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「新選組縁の八王子駆けめぐる、その1」

新選組は土方歳三・井上源三郎の誕生した日野市で、毎年祭りまで行われ、新選組ふるさととして、フアンの熱い目が注がれている。
しかし、新選組は、日野市に隣接する八王子市は日野より遥か面積が広く、此処から生まれ散っていった隊士達が多数いる。
一方では浪士組から新選組 としてテロリストで荒れる京の街に、活躍した背景は、天然理心流彼等の剣術であった。
開祖は薬研堀であるが、出稽古により門弟を増やした実質的な拠点は此処八王子の戸吹からである。

新選組の縁の地としてフアンなら一度は訪れたい場所を追ってみた。
①戸吹町桂福寺

Keifukuji02 八王子icの左入からサーマーランドに抜ける滝山街道と、高尾からの高尾街道が交差する場所が戸吹の交差点で、その近くに桂福寺がある。
豊臣に落ちた武田の落ち武者が、多数移り住み、武田の武士集団を祖としている家が多い。
幕府はこの熱き武田の集団を八王子千人同心として徳川の扶持を与え、八王子宿の防衛や徳川の菩提寺の日光勤番など、幕府崩壊まで幕府を支えた。

戸吹からも千人同心になったものも多く、名主の家でも、稽古場が生れ、天然理心流が同地で流行ったのも頷ける。
天然理心流の始祖は近藤内蔵之助であるが、江戸の薬研堀の道場から、出稽古で戸吹に門下を増やした。
武田の血を引く、代々名主の坂本家の三助は、近藤三助を名乗り、天然理心流宗家の二代目を継いでいる。
桂福寺には「剣聖光武神」と大書された看板のある祠があり、天然理心流開祖の近藤内蔵之助と二代目宗家の近藤三助の墓が仲良く並んでいる。

Keifukuji32
天然理心流宗家四代目の近藤勇は、新選組として京の街に治安維持での活躍で、天然理心流の名をあれだけ広めた。

戊辰役では幕府配下ので戦ったが、勇は捕まり板橋で処刑され、三条河原で首が晒された。それを知った戸吹の坂本家は官軍からの追求を避ける為に開祖と二代目の墓石も砕き隠してしまった。
時が経ち、昭和を迎え掘り起こされ、繋ぎ合わせた墓石が再び、表に出た。痛々しい墓石に歴史の重みをみることが出来る。

②観栖寺

Hatioji34陣馬街道をどんどん西へ下り、家並みも疎らな西寺方町に行き、中島登が誕生の地碑を見る。
八王子が生んだ新選組隊士の、中島登は土方歳三らと一緒に函館まで戦い、生き残った一人である。
絵心を持ち、函館戦争で虜囚の身となり、拘留中に仲間の一人一人の功績や戦死者に対する慰霊のため武者絵姿に描き、当事者が新選組を今日に伝える異色の隊士である。戊辰戦争の最前線で修羅場を潜り抜け、故郷で錦を飾るはずであるが、千人同心時代に人を斬り、出奔し、妻子とも別れ新選組に入った。
そんな背景から、故郷の武州多摩郡小田野(現八王子市西寺方町)に帰らず、浜松で銃砲店を開き第二の人生を送っている。
近くの観栖寺には中島の実家の墓である

千人同心から離れて暫く、身を隠すことに注がれ、新選組に入り、行方知れずの登は、妻子や故郷からも離れ、覚悟の上で当地には戻って来なかった。登は函館戦争で虜囚の身となり、釈放後は,戦友の勧めもあって、浜松に生活の場を求め、没後の亡骸も浜松に葬られ故郷に帰らなかった。
浜松に行き、銃砲火薬店で、登の遺志を継いだ末裔の方にお会いし、色々話を伺ったが、後を継ぐ方が、居ないのか、残念ながらそのお店も閉じられてしまった。

以下、このあと、追分、千人同心へ、記事は一端、ここで中終いとする。次回「新選組縁の八王子駆けめぐる、その2」に続く

旅の詳細はこちらで紹介しています。ご参照下さい
ようこそ幕末の世界へ

 


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天然理心流の聖地「桂福寺」

Keifukuji21千人同心や新選組の武州多摩地域に広まった一剣術の原点である、天然理心流の聖地として八王子市の郊外、戸吹町の桂福寺が知られている。
その史跡である桂福寺を尋ねて見た。
治龍山桂福寺は寛永2年(1625)に八王子から北5㎞程の寒村戸吹村(現八王子市戸吹町)に開基された。徳川幕府から朱印を賜り、幕府と関係が深いお寺の一つであることが判る。
此処、武州八王子戸吹村であり、この祠が聖地としての意味合いを持っている。


◇剣術の流行った戸吹
この付近は北条、武田の滅亡後の武士の子孫が多く、土着し農業や養蚕に従事していたが、剣道の盛んなところであった。
幕府は八王子千人隊を組織し、直轄領にし、江戸城を控える甲州街道の防御の拠点として、治安維持すること、併せ日光東照宮の常駐警備の任務に就かせた。戸吹から、千人隊に入隊する者が多かった。一方では夜盗など荒れる治安に備え、自衛の手段として若者は剣の道に励むことが多く、名主の家では道場も備えていた。

