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歳三の気を貰い戦った「日野高校」

甲子園の地方予選、西東京大会の決勝が終わり、日大三高が優勝し、都立日野が惜しくも準優勝になった。
群雄割拠する参加校の中、恵まれた環境の名門私立校に伍して、見劣りする都立校が決勝まで残ったのは快挙である。神宮球場が立ち見迄出る満員盛況振りはどうしても弱いものの味方、期待感の現れである。

その日野校は土方歳三の墓がある、石田寺の直ぐ隣である。
部員達の精神力は、隣接する歳三の意気がかかり引っ張り出している結果だと、思ったりしている。

これも、同地ならではの郷土愛となって、他校にない歳三の大事な遺産である。
同校は浅川と多摩川の合流位置の浅川岸にあり、かっての歳三の生家も流され、歴史的にも良く出水する場所で、市の中心部から外れた場所にある。
野球部はサッカー部と練習場が併用されるなど、他の都立校同様、脆弱な環境の中で監督の指導の元、鍛え抜かれ、年々強化された。今年は予選から準決勝まで、過去に甲子園に出場した名門私立校をも撃破して、遂に決勝まで進出した。
決勝では甲子園の常連校であり、野球漬けの環境の中、全国レベルの人材を要する日大三高に当たってしまった。遥か高いレベルにある事を見せつけられ、これまで勝ち抜いてきた日野高野球をさせて貰えなかった。

                        <石田寺 >

Yuutarou41 歳三はの日野高付近の豪農で育ち、天然理心流の剣術を身につけ、激動期に武士の世界に入り、折しも崩壊しかかる徳川幕府を支えた。京都の治安維持で活躍する新選組として功績を残し、会津藩下で幕府の軍事を担う。

倒幕の嵐の中、幕府配下で新政府軍と戦い、劣勢な幕府配下で鳥羽伏見、甲州勝沼で破れ、流山で歳三と無二の親友、近藤勇を失う。
宇都宮城を攻略後、会津若松城に向かうが落城し、榎本武揚の幕府の艦隊で蝦夷に向かう。
五稜郭を占領し、函館、松前を奪取し、歳三は函館政府陸軍奉行並となった。しかし、圧倒的な数と近代的な装備の新政府軍の前に破れ、旧幕府軍は降伏し、歳三は明治2年5月に函館の一本木関門で戦死する。

歳三は当時の混沌たる世の中、剣術の道を学び、士分に取り立てることの願いは叶えられたが、短い生涯であった。
歳三の墓は他にも散在する引き墓として石田寺にある。

勇と歳三を讃える殉節両雄之碑は高幡不動に建っている。
撰文した大槻磐渓(ばんけい)は以下の様に感慨を述べている
武士の激しい気概と節操を身につけ、自分の進 むべき道と死に場所を確かりと見極めている者は一度前へ向かって進めばその信念を枉(ま)げるような事はしないものである。
剣術を野球術に置き換え、隣に歳三がきっと応援してくれるであろう。

RCサクセションの「雨あがりの夜空に」の替え歌は同校の応援歌で力になっている。
同校OB忌野清志郎も天国から応援に、かけつけ、魂が乗り移り、後輩の選手達のパワーになっている。

歳三、日野高校、忌野清志郎、変わった取り合わせではあるが、これも"郷土愛"なのだろうか・・・。

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「八重の桜」千本木牧場

Img_453111111那須須塩原へ4家族でドライブ
アクセス先は小さい子も居たので、楽しめそうな所を選んでの旅であった。
その一つが千本松牧場で、子供が一緒に戯れる小動物や乗り物があり、ちびっこ達が主体の家族が多かった。アドバルーンが物凄い音を立て離陸し、浮遊する、ミニ空中旅行も楽しそうであった。
牧場の一画に「八重の桜」が咲いていた。
戊辰戦役では広大な栃木県下は激戦地もあったが、「八重の桜」がどう繋がって いるのか一瞬、考えたが、浮かばなかった。

どうやら千本松牧場の広大な土地の一部がロケで使われていたのだ。
そんな背景から、架設の建物で「八重の桜」のPR主体の番組展が実施されていた。
併せてロケ地ツアーも、準備されている。

