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日野、駆けめぐり「こんな事もあり」PART2

Yさんと日野地区を一通り廻った後、モノレールに乗って甲州道口から満願寺にむかう。

◇満願寺地区
                   <石田寺>03271

石I田地区は多摩川と浅川の合流点に位置し、豊かな恵みと一方では洪水にさらされる。
万治年間(1658~61)大水で1.8m浸水、石田寺が流失し、弘化3年(1865)では歳三の生家土蔵と物置が流されている。

大水では多摩川の渡しが、溜まった人と物を満載し、出船した船が転覆30とも、50名とも言われる溺死者が遥か川崎まで流された悲惨な事故も記録されている。
現代でも河川敷のブルーハウスが浸水に逃げ後れ、ヘリコプターで救出されるなどTVでなまなましく報じられ、自然の水難は現代でも引きずっている地帯である。そんなことから、川底に建設機械が入り、堆積された砂利を起こす、治水対策が年中行事のように行われている。

石田村は出水と氾濫から飛び地が多く、新井・満願寺・下田などの村と複雑に入り込んでいる。
そんな背景から生れた道は大きな道から住宅地に一歩入ると大変判りにくく、案内人泣かせの場所である。

この土地の大きな特長は住宅地、墓地含め、見渡す限り土方姓ばかりである。
最近になって、別姓が住まわれているが、戦前までは土方姓の単一姓のみであったようで、これ程の純粋培養された土地は珍しい。

石田寺は高幡山金剛寺の末寺であり、土方家は高幡山の有力な檀家総代格でもあり、歳三忌の折は高幡山からお住職が来られ歳三の墓石の前でお経をあげ供養する。

南側に日野高校が隣接するが、2013年の高校野球の地方大会は私立のシード校を次々と倒し、あれよあれよと言う間に決勝まで進んだが、惜しくも甲子園行きを逃してしまった。地元の声援虚しく国立以来の都立の夢は叶わなかった。
この快挙は偶然であったのであろうか。地元の雄、歳三は京での見回り組から、戊辰役では旧幕府軍として、誠を掲げ幕末を駆け抜けた。歳三の機智と武勇の気が時代越えて、草の根の日野球児に乗り移り、戦勲が生れたのではと想像する。

同校の応援歌はRCサクセションの「雨あがりの夜空に」の替え歌であり、同校のOBの亡き忌野清志郎の代表作でもあり、ユニークな学校である。

◇浅川河岸

Img_4987

浅川に出て、このまま満願寺戻るまで、結構距離がある。
Yさんには負担かなと思いつつ、ついついマイペースでモノレールを乗らず、浅川土手を高幡不動に向かってしまう。
河岸は四季を通じて今が一番、見通しの効く時期であり、川沿いの自然と取り囲む山を見ながらの風情も趣がある。正面に丹沢連峰、右手に大室山が霞んで見えるが、大室山背後の富士の秀峰は生憎、お隠れのようであった。

川岸の水辺には渡り鳥が群れをなし飛来し、のんびりと一時を休んでいる。幼少時代育った 歳三も、恐らくこの付近で同じ風景を眺め、時を過ごしたのであろう。
河岸沿いを上流に向かい、南北を繋ぐふれあい橋を渡ると、当日のゴール地点の高幡不動である。五重の塔や背後のこんもりとした山が見えてくる。

◇高幡不動

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高幡不動の境内は樹木の生い茂る深い高幡山に囲われる。切り立つ斜面に小高く見晴らしの効いた頂部はそっくり自然が残され、歳三達始め天然理心流の門弟が稽古の傍ら野試合の訓練所になった。

慶応4年(1868)3月東征軍の主力である迅衝隊は、甲陽鎮撫隊を勝沼にて撃破し、諏訪高島藩の先導で甲州街道を東下し武蔵国多摩郡の八王子宿、日野宿を目指し、やってくる。日野の住民は恐怖に陥れ、焼き討ちさえ覚悟し、身を隠し、財産は親戚等に預けた。歳三の生家では歳三に関わる持ち物や書状は庭に掘って埋めた。家人は縁者の家か、高幡山に三日間隠れたとも言われている。

正月は過ぎて日日も経つが、境内では出店が出て、賑わいを見せていた。
前回の日野地区に併せて、「こんな事もある」PART2,高幡版も書いてみた

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