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ひのを駆けめぐる。その2 歳三を追う

          <とうかんの森>Img_02621111西の地蔵さんから始まり、有山邸で「ひのをかけめぐる」の日野地区は12時で終わり、余裕を持って昼飯であったが、1時間近くも超過してしまった。
昼食を済ませ、甲州街道口駅からモノレールに乗る。
ここから歳三モード一色に変る。

満願寺駅から日野バイパスを横断すると、遥か彼方に手を振り、群れに気づいてくれた。
今日のために京から江戸へ東下された同好を迎え、約半年振りの再会を喜び、群れの中に加わって頂く。
モノレールの配下の通りから路地に入る。住宅地の中を道は入り組み、迷路のようであるが、多摩川と浅川の合流地域で河川の氾濫の繰り返しの歴史がこのような道になってしまった。
案内と言っても、目標は住宅より遥か高い、樹木が目印で、これに向かって行けばとうかんの森にたどり着くことが出来る
この大木を通じて天から降りてくる、田んぼの神様でもあるが、その田んぼも宅地化され田んぼの姿は完全に無くなり、森とお稲荷さんが僅かに残されている。
樹木も、最近大胆に伐採され、僅かに2本が、お互いに支えられる様に残って、名ばかりの森となってしまった。
樹齢100~数100年の蓄積された遺産も宅地開発の前には無力で森が蝕まれしまった。

近くの下水処理場が歳三の生家跡である。前述の川の氾濫が歳三の家も呑み込んでしまい、現在の資料館に移築した。現在の資料館建屋の一部、梁も此処で使われた物が流用されていると言われている。
下水処理場の階段をよじ登ると、多摩川と浅川が背後にこれから向かう高幡山が俯瞰出来る。
激しい烈風の中、冷気が体を吹き抜け、寒さとの我慢比べであった。
甲州道もこの多摩川を越えなければならず、橋の無い時代は渡し舟であったが、突風で転覆30数人が溺死し、遺体の一部は川崎当たりに流れる悲劇が生れた。
江戸に繋がる重要な物流の甲州道の自然の猛威に晒されながらも、多摩川越えであった。
ようやっと文明のメスが入り橋梁である日野橋が誕生したのは大正15年になってからである。

                 <石田寺>Image1

下水処理場沿いに石田寺に行く。
石田寺は高幡山金剛寺の末寺である。金剛寺の有力な檀家の土方家は法事の扱いは金剛寺側であり、墓だけが石田寺にある。
歳三の墓「歳進院殿誠山義豊大居士」の戒名は亡くなった函館で作られ、こちらに伝えられた。
その側面の墓石に父「土方義諄」 、母「えつ」長男 「為次郎」次男 「喜六」他の墓があるが風化が進み、かなり読めなくなってしまった。
歳三の兄で粕谷家へ養子に行った「大作」(粕谷良順)の「喜六」の墓の側面の喜六を讃える碑文が僅かに読める。

「今度はとても帰れそうも無い」と生家の伝言を頼み会津に向かう。
今市で千人同心の土方勇太郎と会った話が残されている。
歳三の家の墓域から山門側の一列離れた墓域は土方勇太郎の家である。
浅川を挟んで向かい側に勇太郎の家があり天然理心流の剣術仲間であるが、戊辰戦争で宇都宮から北に向かう歳三が同郷と最後の出会いであった。
その勇太郎とは道を挟んで、二人の墓があり、「お~い」と声をかければ、直ぐ届く位置にある。

                 <高幡不動山門>102100061モノレールに乗って最後の高幡不動へ
山門へ登り、鳩の卵を投げつけた悪戯の歳三の姿を思い浮かべ。境内背後の高幡山の懐の深さを背景に近藤勇隊は山側を配備、土方隊は攻めたてる側で剣術の合戦が繰り広げられた。治略に富む歳三が制したと言われている。
奥深い高幡山、慶応4年3月、勝沼で甲陽鎮撫隊を敗った新政府軍が日野へ乗り込み、既に賊軍とされた関係場所に捜索の手が入る。後難を恐れ既に歳三の家族は高幡山に身を潜め、時の経過を待った。 

