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桜田門外の変

2014年の冬は例年にない大雪に見舞われ、この三多摩地区も雪国になってしまった。雪と言うと、ふっと浮かぶのが真っ白な世界に真っ赤な血で染まった桜田門の変である。
安政7年、幕府の大老井伊直弼の一行の行列が上屋敷から江戸城に登城する時に浪士の一団に襲撃され、井伊直弼の首を打たれてしまう「桜田門外の変」が起きる。
この事変が転機になって、幕藩体制が徐々に崩れ、世の中が変わって行く、幕末史を飾る大きな事件を追ってみる。

安政7年(1860)旧暦3月3日は、新暦27日で未明から季節外れの大雪であった。

        <桜田烈士が集まった愛宕山に碑が残る>

Img_1660111 集合場所は愛宕山で、石段を登るころには白雪が2寸(6cm)程積もっていた。
登るにつれ市中の雪景色が広がり、見事な眺望であった。

愛宕山については天狗小僧寅吉のいた筑波山系の岩間山(現在の愛宕山)の山頂で愛宕神社で愛宕信仰修行の話があり、天狗がらみで繋がりがあるのであろうか・・・。

社務所付近には既に同志が集まっていた。
同志18人、唐笠、羽織、マチ高袴といった普通装束の者、笠を被った又引姿、合羽姿とまちまちであった。
水戸藩の佐野竹之助が有村治佐衛門に決行に参加する水戸藩の面々を引き合わせる。
総指揮者関鉄之介の最後の注意があり、数人ずつ石段を降りたはじめた。

□何故テロが生れたのであろうか
13代将軍家定の時、病弱で子が居ないために将軍後継ぎで問題が起きるが、水戸派、紀州派で派閥争いが起きるが、紀州派の実力者として井伊直弼が頭角を表す。
性格の強さに加え、ブレーンがなく、「徳川のために俺が頑張らなければ崩壊する」という危機意識から安政の大獄が起きる。
安政5年(1858)4月大老になった直弼は独断でアメリカ、オランダ、ロシア、イギリス、フランスと修好通商条約を結ぶ。
調印に激怒した徳川慶喜と三郷の田安慶頼、水戸の徳川斉昭が井伊大老を面責し、調印を非難する。
孝明天皇は幕府に対する抗議として調印に関わった幕閣の排除を迫る勅諚を幕府に通さず直接水戸藩へ届けられ、天皇から異例の勅諚があった。
「戊午(ぽご)の密勅」と言われ、勅諚の写しが各藩に届けられ、これを機に水戸の徳川斉昭の周辺への幕府の弾圧が始まる。
井伊が水戸藩主徳川慶篤に返却を迫ったが、藩内は高橋多一郎の拒絶派と服従派と別れるが、老中安藤信正の遅延すると水戸家は滅亡するぞと恫喝し、慶篤の父斉昭も返納やむなしと応じる。
これに対し「直弼専横」と非難が渦巻き、水戸、薩摩の連携や尊攘派志士の運動を煽る結果となる。

京都を中心に一斉に起きた反幕府運動に対して力で弾圧したのが「安政の大獄」であった。
切腹・死罪・獄門に処せられた者8人。連座する者女子供含め、百余人という大量処罰など厳しいものであった。
当時、全国的に有為な人材として、吉田松陰、橋本佐内、頼三樹三郎など結果的に抹殺してしまった。

◇大老の暗殺計画
安政の大獄で 藩主の父である徳川斉昭の謹慎など、反対勢力を弾圧された水戸藩では、高橋多一郎や金子孫二郎、関鉄之助などの過激浪士が中心になり、薩摩藩の有村次左衛門など連絡し大老暗殺の計画を具体化していく。
井伊直弼の仕留め役を「有村治佐衛門」と決める

◇行列へ襲撃

       <事件のあった桜田門>

Image3111111 辰の刻(午前8時)城内の大太鼓が鳴り出す。
尾張候の行列が通りすぎ、桜田門に入るころ、井伊家の門が開き、井伊家の行列が門を出る。かぶり笠に赤合羽で身を固めた揃いの装束姿の5、60人行列がきざみ足で出てくる。

一方、唐笠と合羽に下駄の通行人姿の総指揮者「関鉄之介」を先頭に佐野らが付いて、井伊の行列に向かっていく。
行列の先頭が松平大隅(おおすみ)守屋敷の門前に達した時、先頭襲撃組の「森五六朗」が飛び出て「捧げまする、捧げまする」を連呼して、井伊家の供頭、供目付の二人を斬りさげる。

井伊家の供回りは降雪のため、すべての刀につか袋を被せ、厳重な雪支度をし、ツカ袋の紐を解かない限り、刀は抜けなかった。おまけに吹き雪のために視界が悪く、行列の後方からは先頭の様子が判らなかった。

◇短筒を合図に
「ズドーン」合図の短筒がなりひびき、右襲撃組の「佐野竹之助」、左襲撃組の「有村治佐衛門」らが突進する。駕籠の右脇には井伊家きっての使い手、供目付「川西忠佐衛門」が居り、稲田重蔵を斬り、広岡子之次郎ねのじろう)と相まみえ、広岡の額を割ったが、佐野の一刀で致命する。佐野は駕籠にすすみ、駕籠の中を突きたてたが、反対側の有村 が
早かったか判らない。

