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「近藤勇」大和田の渡し襲撃事件

             甲州道八王子宿の大和田橋Sanada01

甲州道を下り、日野宿から八王子宿に向かう途中に浅川越えがあり、現在大和田橋が掛けられているが、当時は大和田の渡しと言って舟で浅川を渡っていた。
この大和田の渡し付近の河原には処刑場があり、閉鎖後、慰霊碑が建てられ、毎年2月28日に供養したが、その碑も、建物の開発の蔭に無くなってしまったが、寂しい所と想像出来る。

◇甲陽鎮撫隊が通過、
慶応4年(1868)3月、大久保大和こと近藤勇率いる甲陽鎮撫隊は、東山道を江戸へ進撃して来る倒幕軍を甲州城勤番武士と共に甲州城で迎え撃つという計画で意気揚々と甲府を目指し、此処を渡った。しかし、甲府は既に新政府軍側に墜ちていた。途中の勝沼の戦いで既に身構える新政府軍に破れ、追われ身でばらばらになり江戸に戻ってくる。

その行きがけ、天然理心流の門弟仲間であった西村一平(島崎一)宅に立ち寄った。勇は石の上に腰を下ろすと、一平はことなげに「甲州に入ると三日の内に追い飛ばされるだろう」と断言したと言う。皮肉なことに一平の予言が的中してしまった。
心配の余り、一平は物見に出かけて見ると、勇は甲州道を東に江戸に向かい浅川を挟んだ大和田の渡しを渡ろうとしている時であった。

◇勇襲撃される
15歳の小峰松之助が突如、勇の背後から斬り付けてきた。
しかし、京で幾多の歴戦をくぐり抜け、名だたる天然理心流の宗家なら、そんな柔でない、勇の敵ではなかった。
撃ち下ろす太刀にさらりと体を交わし、松之助は一太刀も浴びせられずに浅川の河原から退散してしまった。
負け戦で力落とし勇は新政府軍に追われながら再び来た道を辿り江戸へ目指してきた。
笹子、小仏の山越えと悪路難渋の甲州路をようやく八王子宿にたどり着いた時に突如の襲撃に勇の驚きは計り知れない。

◇攘夷に走り兄、憤死
襲撃した松之助が育った小峰家は左入村の豪農で名主を勤めていた。
自宅の背後は裏山が控え、小峰家の庭先が多摩川の一画まで繋がる、左入のお大尽と言われる豊かさを誇る財力の持ち主であった。
父、久次郎は剣をたしなみ、増田蔵六より、剣術天然理心流を学び、免許皆伝迄取った。
自宅内に仮道場を設け、剣に歩む父の姿の後を追うように、長男範之介及び次男松之助は剣の道に入っていった。
範之介は19歳で戸吹村、天然理心流の松崎和多五郎に入門する。
範之介は生まれつき剣の素質にすぐれ、僅か2年11カ月で、切紙、目録、中極位目録迄取得してしまう。後に神田お玉ヶ池のほとりにある北辰一刀流の玄武館に入門し、才覚を発揮し、塾頭になる。
玄武館にはペリー来航や桜田門の変など激動の世の中、千葉周作が水戸藩に招かれて出仕したことから、千葉の多くの門下生と同様に範之介は攘夷に心動かし、攘夷運動に走った。
天狗党を支援し、更に横浜の夷人を襲う計画するなど、幕府側に察知され、追われる身になる。
元治元年(1864)10月江戸に潜入、深川に匿われたが、程なく市中警護の新徴組に包囲され、21箇所の傷を受け凄惨な姿で絶命したと言われている。松之助が31歳の時であった。屍体は国事犯として千住小塚原の回向院下屋敷に棄葬された。

◇遺恨の矛先
その遺恨は範之介の死後約4年経過しても尚、弟松之助の中では密かに認め熟成され、その機会を待っていた。
偶然だったのか、目の前を通過する近藤勇を兄範之介の仇と矛先を向けてしまった。
範之介の殺害に直接手を下したのは新徴組であったが、幕府なら、誰でもと、少年の心を揺れ動かし衝動的に走ってしまったのではなかろうか。
小峰家次男として、兄同様、剣の道に歩んでいたが、未だ少年であった、松之助には相手が悪かった。

少年時代の松之助が背負った襲撃事件は幕府の崩壊と共に新政府の登場で新しい時代を迎える過程での、混乱の最中に起きた事件であった。松之助は兄の範之介同様、北辰一刀流の千葉道場の門弟であった。兄と同様優れた剣客として、八王子を中心に北辰一刀流を教え、生涯を剣の道で飾った。

詳細は「ようこそ幕末の世界」で掲載

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