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東山道軍の多摩郡進攻の足跡

慶応4年(1868)鳥羽・伏見の戦いが勃発する。
新政府東征軍軍は鳥羽・伏見の戦いで破れた徳川慶喜を「朝敵」として東海・東山・北陸の三方から江戸へ向けて東征軍を進撃させた。
迅衝隊の総督板垣退助は東山道先鋒の参謀に任じられた。
部隊は下諏訪で東山道から分岐し甲州街道て江戸を目指した。
一方、東征軍の進軍を阻止すべく、近藤勇率いる甲陽鎮撫隊は甲府ヘ向かった。
東征軍の主力である迅衝隊は、因幡藩兵と共に甲陽鎮撫隊を勝沼にて撃破し、更に諏訪高島藩の先導で甲州街道を東下し甲斐国(山梨)、更に武蔵国多摩郡の八王子宿、日野宿を目指し、やってくる。
東征軍側の記録によれば日野宿は近藤勇の門弟が多く、兵士や武器を調達し、「里正佐藤某が勇を助け」、「残党埋伏の聞へある」、危険な拠点でもあった。
東征軍襲来の声に通過した甲州街道沿いの関係者は身にふりかかる追求に恐れ、震撼させたが、その様子を追ってみる。

◇千人隊恭順;

          <八王子宿へ進攻>

Touseigunedo2013月11日東征軍参謀「板垣」らは、甲州道中を八王子に進駐し止宿する。
千人隊は徳川家 、寛大の処置を嘆願するため、幕府から支給された鉄砲を差し出した上、朝廷に対して二心無きことを認めた血判書を数日かけて作成し、千人同心全員が官軍に恭順の意を表明した。
八王子で千人隊は一旦、東征軍に恭順を示したが、恭順に反対する者もあり時間の経過と共に増大し、千人隊の大勢を占め、最早覆すことは困難になってしまった。
八王子に居た「石坂弥次右衛門」は日光に向かい、日光火の番を東征軍に譲り八王子に帰ってきた。
「弥次右衛門」が帰郷すると、千人隊内の抗戦派から、日光を戦わずして官軍に引き渡した責任を問う声が高まり、この声にたまらず、同日深夜に切腹した。
彰義隊臥竜隊隊長「間宮金八郎」は数百人の脱走人と八王子に現れ、周辺の寺に泊まり込み千人隊に彰義隊の参加を呼びかける。
彼らは宿場の入り口に東征軍が立てた「天朝御領」の立て札を倒し、宿の東西に門を設け、西国の武士と見れば刀を取り上げ、髪を切り、一般人を含め厳しく取り調べるなど抗戦の勢いは益々エスカレートしていく。
動員された千人隊士と旧幕府歩兵など約300人に及んだと言われ上野の御霊屋警備についた。5月15日東征軍の最高指揮権を握った大村益次郎率いる東征軍の総攻撃で彰義隊は破れ多数の戦死者を伴いそれぞれ散開する。

□東征軍の日野宿進攻

            <日野宿進攻>

Touseigunedo301 勝沼の戦いで破れた甲陽鎮撫隊はそれぞれ甲州街道を江戸方面へ敗走する。それを追うように3月11日夜、東征軍先鋒信州高島藩兵が日野宿に入る。
東征軍の日野宿進攻の先導役は高島藩が、兵糧・人馬賄いは高島、高遠の両藩が担っている。
日野の住民は恐怖に陥れ、焼き討ちさえ覚悟し、身を隠し、財産は親戚等に預けた。
「日野宿で甲陽鎮撫隊に一緒に参加したかどで農兵改めがあり、農兵9人が呼び寄せられるが、皆々逃げ散る。夜中に日野宿本陣に踏み込まれ、留守居役の粟之須村名主井上忠左衛門や平山惣二朗・日野久兵衛が縛られる。
後難を恐れ佐藤彦五郎は書類や武器を処分し、妻ノブ・次女トモ・下女らと、八王子、二宮村(あきる野市)更に大久野村(五日市)に羽生家へ逃げ匿われる。赦免されるまで羽生家に滞在する。
彦五郎長男源之助は宇津木村(八王子市)の民家に隠れたが、東征軍に捕まり、八王子宿の東征軍本営に連行され、厳しく、父親の行方など尋問され、翌日釈放される。次男、三男、四男は小野路の名主小島家へ隠れる。
源之助が捕まり、白状により最新式元込銃19梃は官軍に没収されてしまう。
土方歳三の生家では歳三に関わる持ち物や書状は庭に掘って埋めた。
家人は歳三の母志津の実家である久野家へ頼ったか、高幡山に三日間隠れたとも言われている。
近隣の関係者は親戚知人を頼って身を隠すなど宿内はこれまでにない緊迫状態に包まれた。
同年4月、勇は流山で掴まり板橋で処刑される。

