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戊辰戦争、下野その1、「小山」攻防戦

幕府の時代から近代国家へ移り変わる過程で内戦となった、戊辰戦争は鳥羽伏見の戦いから始まり、江戸の無血開城、会津若松城の落城、箱館戦争と戦線が西から東北から北海道へ移って行く。
戦役地域が江戸から下野と言われる北関東へ移行してゆく過程で、宇都宮城の攻防戦は取りつ、取られつの雌雄を決する戦いであった。宇都宮城の攻防を巡り、周辺の戦いがどう繋がり、関わったかを知りたかった。
宇都宮城攻防戦は既に2010年に城の一部復元された姿を見ており、当hpで掲載済であり、此処では、下野の戊辰戦役としての跡を辿ってみる。
京都、会津、函館などの場所は観光化とも併せ、歴史にスポットが当てられ、新選組や幕末のフアンが歴史の登竜門のだろうか、良く行かれる場所でもある。
下野の戦役は北関東の広い範囲で展開されており、車が無いと行けない場所も含まれる。紹介記事と写真だけの限られた情報に道不案内のサンデードライバーは、相当な準備が必要であり、色々リスクを背負い込んでの旅達は二の足を踏んでしまう。たまたま同地方に住む熱心な幕末フアンが、一緒に廻ってくれる機会が生れ、定員2名の軽トラックに、乗り、歴史史蹟を駆けめぐった。
場所探しに 、振り回されることなく、案内されるまま、お気楽な助手席で身を任せ、探索探訪に集中できた。

◇旧幕府軍、聖地、日光向かって進軍
旧歩兵奉行大鳥圭介が450名の伝習歩兵、他歩兵7連隊、桑名藩兵が加わり総勢2000名の大部隊になる。
総監に大島司令官は会津藩士、秋月登之助(本名江上太郎)、参謀には新選組土方歳三が就き日光へ進軍する。
徳川家康の廟所であり、日光を拠点にし、旧幕臣達の精神的な拠り所として士気を高めると言う、心理的な効果を計算していることが伺える。
宇都宮城攻略戦でも「東照大権現」の白旗を翻し戦っていることも八王子出身の新選組隊士中島登やもう一人の隊士島田魁からも日記で記録されている。・・・本ブログでも紹介している。

<「常光寺」も激戦地。台座に銃断跡がある阿弥陀如来像があったが、地震で崩落。>

Img_27081111
江上・土方率いる前軍、大島率いる中後軍の二派にわけ進軍する。
前軍は小金町、水街道、下妻、を経て下野芳賀郡に向かった。中後軍は松戸、諸川を経て小山宿に入る。
4月16、17日中後軍の北上を知った、香川隊は宇都宮藩兵、祖式隊を加え、小山宿で中後軍と砲火を交える。戦闘は小山主体で結城を含め四次に渡った。

◇旧幕府軍、一矢を報いた
当初、大鳥は正面と東西左右からの作戦と兵力の洋式戦術に勝る旧幕府軍の勝利になった。四次の戦闘では勝利の余韻に浸り休憩していた大鳥軍を攻撃したが撃退された。
宇都宮城の攻防の前哨戦である小山での戦いは鳥羽伏見の戦い以降の、最初に起きた正規戦であった。戊辰戦争で敗走が続く旧幕府軍にあって、一矢を報いた特筆すべき戦いであった。新政府軍は一村に放火し退却した。不確定ではあるが戦闘により、双方合わせて6~70名の戦死者が出た模様で、新政府側が多かったと言われている。

◇土佐藩士・上田楠次(くすじ)
<概略>
土佐高知藩士。土佐勤王党に加わり江戸で活動し、新政府軍で参戦している。。
上田は祖式金八郎の支隊の軍監となって参戦し、四次戦で負傷し、祖式と共に鬼怒川沿いの久保田河岸へ逃走し、二人は離散する。上田は戦いの翌日、4月18日久保田付近で亡くなっている。上田は光福寺(現結城市)に葬られている。
その上田は新選組局長近藤勇の捕縛、処刑に直接関わっている。
4月3日、大久保大和こと近藤勇は、有馬藤太が指揮を取る新政府軍に出頭し、流山から越谷へと連行された。
越谷から駕籠に乗せられ板橋の総督府へ向かう護送隊の隊長が上田楠次であった。
勇は板橋で元御陵衛士として加納鷲雄らに近藤勇として見破られ、処刑される。流山から板橋に護送される勇と護送役上田との物語が、下野の戦いまで繋がっていたのである。

