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玉電沿線の歴史を歩く

              <豪徳寺>Img_4035111井伊直弼は性格の強さに加え、ブレーンがなく、「徳川のために俺が頑張らなければ崩壊する」という危機意識から"安政の大獄"が起きる。
その"安政の大獄"の執行側の中心人物である井伊直弼と死罪となったその犠牲者の代表人物の一人、吉田松陰の二人が玉電(現東急世田谷線)沿線に隣り合わせで眠っているのも、大変奇遇の巡り合わせである。
松陰は伝馬町の獄舎で処刑されたが、一方の直弼も恨みを買い、桜田門外で襲撃され、首を撥ねられる。
折しも桜前線が東下し、ほぼ満開に近い時期に華やかな桜に包まれ幕末、玉電ツアーを実施した。

□豪徳寺
豪徳寺駅で集合し、直弼の墓とその背後に桜田殉難八士の碑のある豪徳寺へ向かう。墓域の一画が塀に仕切られ、代々の井伊家の墓が居並び、地図で案内されている。
◇桜田門外の変
直弼が襲撃された桜田門外の変は安政7年(1860)3月3日であるが、新暦であると、3月24日であるが、今回の旅巡りはその前日の23日であった。
当日は大雪であったことが、記録され、決行を遂行する襲撃側にとっては格好の雪降りでもあった。
すべての刀につか袋を被せ、かぶり笠に赤合羽で身を固めた揃いの装束姿の5、60人厳重な雪支度をし、井伊家の門を出た行列が桜田門へ向かう。
予め周到な計画をしていた18人の襲撃組が左右から行列を襲った。
突如の襲撃に、行列側はつか袋の紐を解かない限り、刀は抜ず、おまけに吹雪のために視界が悪く、行列の後方からは先頭の様子が判らなかった。井伊家の供頭、供目付の二人が倒され、浪士達が一斉に駕籠に殺到し、直弼の首が落とされ、その間の闘争は僅か15分程であったと言われている。
駕籠の右脇には井伊家きっての刀の使い手、供目付「川西忠佐衛門」は、襲撃側の二人を斬り、額を割ったが、別の一人に倒され、桜田殉難八士の碑に名前が載っている。
◇何故テロのターゲットに
14代将軍の世継ぎに、 一橋慶喜を擁立する水戸斎昭らと激しく対立し、直弼は大老の職権のもとで紀伊慶福(後の家茂)を将軍の継嗣としてしまう。
更に独断で外国との修好通商条約を結ぶ。これに対し「直弼専横」と非難が渦巻き、志士の運動を煽り、京都を中心に一斉に反幕府運動が起きる。これに対して力で弾圧したのが「安政の大獄」であった。

              <境内の吉田松陰像>

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□松陰神社
吉田松陰始め尊皇攘夷運動で「安政の大獄」で消えていった 頼三樹三郎他の獅子達の墓や、萩の実物を模した松下村塾があるのが、松陰神社である。直ぐ近くにこじんまりとした松陰神社駅がローカル線の独特な趣の一画にある。

◇吉田松陰
嘉永3年(1850)藩の許可を得て、九州から東北に全国に遊学するが途中で藩の許可を取らず、遊歴の罪で士籍を削られる。
佐久間象山など、多くの知友、指導者との出会いが生まれ、松陰に大きな影響を与えた。
ペリー来航に出会い、その武力に驚き、文明世界を見ておきたいと、海外密航の企てを大胆にも実行するが、悉く失敗する。
直弼の元、老中間部詮勝が朝廷・志士の弾圧を狙った人物として、暗殺計画を藩主に上申するが、収監され、処刑される。萩で蟄居後、松下村塾で家学を通じて松陰の意志が伝えられ久坂玄端、高杉晋作、木戸孝則、伊藤博文など、後の逸材を輩出している。
萩の実物を模した鄙びた建物が、往事の姿をたっぷり伝えてくれる。

             <世田谷代官屋敷>

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□沿線に伝える幕末
彦根藩井伊家の出先として色濃い拠点として茅葺きの世田谷代官屋敷が建物と庭がそっくり残され重要文化財として江戸時代をたっぷり伝えてくれる。
取り分け庭木に変形した見慣れぬ幹は特別な出会いであった。日野本陣にもある、100年以上の樹齢の"ざくろ"が「此処にも会った」と、ある種の感動もあった。
折しもコースを通じて、桜が満開、華やかな彩りを味わう春最前線の中、幕末史を賑わし、激しく生き、散っていった幕末の人物の足跡を訪ねてみた。

