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お江戸ぶらり旅、千駄ヶ谷~お茶の水

Img_10141 当ブログでも案内したが、その日を迎えた
差程暑くなく、格好の外歩きの日であった。
何時ものメンバーとも併せ、ひの広報で呼びかけ、予め予約された方や直接来られた方など10数人の集りであった。

◇紀州徳川家下屋敷
千駄ヶ谷駅前から出発、右手に津田塾大、左手に室内体育館があり、駅前の道は鳩森神社に繋がる。
江戸城を追われた13代将軍御台所の「天璋院」篤姫は14代将軍家茂の生母「実成院」らと一緒に移ってくる。
かっては大奥に仕えた3000人余りの女中衆はそれぞれの道を歩み、此処には僅かな付き人を伴いやってきた。
大奥を新政府に明け渡し、一橋家、築地の一橋下屋敷、青山の紀州邸、戸山邸、赤坂溜池の旧相良邸など転々とし、明治10年(1887)に当地にたどり着いた。
屋敷の北端は千駄ヶ谷駅の南側の線路沿いから、西側は現在の明治通り付近、南端は原宿駅付近、東側は現在の室内体育館付近で、間に人家を囲い込んだ飛び地を含め、約10万坪を擁する長方形の広大な土地であった。

Img_5036111 津田塾大背後の樹木の茂みは当時の面影を残すもので旧邸と言われ場所で、篤姫が晩年ここで暮らしていた。
篤姫没後、道を挟んで反対側の体育館側には手狭な旧邸から新邸が建てられ、一度焼たが再建され、建物は戦後まであったが、一掃され、体育館が建っている。
徳川宗家は維新後慶喜から家達に変り、天璋院は嫁となる公家の泰子(ひろこ)とも併せ養育するなど、徳川家の武家のしきたりを守った。
薩摩女の血流を持ちながら、徳川家として和宮と共に戦い抜いた。豪華絢爛の大奥の世界から、質素な世界へ。
宗家として漸く落ち着き先が見つかったものの、篤姫は明治16年(1883)幕末時の波瀾に満ちた生涯を48歳で此処で閉じる。
「家達の跡取りが生れたら、島津家から嫁をもらうように」と遺言を残しているが、家正の誕生を見る前に亡くなっている。(家正の誕生は明治17年)
徳川宗家は新邸に移り家達の時代に一般家庭から離れた、華族としての特殊世界が戦中まで続けられた。

◇試衛館道場跡
目の前の都営地下鉄大江戸線・牛込柳町に向かい試衛館道場跡へ
柳町病院と住宅地の一画に碑が立ち、僅かにその跡が確かめられる。
天保10年(1839) 市谷(柳町)に天然理心流の試衛館道場を作った。
文久元年(1861)近藤勇、府中六所宮で天然理心流四代目襲名披露試合宗家四代目を継ぐ。
試衛館道場を拠点に入門者が生れ、多摩郡の富裕な豪農層に出稽古で門弟を増やし、基盤が生れる。
浪士組として幕府の、将軍援護のため上洛し 会津藩の配下で壬生浪士組から新選組の組織が誕生し治安維持に活躍し、天然理心流の名を天下に広める。
戊辰戦役ではラスト侍とまで言われ、旧幕府軍として戦い散っていった。
勇始め沖田総司、山南敬介、永倉新八、藤堂平助、等々試衛館道場の門弟らが激しく稽古に励む、音、息づかいがこの辺りで、響きわたったのであろうか・・・。
新選組はテロが横行する京の街に、治安維持で池田屋事件で、華々しい成果があった、
時代が変わり、薩長主体の新政府が生れると、それが逆恨みとなり賊軍とされた。
維新を迎え、明治政府から、天然理心流は賊軍の武術として、見せない、教えないの、しばりが付けられ、一時水面下に潜ったが、最近、あちこちで復活の声が上がった。

