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武州多摩郡出身の攘夷志士「真田範之介」

◇多摩が創出した剣士の一人
戦国末期から江戸末期までの二百数十年は幕府の直接の支配下にあったことなどから、幕府を支え、幕府色の強い土地でもあった。
そんな佐幕の風土の中にありながらも、勤皇の志士として、多摩郡から輩出した異色の人物がいた。
此処滝山街道の東端の入り口に当たる多摩郡左入村はご存知、天然理心流のメッカと言われる、戸吹がこの滝山街道沿いにありその門弟が此処から輩出した。
真田範之介もその一人で剣の道で非凡な才覚を発揮し、剣術の道を歩み勤皇の志士であるが、黒船来航とも併せ関東各地に起きた攘夷活動に参画し、悲憤に倒れていった一人であった。
八王子で誕生した剣士「真田範之介」であるが、佐幕色強い土地柄、死後も後難を恐れ、関わる史料は殆ど処分され、残されていない。

◇小峰家と天然理心流

             <多くの門弟を指南した増田蔵六>

Img374 真田範之介は武州多摩郡左入村の名主、小峰久次郎の長男として天保5年(1834)に誕生する。
小峰家は左入村のを勤めていた。
小峰家は左入のお大尽と言われる豊かさを誇る財力の豪農で名主で、自分の所有地だけを歩いても、多摩川の釣りに行けたと言われている。
久次郎は剣をたしなみ、八王子千人町に住む、千人同心増田蔵六より、剣術天然理心流を学び、免許皆伝迄取った。
自宅内に仮道場を設け、剣に歩む父の姿の後を追うように、長男範之介及び次男松之助は剣の道に入っていった。
小峰家の範之介及び松之助の両兄弟は養子として離れ、逆に高木家から養子を迎え入れ、継いでいる。

◇天然理心流で才気発揮
範之介は19歳で戸吹村、天然理心流の松崎和多五郎に入門する。生まれつき剣の素質にすぐれ、通常の半分の約3年ほどで、中極位目録迄取得してしまう。その後、下恩方村の山本満次郎で習い、「天然理心流三術井薙刀武術門人姓名録」に残されている。
天然理心流は四代目近藤勇を始めとする、新選組の隊士達が輩出し、幕末の京の活躍で一躍「天然理心流」の名前を全国的に知名度をのし上げた。しかし、彼等は「天然理心流」の剣術のみで、範之介は剣術、柔術、棔法を含めた正式な三術を引き継ぎ修得した一人であった。

◇北辰一刀流、玄武館への入門
範之介は何故か、神田お玉ヶ池のほとりにある北辰一刀流の玄武館に入門した。
範之介は養子に行き、小峰軍司からに真田範之介に改め、各地流派の道場を訪れ剣客録に真田の名前で記録が残されている範之介は文久2年(1862)師でもある栄次郎が没後、実力が評価され、玄武館の塾頭になるなど、北辰一刀流でも非凡な才覚を発揮する。

◇天然理心流との絆
安政7年(1860)3月、松崎和多五郎は牛沼山王社(秋川神明社)に天然理心流の大扇額を奉納しており、客分として真田範之介と帯同した北辰一刀流の弟子の名前が載っている。
範之介が江戸に出て 北辰一刀流に移ってからも、剣術を始めた天然理心流との交遊関係があり、深い絆で結ばれていた。

◇攘夷活動に身を染めて行った
玄武館の門人には江戸に屋敷を構える全国各藩の藩士達も多く、ペリー来航や桜田門の変など激動の世の中、情報が玄武館の中でも飛び交った。取り分け千葉周作が水戸藩に招かれて出仕したことから、千葉の門下生に多くの志士たちが集まった。範之介は攘夷に心動かし、西洋人のために日本が植民地化されることを恐れ、尊皇攘夷運動に走った。
◇攘夷に立ち上がったが失敗に終わる。
文久3年(1863)11月12日(旧暦)に上州高崎城を襲撃して奪い、更に兵を得て、横浜の夷人を襲撃する挙兵計画が北武蔵の尊穣派で建てられた。参画する同志は北武蔵土豪出身の儒者などの「天朝組」。千葉道場に入門した渋沢栄一、その近在する郷党の「慷概組(こうがいぐみ)」。九十九里の「真忠組」らが立ち上がった。
千葉道場の塾生である範之介は「慷概組」に参加を予定していた。
しかし、「天朝組」は予定した盟主が立たず、不発。「慷概組」は西国の天誅が惨めな敗北報に行動に無理があると中止。九十九里の浜地や小作農を結集した「真忠組」だけが立ち上がった が幕府の討伐軍に壊滅された。

◇範之介、幕吏と相まみえる
範之介は水戸藩の武田耕雲斎、などと深く交わりを深め、元治元年(1864)3月上州筑波山に水戸藩攘夷天狗党が挙兵した時に範之介は天狗党の外にあって資金面の協力と同志を集め天狗党に参加しようとした。
範之介は天狗党と袂を分け、一派を連れ、利根に航して横浜の夷人を襲う為、鹿島に行こうとする時、幕吏に囲まれ、戦ったが、勝ち目なく解散して流れた。

◇範之介の最期
元治元年(1864)10月16日夜陰にまぎれて江戸に潜入して深川船手屋の小林権左衛門に匿われたが、市中警護の幕吏新徴組に包囲され範之介と他は抜刀して戦い、新徴組6名に斬り付けたが遂に力尽き両名とも斬殺された。
範之介は21箇所の傷を受け凄惨な姿で絶命したと言われている。
範之介は31歳、二人の屍体は千住小塚原の回向院下屋敷に棄葬された。当然、この訃報は左入の小峰の実家にも伝えられた。
小塚原回向院は、国事犯の刑死者の死体をここに埋めることになり安政の大獄(1850)以降桜田門外事件、坂下門事件の橋本左内吉田松陰、頼三樹三郎その他、憂国の志士の屍は大抵此処に埋葬されたのである。
幕府に刃を向けた範之介も、同罪で、攘夷で杯を交わした仲間と境内で身を寄せ合い当院で静かに眠っている。

◇兄の敵討ち
惨殺された兄範之介の仇と、15歳の小峰松之助は、勝沼の戦いで新政府軍に破れた近藤勇が甲州道、八王子、浅川の大和田の渡しを渡ろうとしている襲撃したが失敗する。たまたま軍装した勇が通り、幕府側として、兄の仇と狙われた。

真田範之介の詳細についてはこちらで紹介しています。

ようこそ幕末の世界へ

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