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池田屋事件で憤死の宮部鼎蔵

      <舞台となったかっての池田屋>Img357 大河ドラマ「八重の桜」は歴史の歩みは駆け足でドンドン進んでいく。
一つの節目として、血で血を洗う衝動的な池田屋事件が報じられた。
新選組の雄姿を背景に、ネットでの国営放送の案内ではこんな言葉が踊っている。
「新選組、暴れます!
京都の治安維持のため、 新選組の襲撃により、多くの尊皇攘夷派志士が負傷した「池田屋事件」。この事件が、幕末のゆくえを大きく変えていく・・・。今回はこの池田屋での壮絶な乱闘を、あますこととなく表現。階段落ちや華麗な立ち回り、沖田総司のかっ血など、みどころたっぷり。」
元治元年(1864)6月三条木屋町の池田屋で尊皇攘夷派の過激浪士達が京都焼討を画策ているところを、新選組に襲撃され、多数が斬り死にを遂げた。
会津藩のお抱えになって間もない、新選組の華々しいしい戦果の中で、会津藩の山本覚馬は倒れた浪士がかっての仲間であった死を悼んでいるようでもあった。
池田屋で亡くなった一人、宮部鼎蔵について触れてみたい。

◇吉田松陰と無二の親友
宮部鼎蔵は文政3年(1820年)、肥後国の医師の家系に生まれ、山鹿流軍学師範の叔父の養子となる。
嘉永3年(1850年)、藩の山鹿流軍学師範に登用される。 同年、九州に遊学していた吉田松陰と知り合う。同じ山鹿流の兵学者である松陰と意気投合し、無二の親友となる。

◇東北行き
翌年、松陰と共に、北辺警護の視察を兼ねて東北諸国を歴訪する。
松陰は萩の藩校明倫館の兵学者として修行し、山鹿素行を学祖とした山鹿流兵学究めることであった。松陰は23歳で極秘三重と言う山鹿流兵学最高の免許を受け、東北諸藩を歴訪する大旅行はそんな意義もあった。
会津日新館には特別の関心を示し、槍術師範の特別のはからいで日新館を見学し感銘を受けたが、藩の許可なしで東北行きを敢行した科により御家人召放しとなった。

        <舞台となった会津藩校「日新館」>Nissinkan201

◇会津藩校との繋がり
そもそも教育の第一線として会津の兵学者山鹿素行の考え方が大きな影響を与えていた。しかし、素行は官学の朱子学を批判し、数々の著作物を世に出したが「不届きな書物」として時の執権会津の保科正之により、勾引(こういん)され、旧赤穂家に配流されてしまう。
藩は奥羽の抑え、防御の盾の役割から、実戦向きで軍事調練を重視するもので、長沼澹斎が創始した長沼流の兵学が天明8年(1788)に会津藩が導入された。
ドラマでも演じられた壮大な軍事訓練の一つが「追鳥狩」もその流れにであろう。
しかし、藩校の原点は山鹿素行であり、松陰や鼎蔵が特別な関心事であったと考えられる。
山鹿流を取り持つ縁で、日新館を舞台にした松陰、鼎蔵、覚馬が未来について語りあう、仲間であったと思われる。

◇門弟の育成
嘉永7年(1854年)、松陰は再来日した米国艦隊に侵入して米国に密航を図ったが、失敗している。
松陰は幕府に目を付けられ厳しい尋問を受けるが、鼎蔵も太刀と和歌を贈って激励米国行きを支えた 一人であったか、目を付けられる。
安政2年(1855年)、門弟と横井小楠の一派との間で起きた乱闘騒ぎの責任を取る形で軍学師範を辞職郷里にて閑居の身となる。その後はしばらくの間、門弟の育成に努める。

◇尊攘派に深入り
文久元年(1861年)、前年に大老・井伊直弼が暗殺され、全国各地で俄かに尊攘派の勢いが増すと鼎蔵は肥後勤王党に参加、肥後における尊攘派の中心人物となる。
肥後藩は朝廷の要請から、京都警護の親兵として御所の警護の任に当たった。
文久3年(1863)の8月18日の政変で、長州藩と三条実美ら長州派の公卿たちがいっぺんに京を追われた。
御所の警備の肥後藩士も全員帰藩を命じられたが、鼎蔵始め勤王派の連中は拒み、脱藩して長州に入った。
鼎蔵は尊攘派の中核を担う一人として、池田屋で過激なテロ活動に画策していたのであった。
京都の旅籠池田屋にて尊攘志士らとの会合中に新撰組の襲撃に遭う。
屋内で応戦するが衆寡敵せず、逃げ切れないと覚悟して自刃した。

