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日野本陣へ山岡鉄舟がやってきた

            <明治天皇が休憩された本陣、上段の間(有山家)>

Image21_2高温高湿度、風も無く、ベットリまとわりつく様な空気に覆われた一日であった。
何時でも降りそうな陽気であったが、何とか持ったが、閉館間際に雷と共にバケツをひっくり返す激しい降雨が降り出した。そのいきなりドカンと言う激しい音でカミナリが落ち停電になったが、直ぐに復電した。そんな鬱陶しい陽気に来館は少なかった。


そんな一日であったが、午後、山岡鉄舟研究会の運営委員のYさんがお見えになった。
鉄舟の生き方に心打たれ、その看板の如く鉄舟の研究を通じて、学ばれる活動を取り組まれておられる。その会も毎月運営され、時には全国レベルで鉄舟のフアンや関係者が集まる組織である。
そんな識見をもたれる、要人に、拙い知識の案内人であることを前口上に、ご案内した。

<鉄舟と本陣の接点>
当、本陣には明治天皇が明治13年(1829)に京都行幸で休憩所の一つとして、来場され、記念の行幸の碑も建っている。翌14年、には御殿峠、多摩村連光寺へ兎狩りの時に再び来られ、休憩されている。京都行幸は300~350人の大集団であったが、兎狩りは少数であったが、その一人に侍従として明治天皇に仕えた鉄舟が一緒に来ている。本陣からは明治天皇は愛馬、金華山に跨がり、侍従の鉄舟も馬で狩場に目指した。
行動範囲の広い鉄舟も、そんな足跡が残されている。
その日の様子を次のように記録されている。・・・児玉四郎翁著「お若き日の明治天皇」から
2月20日の夜来の雪は晴れ渡り白皚(がい)々たる甲州街道を聖上は午前8時に八王子行在所御発輦(れん)、午前9時45分日野の佐藤俊宣宅にお付きになった。俊宣は急の御発輦に感激、表門の軒が低いので、路面を掘り下げて御愛馬のまま御通れるように工作し、家族一同は台所に差控えてお迎かい申し上げた。~ 暫くすると山岡大書記官(鉄舟)が主人に「聖上にお酒を差し上げる用意を」と言う。「お召料になるような上酒は土地にございません」と申し上げると「イヤ地酒でよい。酒器も当家で使用しているものでよろしい」と言われた。早速酒屋和泉屋(宇津木氏)から最上の地酒を取り寄せて差し上げた。暫くすると御在所から聖上のお笑いが聞こえてきた。俊宣は何か感興にかなってか、または粗忽でもあってのことか案じながら、後で侍臣に伺ったところ「あれは襖の蜀山人の自画自賛の狂歌が御感に適ってお笑いになったのだ」と言う事で俊宣は思わぬ光栄に胸がおどったとのことであった。

聖上は、ここから御愛馬金華山にお乗りになり雪の積もった細い路地を連光寺へと向かわれたのである。

これを読むと、明治天皇の御来場は急なものであり、献上する酒の用意に困り果てる俊宣に、普段着のままの地酒で良い旨の指示で、何とか取りなした鉄舟の機転が感じられる。

浪士組の幹部として、浪士を引き連れた鉄舟が、維新後、明治天皇の侍従として、本陣にやってくる。時代を越えて、明治天皇と180度立場を変えた鉄舟を出迎え、彦五郎は、何とか大役を勤めた。狩場に向かうお二人を見送る、彦五郎の姿に、どんな気持ちで、あっただろうか、歴史ドラマを見る様である。

<江戸城無血開城を蔭で支えた人物>
鉄舟は当ブログや拝のHPでも紹介している、江戸に迫る新政府軍の包囲網を潜り、幕府側の使者として官軍参謀の西郷隆盛のいる静岡に会い、江戸城無血開城と慶喜の助命嘆願を見事に成功させた立役者である。
そんな厳しい状況下で、駿府行きを同行し、鉄舟を支えたのが、薩摩藩士の益満休之助である。
益満は薩摩藩邸の焼き討ち事件で幕府側に捕まった一人で、処刑される所、勝海舟に救われ、幕府側の謂わばスパイ要員として使われた。
鉄舟の駿府行きに尊皇攘夷を打ち立てた『虎尾(こび)の会』で鉄舟とは旧知の間柄である益満が海舟により選ばれた。
そんな支援もあって、西郷隆盛と鉄舟との会談は成功するが、益満の同行が何処までかは謎に包まれたままであるが、江戸に戻り、薩摩藩遊撃隊として上野戦争に参加し戦死する。

<知見披露のスイッチが入る>
そんな数奇の運命にある、益満の話で、来館者の鉄舟研究会のYさんの豊富な知見が閃き、遂にスイッチが入ってしまった。
鉄舟が西郷との会談で、何故幕府側の代表とされたか。鉄舟が駿府行きで新政府軍に追われ匿われた静岡県庵原郡由比町「藤屋・望嶽亭」。静岡に建てられた「西郷・鉄舟の対談の碑」等々、よどみなく鉄舟に関わる大変コアーな話しの蘊蓄を披露して頂いた 。