◇明治大学博物館・昌平坂学問所

Yusima101都営地下鉄大江戸線からJR中央線に乗換お茶の水へ
お茶の水は学問所が生れ、そのまま学生の街に繋がっている。参加されたお二人が某M大、某中大のOBで多感な青春をここで過ごし、庭先の様な場所で、道案内には事欠かなかった。
博物館では「江戸の捕者」「牢間と捌き」「江戸の捕者具」、日本や諸外国の拷問・処刑具など、書物で想像する世界が、目の前に陳列され、見るもの総てが際立った。
よくぞ此処まで集められたか、怖い、恐ろしい暗い展示場に不気味さが漂う世界であった。
館内の一画から流される「白雲靡く、駿河台♪♪・・・♪」当然体にしみ込んでいるだろうからと、そのOB氏に斉唱をお願いしたが、場違いと、尻込みされてしまった。

神田川を越え、昌平坂へ向かう。
寛政9年(1797)幕府は「昌平坂学問所」(昌平黌ともいう)を開いた。
江戸時代の武家は、近世社会の支配者であり、指導者としての地位を保つため文武の教養をつむ。
藩士の中から俊秀を選んでここに留学させた藩も多かった。昨年、行った会津の日新館も藩校の一つで、此処に留学させている。
その意味で、昌平坂学問所は最高学府であるとともに、藩校の教員養成の機能。
孔子はその教え「儒教」は東洋の人々に大きな影響を与えた。その教え「儒学」に維新まで70年間続き、江戸時代の官立の大学として役割を果たした。
庄内藩郷士清川八郎、長州藩高杉晋作など著名な人物も此処が教育のステータスとして憧れの場所であった。
昌平黌から更に三社祭の熱気が残る、神田明神に寄り、広い境内の一画で散会した。
たっぷりと見どころ満載の江戸の旅は其処で無事に終わり、道案内人の重い役回りは解けた。

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武州多摩郡出身の攘夷志士「真田範之介」

◇多摩が創出した剣士の一人
戦国末期から江戸末期までの二百数十年は幕府の直接の支配下にあったことなどから、幕府を支え、幕府色の強い土地でもあった。
そんな佐幕の風土の中にありながらも、勤皇の志士として、多摩郡から輩出した異色の人物がいた。
此処滝山街道の東端の入り口に当たる多摩郡左入村はご存知、天然理心流のメッカと言われる、戸吹がこの滝山街道沿いにありその門弟が此処から輩出した。
真田範之介もその一人で剣の道で非凡な才覚を発揮し、剣術の道を歩み勤皇の志士であるが、黒船来航とも併せ関東各地に起きた攘夷活動に参画し、悲憤に倒れていった一人であった。
八王子で誕生した剣士「真田範之介」であるが、佐幕色強い土地柄、死後も後難を恐れ、関わる史料は殆ど処分され、残されていない。

◇小峰家と天然理心流

             <多くの門弟を指南した増田蔵六>

Img374 真田範之介は武州多摩郡左入村の名主、小峰久次郎の長男として天保5年(1834)に誕生する。
小峰家は左入村のを勤めていた。
小峰家は左入のお大尽と言われる豊かさを誇る財力の豪農で名主で、自分の所有地だけを歩いても、多摩川の釣りに行けたと言われている。
久次郎は剣をたしなみ、八王子千人町に住む、千人同心増田蔵六より、剣術天然理心流を学び、免許皆伝迄取った。
自宅内に仮道場を設け、剣に歩む父の姿の後を追うように、長男範之介及び次男松之助は剣の道に入っていった。
小峰家の範之介及び松之助の両兄弟は養子として離れ、逆に高木家から養子を迎え入れ、継いでいる。

◇天然理心流で才気発揮
範之介は19歳で戸吹村、天然理心流の松崎和多五郎に入門する。生まれつき剣の素質にすぐれ、通常の半分の約3年ほどで、中極位目録迄取得してしまう。その後、下恩方村の山本満次郎で習い、「天然理心流三術井薙刀武術門人姓名録」に残されている。
天然理心流は四代目近藤勇を始めとする、新選組の隊士達が輩出し、幕末の京の活躍で一躍「天然理心流」の名前を全国的に知名度をのし上げた。しかし、彼等は「天然理心流」の剣術のみで、範之介は剣術、柔術、棔法を含めた正式な三術を引き継ぎ修得した一人であった。

