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池田屋事件で憤死の宮部鼎蔵

      <舞台となったかっての池田屋>Img357 大河ドラマ「八重の桜」は歴史の歩みは駆け足でドンドン進んでいく。
一つの節目として、血で血を洗う衝動的な池田屋事件が報じられた。
新選組の雄姿を背景に、ネットでの国営放送の案内ではこんな言葉が踊っている。
「新選組、暴れます!
京都の治安維持のため、 新選組の襲撃により、多くの尊皇攘夷派志士が負傷した「池田屋事件」。この事件が、幕末のゆくえを大きく変えていく・・・。今回はこの池田屋での壮絶な乱闘を、あますこととなく表現。階段落ちや華麗な立ち回り、沖田総司のかっ血など、みどころたっぷり。」
元治元年(1864)6月三条木屋町の池田屋で尊皇攘夷派の過激浪士達が京都焼討を画策ているところを、新選組に襲撃され、多数が斬り死にを遂げた。
会津藩のお抱えになって間もない、新選組の華々しいしい戦果の中で、会津藩の山本覚馬は倒れた浪士がかっての仲間であった死を悼んでいるようでもあった。
池田屋で亡くなった一人、宮部鼎蔵について触れてみたい。

◇吉田松陰と無二の親友
宮部鼎蔵は文政3年(1820年)、肥後国の医師の家系に生まれ、山鹿流軍学師範の叔父の養子となる。
嘉永3年(1850年)、藩の山鹿流軍学師範に登用される。 同年、九州に遊学していた吉田松陰と知り合う。同じ山鹿流の兵学者である松陰と意気投合し、無二の親友となる。

◇東北行き
翌年、松陰と共に、北辺警護の視察を兼ねて東北諸国を歴訪する。
松陰は萩の藩校明倫館の兵学者として修行し、山鹿素行を学祖とした山鹿流兵学究めることであった。松陰は23歳で極秘三重と言う山鹿流兵学最高の免許を受け、東北諸藩を歴訪する大旅行はそんな意義もあった。
会津日新館には特別の関心を示し、槍術師範の特別のはからいで日新館を見学し感銘を受けたが、藩の許可なしで東北行きを敢行した科により御家人召放しとなった。

        <舞台となった会津藩校「日新館」>Nissinkan201

◇会津藩校との繋がり
そもそも教育の第一線として会津の兵学者山鹿素行の考え方が大きな影響を与えていた。しかし、素行は官学の朱子学を批判し、数々の著作物を世に出したが「不届きな書物」として時の執権会津の保科正之により、勾引(こういん)され、旧赤穂家に配流されてしまう。
藩は奥羽の抑え、防御の盾の役割から、実戦向きで軍事調練を重視するもので、長沼澹斎が創始した長沼流の兵学が天明8年(1788)に会津藩が導入された。
ドラマでも演じられた壮大な軍事訓練の一つが「追鳥狩」もその流れにであろう。
しかし、藩校の原点は山鹿素行であり、松陰や鼎蔵が特別な関心事であったと考えられる。
山鹿流を取り持つ縁で、日新館を舞台にした松陰、鼎蔵、覚馬が未来について語りあう、仲間であったと思われる。

◇門弟の育成
嘉永7年(1854年)、松陰は再来日した米国艦隊に侵入して米国に密航を図ったが、失敗している。
松陰は幕府に目を付けられ厳しい尋問を受けるが、鼎蔵も太刀と和歌を贈って激励米国行きを支えた 一人であったか、目を付けられる。
安政2年(1855年)、門弟と横井小楠の一派との間で起きた乱闘騒ぎの責任を取る形で軍学師範を辞職郷里にて閑居の身となる。その後はしばらくの間、門弟の育成に努める。

◇尊攘派に深入り
文久元年(1861年)、前年に大老・井伊直弼が暗殺され、全国各地で俄かに尊攘派の勢いが増すと鼎蔵は肥後勤王党に参加、肥後における尊攘派の中心人物となる。
肥後藩は朝廷の要請から、京都警護の親兵として御所の警護の任に当たった。
文久3年(1863)の8月18日の政変で、長州藩と三条実美ら長州派の公卿たちがいっぺんに京を追われた。
御所の警備の肥後藩士も全員帰藩を命じられたが、鼎蔵始め勤王派の連中は拒み、脱藩して長州に入った。
鼎蔵は尊攘派の中核を担う一人として、池田屋で過激なテロ活動に画策していたのであった。
京都の旅籠池田屋にて尊攘志士らとの会合中に新撰組の襲撃に遭う。
屋内で応戦するが衆寡敵せず、逃げ切れないと覚悟して自刃した。

池田屋や日新館についてはこちらで紹介しています。

<ようこそ幕末の世界へ

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