16時で閉る大日堂へ、僅か10数分間であるが、駆け込み一回り。手を叩くと「パーン」と天井からエコーが返ってくる唸り龍天井。色鮮やかな左甚五郎作鳥追いの鷹。土方歳三、近藤勇、井上源三郎、沖田総司の新選組の位牌や戊辰東軍殉難者霊位の位牌などなど幕府を支える金剛寺の姿が鮮明に浮かび上がってくる。

                 「殉節両雄の碑」Img05311

どうしても見て欲しかったのがこの「殉節両雄の碑」である。新政府は賊軍の懲罰は溶けなかった時代に勇と歳三を讃える碑などはとても許せなかった。

明治7年に申請し14年もかかって漸く建立された戊辰の怨念が歴史の重さを物語る。15代将軍慶喜の為に身を注いだ二人の思いをもあって篆額は慶喜に頼んだが、ただただ涙するだけで、結局 元京都守護職 「松平容保」が替わって書いた。
「碑文」は 小野路村の「小島為政」が起草。「撰文」は 仙台の儒学者で砲術家「大槻盤渓」。
「碑文を書いた」のは旧幕府の侍医「松本良順」とそうそうたる人物が関わっている。
この両雄の碑と歳三像の前から、新選組まつりの行進パレードが此処から出発する。

以上で「ひのをかけめぐる」はここで無事に終わった。日野地区は甲州道の往来もあって幕末を賑わす大勢の登場人物であった。一方高幡地区は歳三、一色で塗りつぶされ、歳三色の濃い場所である。両地域を廻り、新選組の隊士をはじめ、徳川の天領として色濃く残す、歴史を一緒に確かめあった、楽しい一時であった。
高幡で反省会を実施、幕末談義に花を咲かせ散会した。ご苦労さんでした。   

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ひのを駆けめぐる。その1

          <六地蔵>

050600241梅の芽が少し出てきたが、未だ未だ寒さの最前線、日野の歴史巡りをやってみた。
途中で合流した1名を加え総勢8名の歴史大好きの方である。
よそ者から見れば、地元在住で多少の知ったかぶりを披露してしまった。
元より、新選組がベースであるが、普段、見失いがちな足元の歴史もこんなこともあるよと聞いて頂いた。
日野駅から旧道を西へ、宿の出入り口の西の地蔵さんである。
六地蔵はこれから向かう法泉寺、大昌寺、石田寺にあるが、寺は現世とあの世の境界を守護するが街角にあるのは亡くなった後の別れ行く場所である。
迷いの世界「六道」は「天」「人」「修羅」「畜生」「餓鬼」「地獄」とあり、それぞれの世界で仏になれるものと、「畜生」以下は三悪趣とも言われ、ひたすら罪を償えなんてものもある。「何れ来成の世界へ、出来れば「修羅」以上で迎えたいね」
慶応3年この地蔵さんの前を薩摩の浪士を追っかけ、横山宿(八王子)へ。佐藤彦五郎、以下が向かったが、馬場市次郎は即死、山崎は後日亡くなる、壺伊勢屋事件が起きている。
翌年、近藤勇以下が意気に燃えて東征軍の東下を阻止すべき甲府に向かったが、途中の塩山で敗れた。

風雲告げる幕末にお地蔵さんは目の前の衆を見ていたのである。

          <法泉寺 山門>Image1 向かい側の法泉寺へ源さんの所に行く前、金丸四郎兵衛の墓に寄る。こんな乗りの、良い唄がある
①今は昔の物語、徳川七代将軍の、家継ぎ様の大奥に
美人のほまれ名も高き、老女絵島と山村座俳優生島新五郎
これが情話の数々に、まつわり来る物語
勘定方の役人の金丸四郎兵衛定曹(さだとも)も八丈島に流されて洞期をつとめ島帰り、花のお江戸を後にして里にむかいて旅立ちぬ