池田屋や日新館についてはこちらで紹介しています。

<ようこそ幕末の世界へ

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近藤勇と天然理心流

      <近藤勇の生家跡>Matutune101

◇近藤勇の生家
新選組局長近藤勇はの生家、宮川家は武蔵国多摩郡上石原村(現在の調布市上石原)
の北部、野川の右岸にあった。勇は天保5年(1834)宮川家五代目久次郎の三男として
誕生する。
上石原宿は甲州道布田五宿を担う一つで、村一の盛り場であったが、茶屋が数軒、問屋場や、数軒の民家がある程度の寂しい宿であった。
江戸の近郊農村で多摩のゆったりした豊かな自然の中で勇は育った。
宮川家は幕府の殖産興業で新田開発に参加、豊かな大地に恵まれ地元では有数の豪農となった。
屋敷は約7、000㎡もあったといわれ、壮大な入母屋の茅葺きの母屋はじめ多数の蔵からなっていた。
◇天然理心流に剣術を究める
徳川250年の安泰の時代から、黒船来航、天候不順による飢饉、各地で起こった農民一揆、更に安政2年(1855)で襲った大地震で世の中は騒然とした。
関東の豪農達は御法度とされていた剣術に力注がざるを得なかった。
幕末に関東取締出役の下に組合村が出来ると、捕り物に動員されるようになり、武術修得のニーズが生れた。
天然理心流宗家三代目の近藤周助は多摩の豪農層を中心に門人を開拓した。
宮川家の広い庭は後の天然理心流の剣術の格好の練習場にもなった。
勇は国領宿で天然理心流の道場を持つ原田忠治に非凡な才能を見いだされ、天然理心流宗家三代目の近藤周助に引き合わされる。

嘉永元年(1848)勇は正式に天然理心流に入門し、翌年、周助の養子として迎い入れられ、周助の旧姓嶋崎とし、名を勝太と改めた。

勇は住み慣れた上石原の宮川家を離れ、江戸牛込甲羅屋敷(現在の新宿区市ヶ谷柳町)にあった天然理心流試衛館道場に移り住む。
安政2年(1855)天然理心流の腕は磨かれ、晴れて免許を取得する。

◇野試合

                  <野試合が行われた日吉神社の背後>

Img_3941111 老齢化した近藤周助から勇への世代交替が必要であった。
文久元年(1861)8月、府中六所宮の境内で勇の天然理心流四代目襲名披露の試合が行われた。
その陣容は
本陣: 総大将 近藤勇、 旗本衛士 江戸七人、軍師 寺尾安次郎、軍奉行 沖田林太郎(総司の義兄)、軍目付 原田忠治(勇の師) 江戸二人、太鼓 沖田総司、鉦役 井上源三郎

赤軍大将:萩原糺(きゅう) 以下
         佐藤僖四郎(日野宿)、日野信蔵(日野宿)、中村太吉朗(日野宿) 山南敬助、土方歳三、他隊長以下全員で36名
         
白軍大将:佐藤彦五郎 以下
        井上松五郎(千人同心)、多摩・江戸剣士、隊長以下全員で36名
一流剣士が双方36名が小グループに別れ布陣し、沖田総司の打つ太鼓を合図に激しい野試合を行った。
一回戦は白軍が勝ち。二回戦は山南敬助他が白軍の大将、佐藤彦五郎を打ち取り赤軍の勝利になり、、三回戦は大将同士が打ち合い、佐藤彦五郎が萩原糺を打ち取り白軍の勝利になった。
試合に関わった80名と見学した、取り巻き連中を併せると大変な賑わいの中で行われた。

戦いが終わった後、血気にはやった若者達が府中宿に繰り込み、酒の勢いもあって大騒ぎしたようであるが、総大将も自ら野戦に出陣したことを吐露している。
総司の太鼓、源三郎の鉦が打ち鳴らす姿を想像するだけでも面白い。

こうして名実共に近藤勇、天然理心流四代目が誕生する。

       <近代化の渦に、松本旅館はホテルに替わってしまった>

Img_39861 大騒ぎした場所の一つ府中六所宮前の旅籠松本屋も近代的に改装され、すっかりその面影も消えてしまった。

久しぶりに訪れた府中に、勇の関わり場所を見てきたが、時代の波に、呑み込まれる姿が残念であった。

            <かっての旅館の姿 >

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勇はこの後、妻つねを迎えるが、短い結婚生活であった。そんな"つね"の姿をこちらで書いてみた。

ようこそ幕末の世界へ

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