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戊辰戦争、下野その2「安塚の決戦」

□「宇都宮城」へ目指せ

                「満福寺」山門前で処刑

Img_268311小山宿の戦闘で勝利した大鳥の中後軍は飯塚宿から鹿沼に向かった。
4月 18日秋月登之助や土方歳三らの総数1000人程の前軍は鬼怒川の東岸の大沼(真岡市)浅瀬伝って渡河し「満福寺」に到達し宿泊する。市川からの新選組隊士は土方歳三以下島田魁、漢一郎、中島登、他総員7人であった。
◇山門前で処刑
進軍中の旧幕府軍に新政府軍配下の黒羽藩の斥候(せっこう)4名が捕らえる。翌日、出発前に軍神への手向けとして処刑する。フランス式軍事訓練を受けた最新鋭の旧幕府軍であっても、山門前で戦意昂揚の儀式は古い武士の慣習が残っていたのであろう。

◇「成願寺街道」を北上する
「満福寺」を出発した歳三達前軍の一行は北上し、「成願寺」で休憩後、宇都宮城をめざした。
「成願寺」の山門前から繋がる「成願寺街道」。街道筋には田園と僅かな家並みにのどかな風景である。
進軍する旧幕府軍に対して、新政府軍・宇都宮藩も烏山藩の支援を得て、出撃し、待ち構える戦術を取った。しかし宇都宮藩烏山藩とも刀・槍・火縄銃主体の旧式装備で畑や平地林に兵力を分散したため、散開して進軍する近代装備の旧幕府軍に抗することも少なく撃破された。身を潜め不意打ちする奇兵の任務で桑島村の松林に潜伏していた鳥山藩は旧幕府軍の砲撃に恐れをなし、射撃もなく退却した。
ミツトヨの敷地一画の街道筋は赤松が生い茂り、自然の茂みを利用した防御線とした、当時の面影が未だ残されている。

◇戦いに掲げ鼓舞した白旗

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雌雄の決戦に守り神の「東照大権現」と書かれた白旗を掲げ、ラッパを合図に戦地に散会した。「東照大権現」の旗は日野の高幡不動と京都の霊山歴史館で展示されている。霊山歴史館側は幟右肩のところに生生しい小銃の弾痕が残っている。
戦で使われた幟の記録が新選組隊士、中島登や島田魁(さきがけ)等の日記で残されている。

◇遂に宇都宮城、落城
一行は「田川」にかかるが、新政府軍・宇都宮藩兵は諸橋を落とすことなく退却したため、労することなく「田川」越えを図り宇都宮城内に突入した。城は堀・積み上げた土塁・石垣、本丸までの強靱な構造になっているが、南東側に弱い方面から攻撃した。
下河原門では新政府軍の猛烈な反抗に会い、苦戦し、歳三は怯む味方を斬りすて、鼓舞した。僅か1000名たらずの旧幕府軍は攻め落とした。
写真は復元された宇都宮城本丸の土塁北西部にあった櫓(やぐら)「清明台(せいめいだい)」で、他の土塁より高く、天守閣の役割を果たしたのではと言われている。宇都宮城の攻防戦は宇都宮戦争を参照されたい。

□安塚の決戦

               <両軍相まみえた姿川と淀橋>

Img_263911 19日、宇都宮城を落とした秋月、土方の前軍と鹿沼宿の中後軍は合流と合流した。
小山での新政府軍の敗報に板橋の東山道総督府から、土佐藩兵混合隊、薩摩・長州・大垣藩隊など東山道軍に加わり、栃木街道の壬生城方面に向かった。
22日風雨激しい中、安塚を挟み、500名の新政府軍と600名の旧幕府軍と攻防戦が始まった。
当初、旧幕府軍は優位にあったが、安塚を側面から付く部隊が暗闇の中の雨で迷走し、苦戦する一方、壬生城に居た新政府軍の予備軍が安塚に加わり、新政府軍の逆襲が始まった。
旧幕府軍は所を変え、「姿川」へ後退し、更に西川田へ退散し敗北した。
戦死者は旧幕府軍側6~70名、新政府軍側17名と明らかに、大差がつき、連勝を続けた今までの戦いが、この安塚のいで、大きな転換期を迎える戦いになった。

◇両軍相まみえた姿川と淀橋
姿川にかかる淀橋である。宇都宮城と片や壬生城を南北に繋がる接点で、である。宇都宮城から旧幕府軍が壬生城へ侵攻し、一方壬生城から新政府軍が布陣し、姿川を挟んで対峙した。
姿川は川床の浚渫(しゅんせつ)や堰堤など人工的な補修が加えられているが、大半は草に覆われる自然のままで、見通しの効いた姿は往時の現風景を留めている。戊辰の行く末を左右する大事な場所であった。

◇戊辰役戦死の墓

<栃木街道の淀橋に近い場所で鬱蒼とした樹木を背後の「戊辰役戦死の墓」>

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戦闘直後は屍が周辺に散在放置されていた。近くに住む安塚村の農民が、遺棄された34の屍体を取り集め、葬り石碑を建てた。
石碑は二つあり、左側は初代の碑で、明治6年以前に建てられたもので、風化が進み、崩れ落ちている。石碑の建立には政府の許可が必要であり、新政府軍、旧幕府軍とも判別出来ぬ、死骸があり合葬する旨の建碑申請を行い許可がおりた。新政府は新政府に刃向かった者に対して供養もままならなかったので、合葬することを理由に申請したが、総ては旧幕府軍兵士であった。こんなこともしない限り、旧幕府軍兵士の供養も出来なかった。
明治7年太政官布告によって、刃向かった人達の祭祀、慰霊が許されるようになった。
右側が二代目の碑で明治13年(1880)に地元有志と図って改葬している。

◇旧幕府軍が眠る幕田の「戦死士十七名霊」
淀橋の分岐の北側、旧栃木街道より雀宮に通じる、安産稲荷道の分岐点の一画が墓地になっている。道路の僅かな空間にあるが、二股の角地で大変目立つ、場所にある。墓とお塔婆が立っており、その中に「戦死士十七名霊」がある。
旧幕府軍兵士の墓で、新政府軍と姿川の戦場で白兵戦が展開され、幕田まで旧幕府軍が追い詰められた時の戦死者と言われている。その中に辞世を懐にして討死した十七歳の会津藩士片岡範三郎の遺体もあった。

◇宇都宮城、新政府軍側に奪還
旧幕府軍は当初予定の壬生城を落とせず、安塚の戦いでは敗退する。旧幕府軍有利の中で勢いがあった戦いは所を変えて、新政府軍側が攻勢に転じる。
23日、新政府軍は宇都宮城を奪還するため、栃木街道を北上する。主力部隊は薩摩・大垣藩の連合軍で指揮官は後の日本の陸軍を代表する幹部となる大山弥助、野津七次らである。
新政府軍攻勢の報に旧幕府軍は城下入り口で、交通要路の要である「六道の辻」で防御線を敷いた。北上する新政府軍は「弥助砲」とまで言われる、大山弥助が指揮する四斤山砲が火を吹き、守備する旧幕府軍側に砲弾をあびせられ忽ち、防御線が破られる。
松が峰門では激しい白兵戦が繰り広げられ、歳三は負傷、新政府側も野津や近藤勇を捕縛した有馬藤太も負傷するなど双方死傷者が多数が生れた。宇都宮城を巡る一進一退があったが、遂に新政府軍側に奪還される。
詳細は下記で紹介している

ようこそ幕末の世界へ

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