□谷保へ通過

                         <谷保旧家本田家>

Touseigunedo402◇通過の様子
先鋒は信州高嶋諏訪因幡守で3月12日通過、13日土州一行、14日因州勢が通行。15日には新宿に到着、大木戸に入った。
12日の通行の際、一行は高札場の棒杭を抜き取り高札を外し、後日、新たに書き換えたものに変えるから、是を懸けることはならないと厳重に言い置いていった。
抜き取り外された高札に代って「 天朝御料 江川太郎左衛門 支配所」と大書されたものが掲示された。その脇に「徳川慶喜の天下之形勢不徳止ヲ察し大政返上将軍職辞退」と記され、続けて朝廷が幕府にとって代わったと言う内容のことが書かれていた。慶応4年(1869)4月4日その意を西の内紙に認め、高札場に張り出すようにとの江川役所から触れられた。
◇『官軍自見誌』
「甲州街道 日野府中間 谷保の年寄独立庵のあるし」はこの一文を後世に伝えるつもりで書いたもので 『自見誌』と題して残し「あたらしき軍(いくさ)話しで春の日をはやのかけ声身にしみて聞く」と結んでいる。
「張り紙に書かれた思い」
官軍は不義である。長州は朝敵国賊であり、天裁を免れない。薩摩長州は不義無道である。会津に属するものが多いのは大儀を知っているからである。官軍に属することは人面獣心より甚だしい。願わくば天下有道の理のため会津の義気を助け、徳川氏のために兵を挙げ、国賊を誅戮ちゅうりく)して万民を救い、「皇国の名を正せよ」。
このように「官軍」とそれに与(くみ)する長州・薩摩を非難し徳川・会津へ加勢するよう呼びかけた張り紙を「自見論」
の最後に配していることはこの張り紙に共感している。
幕領下にあったこの地域は幕府と朝廷や薩摩 長州の関係をこのように捕らえている人は少なくなかったと思われる。

□府中宿進攻
府中宿六所宮へ縦3.3m 横5.7mに及ぶ巨大な天然理心流の奉納額は近藤周助のグループ約1000人余りの門人の名前が書かれていたと言われている。 新選組は甲陽鎮撫隊を名乗り、勝沼戦争で官軍と戦うがこれに破れ、逸走する。東征軍は勝沼より甲州街道を東下するが、新選組の武術を伝えるものであり、東征軍が通過する折に後難を恐れ大奉納額は処分されてしまった。

詳細はこちらに掲載されてます。

「東山道軍」甲州路の足跡

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歳三病に伏す「覚庵日記」から

                     <激しく行き交う甲州路に本田邸>

Img_4905111_3 旧甲州街道20号線は都道256号になったが、多摩地区と首都を結ぶ幹線路で激しく車が行き交っている。
この旧甲州街道は日野宿から江戸方面に向かうと約一里程の所に谷保天満宮がある。
その天満宮より江戸方面で街道を挟んで反対側に、石壁が延々と続き、こんもりとした森の中が本田一族の本田覚庵邸である。
土方歳三の父で隼人を名乗る義諄(よしあつ)の姉妹、次女チカが本田家へ、同じく三女マサが佐藤家へ嫁いでおり、親戚関係にある。
文久三年(1863)土方歳三は浪士組として上洛する前に剣術稽古の傍ら、本田家に足繁く通い、書や学問を学び、知性と教養を深め、幕末に活躍すろ歳三の人格形成に擦り込まれていく。
剣術の繋がりで近藤勇も同家に訪れ、学んでいる。覚庵は大変几帳面な人物で同家に訪れた人物など日記風に残されている。
その本田家と残された日記から散見されるエピーソードを拾ってみる。

