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小布施の「高井鴻山」

おお~又来なさったか」と高井鴻山の使いの者が優しく、迎い入れてくれるようであった。
10年近くになるであろうか、立山のアルペンコースに行った時、途中で立ち寄ったのが此処松代の高井鴻山邸であった。

真っ白な壁の蔵屋敷とからくりで仕込まれた書斎の「ゆう然楼」は記憶に留まり、そのまま残されてあった。今回企画された信州のバスツアーは殆どが戦国であったが、幕末関連の一つがここであった。

Takai211高井家は酒造業で冨を築き上げ鴻山の祖父で、天明の飢饉時に倉を開放して、その巨万の富を困窮者の救済に当て、それが幕府に認められて、「高井家」の名字帯刀を許可される。

商売は、信州を手始めに、江戸、京阪北陸、瀬戸内まで商圏を広げていた。生まれた時には、三人の兄が死去し、後継ぎとして期待されたのが鴻山であった。
15歳の時に京都へ遊学し、国学、蘭学、漢学などを広く学び、その後江戸に出て詩文や書、絵画など芸術にも優れた才能を発揮した。
天保11年(1840)父 熊太郎が病死し、鴻山が12代目当主となるが、経営は不得意で、弟に任せていた。小布施に戻った後の鴻山の元には北斎をはじめ、多くの文人達が訪れている。

鴻山は京都・江戸へ遊学をした際に、知己を広めたが、松代の真田家の家臣であった佐久間象山との交流があり、鴻山も攘夷論や朝廷の権威と、幕府及び諸藩(武)を結びつけて幕藩体制の再編強化公武合体論を説いた。さらに蘭学も研鑽した。

その、象山は、西洋の近代化文明を導入唱え、江戸で砲術や軍学を指南した。
教った諸藩士には勝海舟や会津藩山本覚馬、坂本龍馬、吉田松陰など時代を代表する、逸材が育っている。
象山は松陰の米国密航を企てに連座して、幕府命で松代へ護送蟄居する。文久2年1862)蟄居を解かれ、象山に教えを乞うた人物も、多数おり、象山との繋がりから小布施の鴻山宅にも訪れている。

「ゆう然亭」は鴻山が、中国明時代の文人陳文燭の書斎「ゆう然亭」にあやかって名付けた鴻山の書斎兼サロン。
もともと鴻山の祖父が寛政年間(1789-1800)に隠宅として建てた二階建の京風建築でからくり造りになっている。
鴻山を訪ねて来る幕末の志士や文人墨客がここで語りあったという。「ゆう然楼」の額は鴻山直筆である。
その鴻山が相手した人物の中でも佐久間象山、久坂玄瑞、藤本鉄石等は苛烈な運命を辿っている。
外国排除を訴える尊皇攘夷派が渦巻く京都で象山は京都で暗殺される。
長州の尊皇攘夷の先頭をきった久坂玄瑞は幕府軍に対し、禁門の変の敗北で自刃する。
藤本鉄石は孝明天皇の大和行幸の詔を奉じて兵を挙げた天誅組の幹部として、十津川で兵を集めるが、七卿落ちの政変で幕府軍に攻められて戦死する。特に、象山・鉄石は書画に造詣の深い人であったから、鴻山の心を深く傷つけたことと思われる。

          <身を潜める為の、カラクリが生生しく、緊張感が伝わる>Img_48141
「ゆう然亭」は表向きは鴻山の書斎やサロンではあるが、一方では攘夷家のアジトのような緊迫した場所である
幕府の急襲時に脱出することのできる「抜け穴」等のからくりが巧みに備えられている。
抜け穴は本宅や表の座敷に通じ、いざと言う時に逃げる ことができた。因みに昭和34年までは本宅への穴は残っていたようである。
抜け穴や、隠れ部屋の存在は、幕府が鴻山監視に隠密を差し向けていたかもしれず、そんな危険性も承知の上で、志士を迎い入れた肝の座った鴻山の豪胆さが伺える。

「鴻山愛用の火鉢」

    <この火鉢に幕末を賑わした多くの、人物が暖を取っている>

Img_4810111そもそも当庵のゆう然とは物事にとらわれず、思いのままに進退すると言う意味がある。
家人を遠ざけ、小さな火鉢を囲み、先進文明国をも視野に入れ、長いスパンで日本の歩むべき姿を熱く、語り合った。
六尺離れた位置から、議論が熟すると、相寄り火鉢を押しつ押されつして、畳が擦り切れる程だったと言われる。
年季の入った火鉢に鴻山、佐久間象山、藤本鉄石、久坂玄端もこの縁に触れ語った。ズリズリと引きずってみたが、その重みと黒ずんだ輝きは時代の流れを何時までも伝えている様であった。
詳細は
高井鴻山記念館で紹介してます。