意外な巡り合わせで「八重の桜」と出会えた。動物達との触れ合いは任せ、一人、八重さんの展示小屋に駆け込んだ。八重さんの衣装や、写真の展示。ドラマのダイジェクト版が映写コーナーで流され、一人独占で見てしまった。

千本松牧場でのロケで代表的なシーンを想い浮かべて見る。、

◇草原に桜の大樹

              <左に尚之助が見上げる木には八重が登り、二人の対話が生れる>

Image11向学心旺盛な八重は木の上で砲術本を無心に読むが、毛虫に驚いた拍子に本を落としてしまう。
たまたま通りがかった武士は江戸から覚馬を援助しようとやってきた尚之助で、その本を拾い上げる。
蘭学所の整備を急ぐ覚馬の協力者となり後の八重の夫となる尚之助との出会いは此処から生れる。

八重のお気に入りの読書スペースとなったり、高見の見物場所となったり、この木は八重と会津の人々を見守る、大事な場所である。
ドラマで度々、登場すえう丘の上にそびえる見事な桜の木のシーンは千本松牧場で撮影された。
シンボルとなる桜の木はNHKの美術スタッフが、高さ7m、幹周り2mの巨木を1ヶ月かけて作ったようであり、イメージ作りに、長期間に渡り、大工事により準備され、その心ゆきを感じられる。
そんな情景に此処千本松牧場の広大な草原の自然がドラマ作りに大事な役割を演じている。

◇「追鳥狩(おいとりがり)」

      <馬に跨がり、武具で装備された武将達、鳥を追う、勇壮な姿が繰り広げられる>

Image21111 

会津藩の役割は奥羽の抑え、防御の盾の役割にある。ところが高遠以来の寄集め軍団である会津藩は、過去に戦いの実績を持っていなかった。
徳川家と親戚で、東北第二位の大藩といえども、戦闘実績のある上杉や伊達に対し、軍備強化の備えが必要であった。
会津藩の軍事訓練は追鳥狩と言って、鳥や獣などを野原に放し、整列した侍が一斉に捕まえるという訓練があった。

ある種の軍事デモであり、会津藩の結束力、組織だった統制力を内外に披露し、総合的な軍事力を見せつける、ものであろう。前の晩から野宿して、夜明けと共に演習が開始され、他藩からも見学に来るほどであったと言われている。

会津藩士が最も張り切る軍事操練「追鳥狩」の真骨頂である模擬戦の最中に事件が起こる。
「一番鳥」の本命と目される番頭(ばんがしら)・西郷頼母が一羽の鳥に狙いを定め竹鞭を振り上げたとき、八重が邪魔をしてしまったのだ。そこへ藩主・松平容保が現れ、八重を救う。
追鳥狩の壮大なシーンも此処千本松牧場が使われた。

会津藩の軍事力、規律の厳しさ、警備の意識の高さなど、非常に高い評価を得ることになった。江戸湾三浦半島警備、江戸湾品川のお台場警備、更に京都守護職、などの受諾に繋がっていくが、一方では悲劇の幕開けとなった。

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「新選組縁の八王子駆けめぐる、その2」

前回の記事「新選組縁の八王子駆けめぐる、その1、」から続く

③追分、同心碑

Hatioji43 甲州街道と陣馬街道が重なる交通の要路の追分交差点は八王子千人同心屋敷があった跡を示す千人同心碑が立っている。
この一帯が「千人町」と言われる地名が付いている。
天正10年(1582)甲斐武田氏は織田信長・徳川家康の連合軍の攻撃を受け滅亡した。
甲斐は徳川の支配下となり、武田旧臣を徳川家臣団に組み入れられる。武田時代の小人組の警備体制が徳川時代に引き継がれ、後の千人同心になる。
日光東照宮の警備、蝦夷地の開拓などを行い、幕末には一次、二次の長州征伐や横浜の外人警備、品川のお台場警備など幅広く行い、江戸幕府を支えた。
八王子千人同心の中から医師、文人、思想家などの多くの学識者を輩出し、地域に文化的な影響も与えた。
天然理心流の普及を果たした近藤三助の有力門人8名中、増田蔵六、宮岡三八、松崎正作の3名が千人同心である。
指南役として千人町にも道場を持ち多くの千人同心を門人とし天然理心流が千人同心に広まった武術である。