□本田家

名声高い本田家のルーツは戦国時代から繋がる。始祖は本田定経で上毛白井(現群馬県)に居たが天正年間(1573~91)に越後国鮫ケ尾城で戦死、二代目の息子が母とともに武州川越に移住、その頃から馬の調教や獣医を携わった。寛永年中(1624~43)に谷保の現在地に移り、以後代々家を継ぎ、今日に至っている。
徳川三代将軍家光、四代将軍家綱の頃幕府の厩舎勤めをした。
馬の時代は淘汰され、地主として定着し、幕末まで着実に土地を集め、大地主に育ってゆく。江戸末期から明治にかけて谷保村きっての素封家(そほうか)と言われている。
九代目孫三郎 定娞(さだやす)が文化年間(1804~17)頃から村医者が始まり、近隣に知れ渡る存在になる。
歳三と同世代で十一代覚庵も村医者を継いでいる。
文化12年(1815)十代昂斎が米庵流の書を学び、これが本田家に伝わる。本田家にある「大観書屋」の扁額は師匠の市川米庵が昂斎のために書かれたものである。
漢詩もこの頃から学び、世代を越えて受け継がれている。
四代将軍には書を教えていたその時の葵のご紋など蔵に残っている。

◇地域文化の拠点
代々著名な文人を迎える当家の家風が守られている。
安政の大獄で江戸を追放された小野故山は3カ月も身を寄せた。府中六所宮の神主国学者の猿渡容盛(ひろもり)狂歌師の太田蜀山人など著名な漢詩人との交流があった。その他神主、尺八の先生、漫遊家、瞽女(ごぜ)浪人などさまざまな人が訪れ、地域文化の拠点でもあった

            <多くの人が訪れ、語りあった邸内>

Img_27331_2◇本田覚庵日記

本田家に残る文書で「筆記」なるものがあるが、その後、万延元年(1860)2月~文久3年(1863)12月「覚庵日記」が記録され、覚庵は元治2年(1865)亡くなる。
覚庵は前述の通り歳三の従兄弟であったこと、谷保天満宮周辺に剣術の出稽古で、近藤勇も同家に訪れている。その他、佐藤家から彦五郎、源之助、土方家から喜六や近藤周助、井上松五郎など親戚縁者や剣術で訪れていることが几帳面に記録が残されて居る

覚庵日記の土方・近藤に関する記録から歳三は25歳から登場し、14回通い、内2回宿泊している。
近藤勇は26歳から登場し、7回通い、内2回宿泊している。
覚庵が年上であったので歳三やて勇など書や漢詩など当然教えている。

◇日記から見えるもの
1)府中六所宮の天然理心流の献額の相談
万延元年、八月、歳三が訪れ、府中六所宮の天然理心流の献額及び型試合の奉納について相談し、献額の揮臺のお願いをしている。献額の翌日の十月、近藤勇から五両の礼金を受け取ったことが記録に残されている。
2)歳三病の看護

          <歳三が病に伏した、甲州道沿いの日野宿佐藤邸>

Img_724311 歳三の兄である喜六は病気のため通い、覚庵も3日間連続往診に石田へ往診に着ており、その手厚い看護も叶わず万延元年9月4日亡くなっている。
覚庵は佐藤家にも度々訪れているが、文久元年11月8日石田の歳三病気に付き、日野佐藤家へ行くと「覚庵日記」に記録されている。

