に読まれておられる事実に驚いた。ネットの拡がりから改めてその影響の大きさを思い知らされた。
そんな背景もあって、今年も参拝客で賑わいを見せる、大宮八幡で御参りし、実家のある和泉町に向かう途中で益満の眠る大圓寺に寄って、「こんなこともあったよ」と報告方々、手を合わせてきた。

数奇な運命にある益満の存在は幕末史の中でも主役ではなく、当該HPでも「相楽総三」の世界で諜報家の一人として紹介した。
「江戸城無血開城」では山岡鉄太郎(鉄舟)を使者として官軍参謀の西郷隆盛のいる静岡に派遣し、江戸城無血開城と慶喜の助命嘆願の予備交渉に当たらせたが、その支援工作要員として、幕府に捕らえられた、薩摩の浪人益満が使われたことを紹介した。
しかし、ある事件や人物紹介で登場する脇役の一人でしかなかった。

慶応3年(1867)江戸市中を薩摩系浪士が江戸市中を荒し回り放火など「御用盗」騒動が起こり、その手が江戸城にも及び、怒りに燃えた庄内藩を中心にした幕府側から薩摩藩邸の焼き討ちに及んだ。
捕まった薩摩浪士の一人に益満休之助がおり、伝馬町の獄舎で仲間が処刑されるなか、益満は勝海舟に命乞いされ、助け出されたのも勝の力によるものであった。
海舟は東征軍が迫ってくる中で打開策が手詰まりにあり、後の幕府側工作要員の一人として使われた。
江戸開城を迫る東征軍が渦巻く東海道を西下し駿府に目指した、幕臣山岡鉄舟に帯同したのが益満であった。

清河八郎は尊皇攘夷-外国人を日本から追い払い、天皇を中心に>日本をひとつにまとめて事に当たる、『虎尾(こび)の会』を結成する。山岡鉄舟は幕臣でありながら参画し、かっては清川八郎、益満とは旧知の間柄、そんな人脈を知って居たのであろうか海舟は山岡の支援役として益満を急遽抜擢する。

こうして、幕臣でありながら、江戸城を目指し、東海道を立ちふさがる新政府軍の群れを益満の訛りの強い薩摩弁等によってくぐり抜け、駿府の総参謀西郷隆盛の陣所までたどり着く。
西郷隆盛が居る駿府で江戸城開城の条件など、聞き出し後の江戸城無血開城に繋がる西郷・山岡会見が実現した。
益満が何処まで鉄舟に帯同して行ったか、謎に包まれるが、この会見に果たした彼の役割存在は実に大きい。
その後、江戸城の無血開城が行われる。しかし、旧幕臣の一部の抗戦派は徳川家の忠誠、旧恩に報じることを旗印に彰義隊を結成し、新政府軍と抗戦する上野戦争が始まる。
益満はその後どう辿ったか、江戸に戻り、薩摩藩遊撃隊として上野戦争に参加する。益満は彰義隊の流れ弾に当たり、官軍側の専用病院となる横浜軍陣病院で亡くなる。
20台の若くして西郷の下、諜報活動に入り第一線で活躍したが、幕府側に捕縛される。処刑されるところを救われ再び西郷の元に戻り、上野の山に突入し帰らぬ人になる。

          <杉並の大圓寺>

Masumitu01大圓寺は薩摩藩主島津光久の嫡子綱久が江戸で死去した際、当寺で葬儀を行って以来、島津家の江戸における
菩提寺となり、寺内に薩摩家代々の位牌堂が設けられている。
「戊辰薩摩藩戦死者の墓」の墓石台には表面が陶器状のものに埋め込まれた墓碑がある。長い年の歳月に関わらず
文字が鮮やかに刻まれ、履歴がしっかり読むことが出来る。
多数ある戦死者の中にあって、益満休之助の名前がはっきり読み取る事が出来る。
「明治元年戊辰5月 東京上野戦死」組織名は「遊撃隊」の名前が上がっているが、「隊外 斥候役 益満休之助」とされている。
墓誌を読み取って、こんな身近なところに、益満が眠る事に思わず身震いした。
命乞いをして、掴んだ生きる道を1年も経たずして絶ってしまった、益満の生涯であった。
数奇な運命の中で、その行動が断片的で、謎めいてはいるが、今までの記事を繋ぎ合わせ、『波乱の生涯「益満休之助」』
でHPに纏めてみた。

波乱の生涯「益満休之助」で掲載した

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