四郎兵衛さんは浪人に成り下がり、他の事件に関与、追われる身、法泉寺に寄った折に
此処で自害。その墓を撫でると病が直ると言われ、ツンツルテンの墓石が目印であるが、知る人ぞ知るで、忘れられかけている。

            <金丸四郎兵衛の墓>

050600421

日野にも八王子千人同心を代々勤める井上家。七代目として兄松五郎は将軍家茂の警護、弟源三郎も浪士組として参加、後の新選組、更に松五郎の息子泰助も新選組へ入隊。
家族ぐるみ幕府に身を注いだが、源三郎は鳥羽伏見の戦いで戦死。追っ手の新政府軍を背後に叔父さんの首と刀を持ち出そうと泰助少年は頑張ったが、叶わなかった。


甲州道を跨いで北原の源三郎の生家、から、やんめ地蔵へ。
姉ミツに手をひかれ幼い総司が手をあわせたのであろうか、そのお地蔵さんを収容する館が建て替えられ、真っ赤な唐がらしが添えてあった。
幕末で活躍した剣士、市次郎と兵助を輩出した現馬場市長宅の前を通り、甲州道を南側に戻る。
高幡不動への参拝道であった、一方通行の路地、大門を通り、 大昌寺の参道に通じる。

<大昌寺>090500491この紋が目に入らぬか、 葵の御紋、徳川家の一つの檀家寺の芝の増上寺に繋がる本堂の頂部には葵の御紋が眩しく輝いている大昌寺に入る。
墓石の一番南側の奥に佐藤彦五郎と妻で歳三の姉、おのぶさんの下佐藤家、隣に上佐藤家の、有力な檀家が隣り合わせに居並ぶ。
その道を挟んで彦五郎の息子の養子先である有山家、更に馬場家の墓が居並ぶ。


「おーい」と声を掛ければ、天然理心流の門人達が、直ぐ集まるように肩を寄せ合っている。
墓石に居並ぶ墓碑の没年と俗名が、日野宿を駆けめぐった「嘉永の火事」「壺伊勢屋事件」などで亡くなった方々の記録が生生しく語り伝えてくれる。

大昌寺から本陣へ、向かう。マンション化された上佐藤家で僅かに玄関部分だけが、本陣の面影を留める。何時も目にする本陣がこちらから、見ると側面から、別の姿が確かめられる。

下佐藤家の門を潜ると中庭の二本の梅の木が、僅かに芽が出始めていた。
歳三の姉おのぶさんを彦五郎は妻として迎える。33年間を子育てし、明治10年1月亡くなる。
丁度今頃の雪の降る日、苦楽を共にし、ようやく新しい時代を迎えた間もない、旅発ちに
「散る雪や、柳を見ても、梅みても」の句を残している。
参勤交代から始まり、甲陽鎮撫隊、大量な集団で訪れた明治天皇京都行幸、兎狩りで山岡鉄舟を従え、再び訪れた明治天皇の話しなど、語り尽くせない程の話しを一気に披露。
幕末から維新にかけて、この式台から玄関口へ、出迎えた格式の重さを語り伝えている。
新選組の名が知れ渡り、歳三は隊士募集で江戸へ、戻り、我が家同然の玄関口で寝てしまった。
そんなパワースポットに、同行の仲間が、歳三の寝姿を重ね併せ、横になり歳三の世界へ、記念写真を納めご満悦であった。

                                        <有山家>

09050041_2 

本陣の御前の間、上段の間は明治26年の火事で燃えた息子の養子先への有山家へ、ダイナミックに曳屋された。
その有山家に一風変ったモダンナ洋風建築、維新間もない時期の渡米、日野の最初の銀行創立など彦吉の野心を物語る象徴的な建物である。
早足で日野地区の歴史の姿を見て貰う。
折から、風が強く、寒さが一気に、体を吹き抜ける。
このあと、高幡地区へ、記事は一端、ここで中終いとする。次回改めてこの続きを

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