歳三が実家に戻らず、何故佐藤家、なのだろうか?。

歳三の姉ノブは14歳で日野宿名主佐藤彦五郎のもとに嫁いだ。
歳三は幼少の折、両親を失い、親代わりに面倒を見たのが長男喜六であったが、直ぐ亡くなり、母代わりに面倒を見たのが姉ノブであった。ノブの嫁ぎ先は名主の重職を担う彦五郎宅で名主の応対や、道場に出入りする門人など人の出入りも多く繁忙を究めた。ノブは応対もそつがなく、確りものの嫁として評判が高かった。家の中を取り仕切る傍ら、病に苦しむ弟歳三の面倒を良くみた人物である。
歳三が大変な患いの身にありながら看護してもらえるのは既に喜六が亡くなった実家よりノブが頼りだったのか、歳三が佐藤家に寄りつく事実が明らかに判る。

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上野「寛永寺」、特別参拝

             <寛永寺根本中堂>Image61111 天彰院篤姫は薩摩藩の島津家から将軍世継ぎに、徳川家へ嫁ぎ、遥々江戸城にやってきた。幕府の力は失い華やかな大奥の世界から追われ、幕末騒乱から維新を生き抜いた天彰院篤姫の生涯は2008年の大河ドラマで紹介され、篤姫人気に沸いた。

そんなドラマも既に6年たってしまったが、その篤姫達が眠る霊廟は遥か遠い世界で、関係者以外は立ち入ることの出来ない世界であったが、特別参拝の機会に巡り合わせ、内部に入ることが出来た。
羯諦羯諦(ぎゃ~てい、ぎや~てい)。波羅羯諦(はらぎゃ~てい)。ドンドンと打ち鳴らす太鼓に合わせ~般若心経を住職に併せて輪唱し、御本尊にご挨拶。60人近くの参拝者、本堂内に響きわたる太鼓とお経の世界に自然と高揚感が高まり、娑婆の世界から神聖な浄土の世界へ、入っていく。

□寛永寺
戦国末期、家康は関が原の戦いや大阪の陣の戦いで天下の統一が図られ、江戸を幕府の中心とした。知遇であった喜多院にいる天海大僧正を呼び寄せ、東の比叡山、即ち東叡山を建てた。天海大僧正は108歳まで長生きされたと言われ、、初代徳川家康公、秀忠公、家光公と三代に亙って 深い帰依を受け、幕府の精神的な支えとして活躍している。

江戸城から見て上野に台地がある事を着目し、皇居から見て鬼門の位置である北東であり、皇居の守る位置にある。
寛永寺根本中堂とは仏さんが居り、お寺の中心となるの本堂に相当するところ、何度か火災を受け、上野戦争で消失している。

□増上寺との関係
徳川家康の出である松平家は三河の国で浄土宗の門徒で、江戸に入った時に増上寺の檀家になった。天海大僧正の出会いから、家康が天台宗に宗派を変えかったが、先祖代々のものは変えられず、菩提寺は増上寺のまま、寛永寺は徳川家の祈願寺としたが、後に菩提寺になった。
家康の意向から葬儀は寛永寺で行い、遺体は日光東照宮で眠る方法を取られ、数代続いたが、代々の徳川家の葬儀、埋葬場所は寛永寺か増上寺か、その当時の遺言などの置かれた状況で変っている。
従って、数カ所の墓地が歴代徳川家によって変わる、判りづらいことになっている。

□慶喜公蟄居場所
寛永寺の中の大慈院と言って寛永寺の中にある一室で慶喜が蟄居していた。改築により多少狭くなった10畳と8畳の二間で少し狭くなっている。
戊辰役で多くの兵を残し、大坂城を脱出、開陽丸で品川沖に投錨、浜御殿で蒼白な慶喜一行を勝海舟は出迎えた。慶喜は容保、定敬を藩邸に送り、慌ただしく江戸城へ向かった。「上様にはひたすら恭順の意を表すため、上野寛永寺大慈院にお入りなさされませ」
大坂城から海路江戸へ逃げ帰った慶喜は勝海舟の進言に従い、慶応4年(1868)2月12日に僅かな供回りを連れて、江戸城を後に、上野寛永寺に到着した。
死一等を許され慶喜は水戸に退去したが、彰義隊、寛永寺執当覚王院義寛は上野の山に立てこもった。5月15日西軍に攻められ上野戦争は決着がついた。この戦争で大半が焼失した。

