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近藤勇と天然理心流

      <近藤勇の生家跡>Matutune101

◇近藤勇の生家
新選組局長近藤勇はの生家、宮川家は武蔵国多摩郡上石原村(現在の調布市上石原)
の北部、野川の右岸にあった。勇は天保5年(1834)宮川家五代目久次郎の三男として
誕生する。
上石原宿は甲州道布田五宿を担う一つで、村一の盛り場であったが、茶屋が数軒、問屋場や、数軒の民家がある程度の寂しい宿であった。
江戸の近郊農村で多摩のゆったりした豊かな自然の中で勇は育った。
宮川家は幕府の殖産興業で新田開発に参加、豊かな大地に恵まれ地元では有数の豪農となった。
屋敷は約7、000㎡もあったといわれ、壮大な入母屋の茅葺きの母屋はじめ多数の蔵からなっていた。
◇天然理心流に剣術を究める
徳川250年の安泰の時代から、黒船来航、天候不順による飢饉、各地で起こった農民一揆、更に安政2年(1855)で襲った大地震で世の中は騒然とした。
関東の豪農達は御法度とされていた剣術に力注がざるを得なかった。
幕末に関東取締出役の下に組合村が出来ると、捕り物に動員されるようになり、武術修得のニーズが生れた。
天然理心流宗家三代目の近藤周助は多摩の豪農層を中心に門人を開拓した。
宮川家の広い庭は後の天然理心流の剣術の格好の練習場にもなった。
勇は国領宿で天然理心流の道場を持つ原田忠治に非凡な才能を見いだされ、天然理心流宗家三代目の近藤周助に引き合わされる。

嘉永元年(1848)勇は正式に天然理心流に入門し、翌年、周助の養子として迎い入れられ、周助の旧姓嶋崎とし、名を勝太と改めた。

勇は住み慣れた上石原の宮川家を離れ、江戸牛込甲羅屋敷(現在の新宿区市ヶ谷柳町)にあった天然理心流試衛館道場に移り住む。
安政2年(1855)天然理心流の腕は磨かれ、晴れて免許を取得する。

◇野試合

                  <野試合が行われた日吉神社の背後>

Img_3941111 老齢化した近藤周助から勇への世代交替が必要であった。
文久元年(1861)8月、府中六所宮の境内で勇の天然理心流四代目襲名披露の試合が行われた。
その陣容は
本陣: 総大将 近藤勇、 旗本衛士 江戸七人、軍師 寺尾安次郎、軍奉行 沖田林太郎(総司の義兄)、軍目付 原田忠治(勇の師) 江戸二人、太鼓 沖田総司、鉦役 井上源三郎

赤軍大将:萩原糺(きゅう) 以下
         佐藤僖四郎(日野宿)、日野信蔵(日野宿)、中村太吉朗(日野宿) 山南敬助、土方歳三、他隊長以下全員で36名
         
白軍大将:佐藤彦五郎 以下
        井上松五郎(千人同心)、多摩・江戸剣士、隊長以下全員で36名
一流剣士が双方36名が小グループに別れ布陣し、沖田総司の打つ太鼓を合図に激しい野試合を行った。
一回戦は白軍が勝ち。二回戦は山南敬助他が白軍の大将、佐藤彦五郎を打ち取り赤軍の勝利になり、、三回戦は大将同士が打ち合い、佐藤彦五郎が萩原糺を打ち取り白軍の勝利になった。
試合に関わった80名と見学した、取り巻き連中を併せると大変な賑わいの中で行われた。

戦いが終わった後、血気にはやった若者達が府中宿に繰り込み、酒の勢いもあって大騒ぎしたようであるが、総大将も自ら野戦に出陣したことを吐露している。
総司の太鼓、源三郎の鉦が打ち鳴らす姿を想像するだけでも面白い。

こうして名実共に近藤勇、天然理心流四代目が誕生する。

       <近代化の渦に、松本旅館はホテルに替わってしまった>

Img_39861 大騒ぎした場所の一つ府中六所宮前の旅籠松本屋も近代的に改装され、すっかりその面影も消えてしまった。

久しぶりに訪れた府中に、勇の関わり場所を見てきたが、時代の波に、呑み込まれる姿が残念であった。

            <かっての旅館の姿 >

Img_2155

勇はこの後、妻つねを迎えるが、短い結婚生活であった。そんな"つね"の姿をこちらで書いてみた。

ようこそ幕末の世界へ

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