◇天然理心流の聖地
天然理心流は近藤内蔵之助によって創始された武術の一流派である。
当時、江戸にあった多くの道場は江戸に参府する武士たちが剣術を学び、地元へ流派を伝え広まった。しかし、天然理心流は出稽古によって広めたという、他の流派にない特長を持っている。
初代内蔵之助の道場は両国薬研(やげん)堀にあったが、出稽古に歩き、門人を増やしていった、一つが、武州八王子戸吹村(現八王子市戸吹町)であった。
戸吹の坂本家は武田氏滅亡時に一族と共に住み着き、代々名主を勤めた。その坂本家の三助が非凡な才覚を見いだされ、薬研堀の道場に向かい内蔵之助の門人として数年間修行する。
三助は後に天然理心流宗家二代目を引き継ぎ『近藤三助』を名乗り、自宅に道場を開いた。
内蔵之助に同伴し、出稽古に廻り飛躍的に門人を増やし、1500名余りを数える。
近藤三助は内蔵之助から剣術、柔術、棍棒(棒術)の三術と気合術も継承した唯一の人物である。
三助の門下から育った師範達は三助と同郷戸吹村出身の増田蔵六や松崎正作のほか島崎周平(町田小山村)、桑原栄助などがおり、それぞれの地元で門人の育成にあたった。島崎周平は後の近藤周助で、新選組で天然理心流の名を天下に広めた試衛館道場組も、三助の門下であった。
こうして、初代から二代目の引き継がれ、多くの門弟が生れ天然理心流が多摩地域普及の基盤となったが、三助が出稽古先の相原で謎の急死で気合術は途絶えてしまう。

◇天然理心流の祠

Keifukuji32 桂福寺の境内に入ると本堂の左手、墓地の入り口に「剣聖光武神」と大書された看板のある祠が目に入る。天然理心流の祠であり、一般の墓とは区分し、縁に相応しい扱いで、本堂の背後に控えてある。
この祠に3つの墓石と盤碑が並んでいる。右手にある小さな墓石は天然理心流開祖であり・初代宗家の近藤内蔵之助の墓であり、左手が第二代宗家の近藤三助のものである。二つの墓石は当初、坂本家屋敷墓地にあり、幕末の渦に巻き込まれ土中に眠っていたが、昭和45年深い眠りから覚め、現在の桂福寺の位置に建立された。
真ん中の光輝いてる墓は二つの墓が、発見される前年に地元有志によって作られたもので近藤内蔵之助と近藤三助の宗家の名が併記されている墓石である。
墓石の背後はには、木刀が掛けられた天然理心流の額が奉納されている。
右側の背後の説明板と盤碑は天然理心流の開祖から二代目に継受される、発祥と系譜、が詳しく書かれている。
ここが天然理心流の原点と知られる場所である。

◇復元された近藤三助の痛々しい墓石
近藤勇は天然理心流宗家第四代目である。近藤勇以下試衛館の剣士達は浪士組として京に向かい、治安維持で活躍し、新選組と命名、内外に知れ渡る。
池田屋事件では、テロ活動を発覚し、長州の吉田稔麻や熊本藩、土佐藩の志士達を襲撃する。
慶応4年(1868)年4月、戊辰戦役で薩長主体の新政府軍が、勢いを持つ中、新選組隊長近藤勇が朝敵として流山で捕縛され、板橋宿で斬首され、京の三条河原で晒された。
近藤勇の死は坂本家に伝わり、天然理心流宗家して繋がる近藤内蔵之助、三助の墓石が東征軍に知れ、追求を恐れた。
三助の墓石は小さく砕き、内蔵之助の墓石は小さいのでそのまま深い穴を掘って埋めてしまった。

◇100年後深い眠りから覚める
坂本家には代々墓石を処分した話が伝わっており、新しい墓石が建った翌年の昭和45年に坂本家の子孫と、三助の門人松崎正作の子孫によって発掘され、100年の永い眠りから再び甦った。
継ぎ接ぎだらけの墓石は近藤三助の家の南側の山裾の中腹にあったが坂本家の墓地から、桂福寺の現在地に墓石が建てられた。
三助の墓石は粉々になっているので一つ一つ掘り出し、この墓の復元について八王子郷土資料館に運び修理を依頼し、半年ほどかけて復元し墓石が完成した。

ショッキングな勇の処刑と三条河原の晒し首の事件はこんな寒村にも及んだ。
当時の新政府軍の追求の厳しさから、墓石をこのように粉々にして埋設してしまった。100年後再び、復元された墓石の傷が国内内戦の歴史を生々しく伝えている。
その痛々しい姿と桂福寺についてはこちらで紹介されている
ようこそ幕末の世界へ

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