幕府260有余年の体勢が崩れ、かっては将軍職として輝き、頂点にいた慶喜が、新政府軍に、賊軍として追い込まれ、死まで覚悟した歴史のドラマをこの一室で見る様であった。

□将軍家霊廟
柵から内側がベールに包まれた将軍家霊廟である。
五代将軍綱吉公の戒名の院号である常憲院殿の勅額門である。将軍一行が馬に乗って、取り巻きを引き連れ大集団でやってきても、この勅額門を潜れる人はごくごく限られた人だけである。この門を潜る時は時の将軍であっても、必ず下馬をして自分の足で歩いて潜ることになっている。

                        <常憲院殿の勅額門>

Image31111 四代将軍家綱公、五代将軍の綱吉公の遺言で寛永寺で葬儀、墓を希望し、特例で用意した。このことで芝の増上寺は面子が潰され、菩提寺を蔑ろにするのは良くないと言う事で六代、七代は芝の増上寺に葬られることになる。
當山には、四代家綱公、五代綱吉公、八代吉宗公、十三代家定公、家定公正室の天璋院、他の霊廟がある。

江戸時代は石垣はなく門の所に兵隊が立っているが、明治以降はそれが出来ず、盗賊除けに巨大な石垣が建てられ 外部と隔離されている。
御霊廟内は砂利が敷きつめられ、それぞれの御寳塔は階段が儲けられ一段高い所にあり、石畳の花道で結ばれている。
墓は宝塔と呼び、正面に扉が見えるが持仏(じぶつ)と言って、位の高い人物は自身の肌身離さず持っている仏さん(今風に言うmy hotoke)を扉の奥に納めてある。
官位の身分で装い宝塔の真下数メートルの石室に綱吉公が正装し足の裏と足の裏を合わせて座る、くげ座りで眠っておられる。
征夷大将軍に就かれ、亡くなった時に朝廷から皆正一位や従一位なり貴族の位の官位を賜り、烏帽子をかぶって官位の装いで、くげ座りで眠っていると言われている。

門の部分は宝塔と同じく、青銅製で、2011年 東日本大震災で石で積んだ宝塔は何基か倒れたが、青銅製の門と脇にある石組の壁はびくともしなかった。青銅の門は右側に鳳凰と、左側には伝説状のきりんが、裏には鶴や亀が上は法華経から出てくる異説から波模様が描かれ、お墓にしてはおめでたい意匠が施されている。これは天台宗徒のお釈迦さんの説いた妙法蓮華経という法華経の中に、仏さんのおわす世界はこんなに素晴らしく、この門を潜った先は完全な浄土ですよと言うことらしい。

□十三代将軍家定公と天彰院の墓
家定公と寄り添うように天彰院の墓がある。倹約のため、墓は石作りで門が簡略化されている。十三代は三人の御台所を迎えたが、二人は早く早世しており、三人目天彰院であるが、35歳と若く亡くなり、実子の後継者が居なかった。十三代は柿が好きで宝塔の後ろに柿の木が植えてある。

天彰院は将軍世継ぎで遥々薩摩の島津から、抜擢され、江戸城に十三代将軍家定の正室となるが、病弱な夫家定は1年半で葬去する。折しも倒幕の嵐の中、徳川家を守るべく尽力するが、大政奉還によって江戸城明け渡しとなり、幕府の瓦解から華麗な大奥の世界から追われる。激動の幕末を生き抜いた天彰院は明治16年は千駄ヶ谷の徳川邸で中風症を発して47歳で亡くなる。

篤姫は郷里の島津家のころからびわが好きであったことから右手にビワの木が植わっている。
唯一、将軍家の霊廟内にある墓である。
幕府崩壊以降も徳川家存続に尽力し、未だ10歳の若さで徳川宗家を継ぐ、十六代徳川家達を、母親がわりに面倒を見た。
維新以降も功績を残され、その栄誉から十三代の隣に天彰院が埋葬されたのであろうと言われている。天彰院以外の家定公と天彰院の墓を前に、大奥の世界が目に浮かぶ。二人の姿を前に漸く、ドラマが閉じられた。
寛永寺の詳細はこちらでご案内しています。ご覧ください。

寛永寺特別参拝

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