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信州の旅「松本城」

26号に継いで27号の台風が来るぞ、来るぞと大騒ぎする中、雨合羽と傘を持ち信州方面へ一泊のバス旅行に出かけた。

              松本城の雄姿

Img_467511 しかし、遥か彼方に停滞し、影響は殆ど無く、傘を一回さした程度であった。
最初に寄ったのが松本城であった。

国内では四つある、国宝の、その内の一つで、優雅な姿は築城技術を今日に伝える貴重な遺産である。
明治維新を迎え、186城があったが、幕府が滅び廃藩置県で無用の長物に、その大半が、打ち壊されやがて消え去る運命にあり、同城も同じ運命にあった。
藩がなくなった後の松本は明治4年7月筑摩県となり、筑摩県は松本城を維持管理できないことから明治5年1月に天守を競売にかけ、235両余で落札、 破却 されることになった。(※235両は米価換算で約400万円)
御一新によって古いものを破壊しても新しい時代を迎える期待感があったが、それが崩れ、逆に遺産を守ろうと言う機運が芽生えた。
そんな背景から松本下横田町副戸長市川量造(りょうぞう)が、此処で博覧会や寄付を募って買い戻され、破壊から救われた 。
人件費で大工さんの日当が50銭であり、現代1万5千円で換算すると5億円になる。

☆どうして城が生れたか
文禄2年(1593)関が原の戦いの7年前、豊臣秀吉が天下を取ろうとした時に家臣の石川数正に作らさせた。
天下統一のためには力を持つ、徳川家康を江戸に移し、その動向を見張り、備えるため城は関東に向けて建ったと言われている。群雄割拠の戦国時代から、実力で淘汰されていく時代の産物である。
元々家康の配下で要職を勤めた石川数正が家康を裏切り、秀吉側に付いたので人に寄っては「裏切りの城」とまで言われている。

城は5層6階で、高さはビルの10階建てに相当する 29.4mもあり、高層の建物が無かった時代に360度の俯瞰は戦時の監視に力を発揮し、攻める敵を威圧した。城は内堀、外堀、惣堀の3重のお堀で、守りを固め、攻める敵を寄せつけない堅牢な守りの構造になっている。城側から高い位置から俯瞰し、鉄砲や矢で射止め、隅にせり出た所から石落しで、登る敵に備えている。

☆入り口の家紋

                      「五七の桐の紋」

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入り口の梁に立派な家紋で出迎えられる

秀吉が作った城であるから、秀吉の家紋である「五七の桐の紋」が多数並べられている。
3本の直立する花序(かじょ)と3枚の葉から構成され、花序につく花の数が5-7-5となっているものは「五七の桐」と言っている。
桐紋は元々は天皇家の家紋であった。菊紋に次ぐ紋であったが天皇家が功績のあったものに下賜したために武家に広まった。
昔秀吉は羽柴秀吉であったが、豊臣に変えた。羽柴から豊臣の姓を貰ってその時の紋を借りたが自分の紋にしてしまった。時の権力者が使う紋であり、現代の政府や皇室も使っていることなど、TVの報道などで見受けられるように現代でも繋がる。

                     「丸におもだか」

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その脇に歴代藩主の家紋が幾つかある。
水野家の家紋「丸におもだか」であったが、我が家の家紋でもあったので思わず息を飲んでしまった。
寛永19年(1642年)三河吉田藩より徳川家康の従弟、水野忠清が大坂の役で先陣争いをして戦功を立て松本に赴任以来、六代続いている。
歴代藩主には才智に優れ、財政改革に着手し、日常生活の切り詰め尽力し松本藩政は確立した藩主も居れば、一方では財政的には困窮する藩政も省みず 遊興にふける暗愚の藩主も居た。
寛文の飢饉、延宝期にも飢饉が相次いで財政が逼迫し、年貢を増徴して、貞享騒動と呼ばれる一揆が起こり鎮定したが、一揆側と交わした約定を破棄し、首謀者は兄弟子供を含めて28人を磔獄門に処する。など苛烈な断行も行われた。
第6代の忠恒は享保10年(1725年)将軍吉宗の拝謁を無事終えて帰る時、江戸城中の松の廊下で長府藩の世子毛利師就とすれ違った際に小刀を抜刀して斬りつけるという事件を起こし所領没収・改易とした。
松本藩水野家の引き払いは、一部を除き浪々の身となり悲惨な生活を送ったと伝えられる。

☆高遠から内藤新宿へ

高遠藩の内藤家初代は水野家であった。そんな繋がりから、恐らく戦国時代は家来ではなかろうか・・・。

家康命で内藤家は高遠から内藤新宿に来ており、その折に我が家の先祖が一緒に江戸に来たと言う口伝が残されており、四谷大番町住んだ名前が江戸切り絵ヅ図に載っている。

四谷大番町の「大番」は親衛隊のようなもので、甲州街道を守る意味があって、
旗本が多く住んでいたようである。

内藤氏は、百人鉄砲隊を連れてきたことでも知られているが(百人町に住んで
いた)、四谷にも鉄砲打ちを先祖とする集がおり、そのなかにひょっとしたら居たのであろうか勝手な推測を、膨らしてしまった。

☆天守六階
登り・下りの入館者が重なる、狭く、急な階段を登って一番高い天守六階にたどり着く。四囲を俯瞰できる眺めの良い場所である。敵陣の動向を捕らえ城主以下、幹部が作戦会議と指揮を取った。
市街地は見下ろせたが、乗鞍、槍ヶ岳、常念岳など北アルプスの山々は生憎の天気で、見えなかった。

               天守六階から下界を見下ろすImg_46971

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