◇北辰一刀流、玄武館への入門
範之介は何故か、神田お玉ヶ池のほとりにある北辰一刀流の玄武館に入門した。
範之介は養子に行き、小峰軍司からに真田範之介に改め、各地流派の道場を訪れ剣客録に真田の名前で記録が残されている範之介は文久2年(1862)師でもある栄次郎が没後、実力が評価され、玄武館の塾頭になるなど、北辰一刀流でも非凡な才覚を発揮する。

◇天然理心流との絆
安政7年(1860)3月、松崎和多五郎は牛沼山王社(秋川神明社)に天然理心流の大扇額を奉納しており、客分として真田範之介と帯同した北辰一刀流の弟子の名前が載っている。
範之介が江戸に出て 北辰一刀流に移ってからも、剣術を始めた天然理心流との交遊関係があり、深い絆で結ばれていた。

◇攘夷活動に身を染めて行った
玄武館の門人には江戸に屋敷を構える全国各藩の藩士達も多く、ペリー来航や桜田門の変など激動の世の中、情報が玄武館の中でも飛び交った。取り分け千葉周作が水戸藩に招かれて出仕したことから、千葉の門下生に多くの志士たちが集まった。範之介は攘夷に心動かし、西洋人のために日本が植民地化されることを恐れ、尊皇攘夷運動に走った。
◇攘夷に立ち上がったが失敗に終わる。
文久3年(1863)11月12日(旧暦)に上州高崎城を襲撃して奪い、更に兵を得て、横浜の夷人を襲撃する挙兵計画が北武蔵の尊穣派で建てられた。参画する同志は北武蔵土豪出身の儒者などの「天朝組」。千葉道場に入門した渋沢栄一、その近在する郷党の「慷概組(こうがいぐみ)」。九十九里の「真忠組」らが立ち上がった。
千葉道場の塾生である範之介は「慷概組」に参加を予定していた。
しかし、「天朝組」は予定した盟主が立たず、不発。「慷概組」は西国の天誅が惨めな敗北報に行動に無理があると中止。九十九里の浜地や小作農を結集した「真忠組」だけが立ち上がった が幕府の討伐軍に壊滅された。

◇範之介、幕吏と相まみえる
範之介は水戸藩の武田耕雲斎、などと深く交わりを深め、元治元年(1864)3月上州筑波山に水戸藩攘夷天狗党が挙兵した時に範之介は天狗党の外にあって資金面の協力と同志を集め天狗党に参加しようとした。
範之介は天狗党と袂を分け、一派を連れ、利根に航して横浜の夷人を襲う為、鹿島に行こうとする時、幕吏に囲まれ、戦ったが、勝ち目なく解散して流れた。

◇範之介の最期
元治元年(1864)10月16日夜陰にまぎれて江戸に潜入して深川船手屋の小林権左衛門に匿われたが、市中警護の幕吏新徴組に包囲され範之介と他は抜刀して戦い、新徴組6名に斬り付けたが遂に力尽き両名とも斬殺された。
範之介は21箇所の傷を受け凄惨な姿で絶命したと言われている。
範之介は31歳、二人の屍体は千住小塚原の回向院下屋敷に棄葬された。当然、この訃報は左入の小峰の実家にも伝えられた。
小塚原回向院は、国事犯の刑死者の死体をここに埋めることになり安政の大獄(1850)以降桜田門外事件、坂下門事件の橋本左内吉田松陰、頼三樹三郎その他、憂国の志士の屍は大抵此処に埋葬されたのである。
幕府に刃を向けた範之介も、同罪で、攘夷で杯を交わした仲間と境内で身を寄せ合い当院で静かに眠っている。

◇兄の敵討ち
惨殺された兄範之介の仇と、15歳の小峰松之助は、勝沼の戦いで新政府軍に破れた近藤勇が甲州道、八王子、浅川の大和田の渡しを渡ろうとしている襲撃したが失敗する。たまたま軍装した勇が通り、幕府側として、兄の仇と狙われた。

真田範之介の詳細についてはこちらで紹介しています。

ようこそ幕末の世界へ

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