<小山宿本陣跡、(ほんざわ屋付近)この前に、新政府軍の首級が晒された>

Img_270111 ◇敵将の首級をさらす
初戦の戦いにほぼ手中に納めた大鳥軍は本陣を本営に置き、本陣前に敵将7名の首級を晒し、次のような捨札(罪状を示す高札)が掲示された。
「三百年来の幕府の恩義を忘れ、将軍に敵するとは人間獣心の悪者である。天罰は逃れえず首を撃ち取った。
よって首を晒し、その罪を糺(ただ)すものである。
新政府軍には彦根藩や館林、笠間、壬生藩など旧譜代が配備され、幕府に恩義ある立場でありながら、旧幕府に刃向かうことが、大鳥には許せなかった。
特に彦根藩は井伊が大老職に就いた譜代筆頭の家柄であったが、鳥羽伏見では突如旧幕府軍に発砲し、薩長を支援し、以降は新政府軍の先鋒をきるまでになった。代々主家に仕え、臣下にある譜代をかなぐり捨てた、ばかりか刃まで向けたことに、怒り浸透で、このような行動に走ったのであろう。

国道265号線「小山宿通り」。この付近に小山宿の本陣があった所。小山駅、周辺は都市開発が進み、建物、道路は整備され、その姿は見られない。

小山と周辺の戦いこんなところである。続編として、激烈な戦いの場となった安塚を紹介したい
詳細は下記で紹介している

ようこそ幕末の世界へ

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二つの東照大権現の大幟(のぼり)

Image1新選組副長土方歳三の生家は高幡山の檀家総代各の旧家で、歳三の姉おのぶさんが嫁いだ佐藤家も古くからの高幡山の信徒である。
日野の天然理心流の剣士が時折高幡山の境内や裏山で戦闘訓練を行ったようである。そんな背景から、高幡山は新選組とは関わりが深く、近藤勇、土方歳三の両雄を讃える、殉節両雄之碑が立ち、奥殿には新選組関係の展示資料が多数ある。

その奥殿の展示物の一つが縦157㎝ 幅33.7㎝の「東照大権現」の大幟である。
「東照大権現」の大幟は八王子出身の新選組隊士中島登が残した覚書「新選組英名并日記」から
宇都宮城攻略戦(慶応4年4月)の記述中「東照神君の白旗ヲ翻イシ」とあるのはこの旗と同様な「東照大権現」の旗印であったと言われている。
大幟は戊辰役での土方歳三の隊旗と伝えられ箱館で戦死した遺品が日野にもたらされた折に歳三の親戚である上田(かみだ)の平家に形見分けされたものである。
平家では長い幟を掛け軸仕立てにしたく、それぞれの文字間隔に切り詰めたあとが見られる。

上田の平家は室町時代から繋がる記録が残される旧家で累代高幡山金剛寺の総代をつとめている。
歳三の生家、石田の土方隼人とも濃い親戚関係にあり、歳三も頻繁に訪れている。
歳三との繋がりで歳三関係の資料や維新関係者の書軸等も多く収蔵されていたが、その中の数十点を一括して高幡山に納入された。その一つがこの「東照大権現」の大幟であった。

一方、旧幕府軍の一員として宇都宮城攻撃に参戦した、新選組島田魁(さきがけ)が所持していた大幟が京都の霊山歴史館にもある。
こちらは縦366㎝幅90㎝で、高幡山より大きく、輪王寺官筆としている。
こちらも「東照神君の白旗」を翻して旧幕府軍に加わった「新選組隊士島田魁日記」にあり、宇都宮城攻略の際に掲げられた 大 幟がそれと同類のものと考えられる。
こちらの幟右肩のところに生生しい小銃の弾痕が残っている。

二つの「東照大権現」の大幟を、比較してみると、明らかに筆書が違っている。片や輪王寺官である事が判ったが、高幡山の物は誰が書いたのであろうか・・・。

慶応4年(1868)4月、下野戊辰戦争における小山の戦いから19日、鎧兜の古色騒然たる宇都宮藩と最新兵器で洋式戦術の旧幕府軍との彼我の差から宇都宮城占領は旧幕府軍が勝利した。
日をおかずに間もなく、22日の安塚の戦いから第二次今市攻防戦で、激戦が続く中、雌雄攻防の果て、薩摩・土佐藩を主体に東山道軍の応援部隊が加わった新政府軍が勝利し、宇都宮城が再び新政府軍側に奪還された。
下野戊辰戦争の中でも宇都宮城攻防戦が戦線の行く末を決める大きな戦いであった。
両軍、相まみえる中、それ以降は圧倒的な数の前に新政府軍側に傾いていった。


雌雄の決戦に「東照大権現」と書かれた白旗を掲げ、ラッパを合図に戦地に散会する旧幕府軍の戦意昂揚のステータスであったことが、伝わってくる。

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