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「石田」は多摩川と浅川の合流点、豊かな恵みと洪水の歴史

              <水再生センターの一画にある北川原公園。その向かい側がとうかんの森>

Img_275511111前回、当ブログで日野高校を案内したが、歳三の生家がこの付近であった。
日野高校、石田寺は隣にあることは紹介したが、北側は水再生センターがある。その一画に北川原公園があり、その向かい側はとうかんの森である。
その北川原公園が歳三の生家であった。
同地帯は浅川と多摩川の合流点であり、歴史的にも出水の災禍に見舞われている。

<歳三生家流出>
万治年間(1658~61)では大水で1.8m浸水し、石田寺は流失する。
弘化3年(1846)6月、歳三が12歳の時に長雨で川が増水し、堤防が決壊し、一帯は洪水となり、生家の土蔵が流され、母屋も時間の問題であった。村人が総出で、母屋等を解体し、字北田(現在の資料館)に移築した。

現資料館の入り口の2本の柱と梁は旧宅の大黒柱から流用したものと言われている。
洪水時に村人を動員するのは石田村では土方家は一番の旧家であり、何時の頃か「石田の大尽」と呼ばれていたことからも頷ける。

<日野渡船転覆>
甲州道はこの多摩川を舟で渡り、日野渡船場として日野本郷の名主の佐藤家が管理していた。
同年6月中旬から川留めとされ渡船の往来は止められていたが、7月2日に川明けとなり、旅人25人、と荷駄などを乗せ船頭4人が操船して渡った。
折悪く突風で舟が転覆、助かったのは2人の船頭のみで32人が犠牲となり、六郷まで流された遺体もある、大惨事となった。
この舟には日野宿に留め置かれていた諏訪印旛守家来の先触4通、御用状1通、道中奉行への注進状3通などが乗せられていた。
事故は代官所に報告され、検使に来て、公用状の流出が重視された。公儀が人命より重かったのである。結果は当番組頭に過料三貫門、名主問屋・組頭、を急度叱りおくことで、落着した。時の名主兼帯問屋は佐藤彦五郎で、20歳であった。

 
          <現代でも出水の爪痕を残す、浅川の洪水事例>

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2007年日野橋付近で、出水、ブルーハウスの住民が取り残され、ヘリコプターで救出され、大騒ぎになった事件もあり、出水事故は現代でも続いている。

時代を越えて、普段おとなしい河川も、時にはキバをむき出し、暴れる。取り分け浅川は多摩川と比べ流速が早く、激しく、暴れ馬のように、多摩の気概が乗り移っているような感じがする。

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