④大法寺
柚木街道、国道16号、八王子バイパスが交差し、首都圏を囲む環状路の要所として、激しく行き交う交通の要路に
遣水がある。その遣水に横倉甚五郎の墓があり、横倉家の菩提寺である大法寺がある。

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横倉甚五郎は武蔵国八王子堀之内出身で土方歳三、土方勇太郎と同じ時期に天然理心流に入門している。
元治元年(1864)10月新選組に入り、竹田観柳斎の配下六番隊に配属し、伊東甲子太郎暗殺事件。紀州藩士三浦林太郎を挟んで襲撃する、土佐陸援隊・海援隊と保護する新選組と激闘する天満屋事件。高台寺党残党から襲撃を受けた近藤勇を護衛など、大きな事件に加わっていた。

戊辰戦争の幕府軍の移動と共に勝沼~流山~会津~蝦夷へと各地に転戦。弁天台場で降伏するまで戦い抜いたが、京時代の油小路事件や坂本竜馬暗殺事件などを追求され、哀れ獄舎で37年の短い生涯を閉じる。

弁天台場で旧幕府軍降伏弘前~青森移動しながら謹慎生活を送る。文才、画才のあった甚五郎は筆を取り慶応3年~箱館戦争終結までの隊士動向を付記した名簿を残している。自画像や近藤、土方も絵描き数々の墨絵を残し、中島登の戦友姿絵を残す強力な動機付けとなった。
中島登とは天然理心流を納めた同じ武州人で、戊辰戦争で共に戦い、箱館降伏後の謹慎中も同道した。
中島登、横倉甚五郎とも、絵心を持ち、通じ合うが、箱館降伏後、片や放免され自由の身になるのに対して、片や獄舎で処刑で象徴的な運命の違いであった。

「義のためにつくせしことも水の泡打ちよす浪に消えて流る々」
義のために一生懸命尽くすも、その意志が通じなかったのか、打ち寄せる波に泡のように消えてしまうのであろうか、獄中で果てる運命を前に諦めとも思える、辞世の句を残し、亡くなっている。

元治元年(1865)志を持って江戸で隊士募集に応じ、函館で 降伏を迎える明治2年(1869)までの約5年間、精一杯、義のために尽くしたが、意に添えず時代の変化に消されてしまった。そんな悔しい思いをせめて辞世で後世に伝えた。

⑤保井寺
日野の南側の小高い丘陵に多摩動物園があるが更にその南側に法井寺がある。日野に比較的近い位置にあり、里の雰囲気を残す場所である。
この法井寺に新選組隊士、斉藤一諾斎が眠る。
同じ新選組でも白河で歳三に変って隊長役を勤めた斉藤一とは別人物である。

Hatioji54 斉藤一諾斎は住職として全国行脚した後に各地に歴任する。慶応4年(1868)新選組が甲陽鎮撫隊として甲府へ目指す折に甲州全福寺の住職であった一諾斎は甲府を目指す新選組に参加する。当時、55歳と言う高齢での異例な新選組参加であった。
甲州路を西下する甲陽鎮撫隊には土地勘のある一諾斎は道案内役に役立ったと思われる。
甲陽鎮撫隊は勝沼戦争で破れ、一諾斎は土方と共に東北へ転戦する。一諾斎は、仙台で降伏後、放免される。

当地に戻った後、地元の教育に尽力。後に自由民権運動に参加する教え子達などを輩出し地元教育に注がれた熱意が地元の人達にも讃えられている。
保井寺の東隣に大塚観音に一諾斎の碑がある。建碑の寄付者は教え子で育った由木地域の自由民権活動家が中心であるが土方歳三の兄喜六の長男「隼人」、佐藤彦五郎の長男「俊宣」、近藤勇の義子「勇五郎」など新選組関連の末裔達の名前もある。

一諾斎の教え子など、新選組が育った多摩地域のエネルギーは民権運動として時代を越えて繋がってゆく。

その1、その2で日野市を抱え込む広大な八王子市を駆け回った。多摩地域として誕生した新選組隊士や、天然理心流など関わりの深いことが判る。

旅の詳細はこちらで紹介しています。ご参照下さい
ようこそ幕末の世界へ

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