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歳三病に伏す「覚庵日記」から

                     <激しく行き交う甲州路に本田邸>

Img_4905111_3 旧甲州街道20号線は都道256号になったが、多摩地区と首都を結ぶ幹線路で激しく車が行き交っている。
この旧甲州街道は日野宿から江戸方面に向かうと約一里程の所に谷保天満宮がある。
その天満宮より江戸方面で街道を挟んで反対側に、石壁が延々と続き、こんもりとした森の中が本田一族の本田覚庵邸である。
土方歳三の父で隼人を名乗る義諄(よしあつ)の姉妹、次女チカが本田家へ、同じく三女マサが佐藤家へ嫁いでおり、親戚関係にある。
文久三年(1863)土方歳三は浪士組として上洛する前に剣術稽古の傍ら、本田家に足繁く通い、書や学問を学び、知性と教養を深め、幕末に活躍すろ歳三の人格形成に擦り込まれていく。
剣術の繋がりで近藤勇も同家に訪れ、学んでいる。覚庵は大変几帳面な人物で同家に訪れた人物など日記風に残されている。
その本田家と残された日記から散見されるエピーソードを拾ってみる。

□本田家

名声高い本田家のルーツは戦国時代から繋がる。始祖は本田定経で上毛白井(現群馬県)に居たが天正年間(1573~91)に越後国鮫ケ尾城で戦死、二代目の息子が母とともに武州川越に移住、その頃から馬の調教や獣医を携わった。寛永年中(1624~43)に谷保の現在地に移り、以後代々家を継ぎ、今日に至っている。
徳川三代将軍家光、四代将軍家綱の頃幕府の厩舎勤めをした。
馬の時代は淘汰され、地主として定着し、幕末まで着実に土地を集め、大地主に育ってゆく。江戸末期から明治にかけて谷保村きっての素封家(そほうか)と言われている。
九代目孫三郎 定娞(さだやす)が文化年間(1804~17)頃から村医者が始まり、近隣に知れ渡る存在になる。
歳三と同世代で十一代覚庵も村医者を継いでいる。
文化12年(1815)十代昂斎が米庵流の書を学び、これが本田家に伝わる。本田家にある「大観書屋」の扁額は師匠の市川米庵が昂斎のために書かれたものである。
漢詩もこの頃から学び、世代を越えて受け継がれている。
四代将軍には書を教えていたその時の葵のご紋など蔵に残っている。

◇地域文化の拠点
代々著名な文人を迎える当家の家風が守られている。
安政の大獄で江戸を追放された小野故山は3カ月も身を寄せた。府中六所宮の神主国学者の猿渡容盛(ひろもり)狂歌師の太田蜀山人など著名な漢詩人との交流があった。その他神主、尺八の先生、漫遊家、瞽女(ごぜ)浪人などさまざまな人が訪れ、地域文化の拠点でもあった

            <多くの人が訪れ、語りあった邸内>

Img_27331_2◇本田覚庵日記

本田家に残る文書で「筆記」なるものがあるが、その後、万延元年(1860)2月~文久3年(1863)12月「覚庵日記」が記録され、覚庵は元治2年(1865)亡くなる。
覚庵は前述の通り歳三の従兄弟であったこと、谷保天満宮周辺に剣術の出稽古で、近藤勇も同家に訪れている。その他、佐藤家から彦五郎、源之助、土方家から喜六や近藤周助、井上松五郎など親戚縁者や剣術で訪れていることが几帳面に記録が残されて居る

覚庵日記の土方・近藤に関する記録から歳三は25歳から登場し、14回通い、内2回宿泊している。
近藤勇は26歳から登場し、7回通い、内2回宿泊している。
覚庵が年上であったので歳三やて勇など書や漢詩など当然教えている。

◇日記から見えるもの
1)府中六所宮の天然理心流の献額の相談
万延元年、八月、歳三が訪れ、府中六所宮の天然理心流の献額及び型試合の奉納について相談し、献額の揮臺のお願いをしている。献額の翌日の十月、近藤勇から五両の礼金を受け取ったことが記録に残されている。
2)歳三病の看護

          <歳三が病に伏した、甲州道沿いの日野宿佐藤邸>

Img_724311 歳三の兄である喜六は病気のため通い、覚庵も3日間連続往診に石田へ往診に着ており、その手厚い看護も叶わず万延元年9月4日亡くなっている。
覚庵は佐藤家にも度々訪れているが、文久元年11月8日石田の歳三病気に付き、日野佐藤家へ行くと「覚庵日記」に記録されている。

歳三が実家に戻らず、何故佐藤家、なのだろうか?。

歳三の姉ノブは14歳で日野宿名主佐藤彦五郎のもとに嫁いだ。
歳三は幼少の折、両親を失い、親代わりに面倒を見たのが長男喜六であったが、直ぐ亡くなり、母代わりに面倒を見たのが姉ノブであった。ノブの嫁ぎ先は名主の重職を担う彦五郎宅で名主の応対や、道場に出入りする門人など人の出入りも多く繁忙を究めた。ノブは応対もそつがなく、確りものの嫁として評判が高かった。家の中を取り仕切る傍ら、病に苦しむ弟歳三の面倒を良くみた人物である。
歳三が大変な患いの身にありながら看護してもらえるのは既に喜六が亡くなった実家よりノブが頼りだったのか、歳三が佐藤家に寄りつく事実が明らかに判る。

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