此処で益満の話が出るとは夢にも思って居なかった。幸いにして他に来館者も他におられず、鉄舟を通じた幕末談義に熱くなってしまった。

当日名前が出なかったが、杉並の大宮八幡近くの永福町通りに益満の眠る「大圓寺」に寄って頂き、手を合わせて頂ければ、益満も喜んでくれるであろう。

Yさんとの巡り合わせ、楽しい一時でした。有り難うございました。

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彦五郎の晩年に思う

連日35℃を越えるこのくそ暑い日々、一向に下がる気配を見せず、何時まで続くのであろうか・・・。
パタパタと背後から、顔面近くをよぎって、道端にぽとりと落ち、仰向けにひっくり返った最後の力を振り絞り、パタパタと羽根を立てるが力尽きて果てる。道端には累々とした蝉の死体が見受けられる。
そんな暑さの象徴の油セミから、朝の早い時間にカナカナと涼しげな声を出すカナカナ蝉とも言われるヒグラシがこの暑さの終幕を告げる様な感じもする。
本陣の開館前に中庭で砂利かきをするが、この暑さに、多少の涼気を呼ぼうと、大量の水撒きするが、この熱気に忽ち乾いてしまう。朝とはいえ容赦ない日照りに、吹き出る汗は留まらず、全身びしょ濡れ、開館前にユニフォームに着替え、清涼な気分で出迎える。

こんな暑さのおり、季節柄、佐藤彦五郎の俳句が浮かんでくる。

             <彦五郎晩年暮らした部屋>

04110023佐藤彦五郎は明治維新を迎え、参勤交替や、問屋場など幕府直轄領としての重職を解かれた。時代の渦に巻き込まれ、旧幕府軍を支えた新選組も戊辰役終焉で波瀾万丈の世界は終わった。維新以降も区長や南多摩郡長を務めるなど公職に携わったが、息子に譲りをその要職も解かれ、村事と俳句三昧の世界に入り、この「中の間」で悠々と余生を送った。

「一と筋に 道は平らの 夏のかな」
これまでの人生は名主、問屋場の仕事、新選組を支えたことなど波瀾万丈の人生であったが、これから行く先は高い山も深い谷もなく平坦で、夏の暑い日差しの中に、真っ直ぐな一筋の道 が見えてくる。

「行く先は知らねど知れて夏野越」。
死んでから行く先のことまでは知らないが、もうそろそろお呼びがかかる頃だということは判っている。それにしてもこんなに弱った体、よくもまあこの夏の酷暑を乗り越えられたものだ、若い頃天然理心流で鍛えたお蔭かも知れぬ。

◆淡々とを死を迎える

この連作は死の床について数カ月、「この夏は越えられないと思っていたが 、何とか越えられた」という安堵感と「もはや死は避けられぬ」と言う諦観が漂っている。
来るべき死を前に、覚悟は出来、淡々と迎えるだけと達観した彦五郎の気持ちが、この連句に乗せられているようである
明治35年(1902)9月17日、彦五郎は満76歳で没する。
「喜寿まで生きたいものだ」と言っていた言葉が数え年では達成されている。

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「石田」は多摩川と浅川の合流点、豊かな恵みと洪水の歴史

              <水再生センターの一画にある北川原公園。その向かい側がとうかんの森>

Img_275511111前回、当ブログで日野高校を案内したが、歳三の生家がこの付近であった。
日野高校、石田寺は隣にあることは紹介したが、北側は水再生センターがある。その一画に北川原公園があり、その向かい側はとうかんの森である。
その北川原公園が歳三の生家であった。
同地帯は浅川と多摩川の合流点であり、歴史的にも出水の災禍に見舞われている。

<歳三生家流出>
万治年間(1658~61)では大水で1.8m浸水し、石田寺は流失する。
弘化3年(1846)6月、歳三が12歳の時に長雨で川が増水し、堤防が決壊し、一帯は洪水となり、生家の土蔵が流され、母屋も時間の問題であった。村人が総出で、母屋等を解体し、字北田(現在の資料館)に移築した。

現資料館の入り口の2本の柱と梁は旧宅の大黒柱から流用したものと言われている。
洪水時に村人を動員するのは石田村では土方家は一番の旧家であり、何時の頃か「石田の大尽」と呼ばれていたことからも頷ける。

<日野渡船転覆>
甲州道はこの多摩川を舟で渡り、日野渡船場として日野本郷の名主の佐藤家が管理していた。
同年6月中旬から川留めとされ渡船の往来は止められていたが、7月2日に川明けとなり、旅人25人、と荷駄などを乗せ船頭4人が操船して渡った。
折悪く突風で舟が転覆、助かったのは2人の船頭のみで32人が犠牲となり、六郷まで流された遺体もある、大惨事となった。
この舟には日野宿に留め置かれていた諏訪印旛守家来の先触4通、御用状1通、道中奉行への注進状3通などが乗せられていた。
事故は代官所に報告され、検使に来て、公用状の流出が重視された。公儀が人命より重かったのである。結果は当番組頭に過料三貫門、名主問屋・組頭、を急度叱りおくことで、落着した。時の名主兼帯問屋は佐藤彦五郎で、20歳であった。

 
          <現代でも出水の爪痕を残す、浅川の洪水事例>

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2007年日野橋付近で、出水、ブルーハウスの住民が取り残され、ヘリコプターで救出され、大騒ぎになった事件もあり、出水事故は現代でも続いている。

時代を越えて、普段おとなしい河川も、時にはキバをむき出し、暴れる。取り分け浅川は多摩川と比べ流速が早く、激しく、暴れ馬のように、多摩の気概が乗り移っているような感じがする。

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