有村は井伊を引き出し、一刀で首を落とし、申し合わせの鬨(とき)をあげ、思い思いに引き揚げた。
その間の闘争は15分程度であった。

◇有村治佐衛門の3兄弟
有村3兄弟の中の弟治佐衛門は華々しく桜田門外で散った。
次兄、雄介は薩摩藩工作のため西走したが、鹿児島についた3月23日、薩摩藩は幕府の探索が鹿児島に迫ると恐れ桜田事件の関係者を到着の夜、切腹させる。
長兄、俊斎は故日下部三次の養子となり、海江田武次と称す。(海江田は日下部の原姓である)
海江田武次は文久2年8月21日の生麦事件での外国人殺傷し、3兄弟そろって、テロ活動に走る。武次は幕末から、維新にかけて生き残り、維新後は弾正大忠、元老院議官などに任じられ、余生を送っている。

◇事件を伏せる
驚天動地の藩主急死に、跡目相続出来ず、井伊家お捕潰しになることを恐れ、井伊直弼の死を隠した。跡目相続の手続きを終えてから、死亡を公表した。水戸を叩けと、憤る藩士の暴走を押さえ井伊家を残した。
桜田門外で鮮血で染まり、幕府の崩壊がこれを機に徐々に始まってゆく。

詳細はこちらで紹介されています。ご覧ください

桜田門外の変

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普門寺の火事

           <炎上 した普門寺の本堂。屋根瓦は落ち、内部は燃え尽きている>Img_50242111本陣の当番日である2014年1月11日、旧甲州道は消防車両で埋まり、大渋滞の一般車両で只後とならぬ異常事態であった。炭で真っ黒な消防隊員が走り回っていたが、既に鎮火した後であったが普門寺本堂と隣接する家屋が火災で焼け落ちていた。
本堂は壁を残して、内部は完全に焼き付けており、再び戻すことの出来ない歴史遺産を瞬時で失うことは大きい。

しかし、本堂の南側の有形文化財に指定されている江戸時代後期の「観音堂」は無事であったのは救われた。
普門寺は日野宿の中心に位置しており、日野の歴史を語るには欠かせない存在である。
ここでは幕末から維新に絞って、役割を果たした舞台と、日野の歴史に関わった有力な檀家高木家について触れてみたい。

<農兵隊屯所>

      <罹災から免れた 観音堂。農兵隊屯所として使われた>

Img_501621111<農兵隊屯所>
嘉永3年折しも黒船騒ぎに、国防治安の声高く、文久3年(1863)御代官江川太郎左衛門は管下に命令し日野宿組合農兵隊を組織した。
隊長役は伊豆韮山の江川代官邸で洋式訓練や操銃術の稽古を受けた名主佐藤彦五郎の長男の源之助、と上名主の長男隆之助の二人に15~45才の精選された30人が農兵として集められた。
宿有力者から献納金で鉄砲や練習所費用が賄われ、多摩川河原で調練を励み、普門寺、宝泉寺を修練場として呼び、事務所として使う屯所とした。
宿内の5人の千人同心の教導で河原に出て練兵、射的を勉励し、春秋2回は江川代官配下の3教官が派遣され、オランダ式操銃練兵術も習っている。
元より天然理心流の門弟の多くも農兵隊に参加しており、最大60名とも言われ、江川代官配下で銃を担ぎ近代化を遂げ国防に励む、集団がこの辺で見られたのである。<高木家>
普門寺の一角に日野宿の代表的旧家の一つで、高木家一族の墓がある。


<高木長次郎>
高木長次郎、後に2代目吉蔵は文政10年(1827)生まれる。農業のかたわら家業として質屋「角屋」を経営していた。
長次郎は多摩地域の豪農に見られるように天然理心流に励んで免許まで取っている。
安政5年(1858)秋には、日野宿鎮守の牛頭(ゴズ)天王社(八坂神社)へ剣術上達を祈願する額を奉納しているが日野宿の天然理心流最古参剣士として名を連ねる。文久3年(1863)の浪士組上洛の際に上洛している。

慶応3年(1867)「御用盗」と言われた薩摩藩の浪人捕縛の八王子壺伊勢事件では佐藤彦五郎以下総員7人の日野宿の剣士の一人として参加している。

慶応4年(1868)近藤勇が甲陽鎮撫隊を編成し、甲州道中を甲府城へ向かった。日野宿の農兵22人の中の一人として参加する。勝沼で破れ、それぞれ身を隠したが、長次郎は御獄山のお宮の黒田家から大岳山の山小屋に匿われ、約1年後赦免され日野に戻った。明治14年(1881)で没する。
日野宿の天然理心流の剣士の一人として、日野宿の運命を背負いながら幕末を生き抜いている。

<長次郎の子息>
長男の吉造は安政元年(1854)誕生する。
明治5年(1872)記者になって1年間アメリカ・ボストンに渡っている。明治10年西南戦争に志願兵として出征する。
自由民権運動に参加し、自由党に入党するなど多摩地域に起きた政治活動の推進役を果たす。
一方、日野銀行の取締役や、実弟とレンガ製造所の設立に参加するなど事業を起こしたが、明治26年、39歳で亡くなる。
次男浜の助は安政3年(1856)誕生する。
慶応3年(1867)11歳で普門寺の住職隆有の弟子になって入門する。
明治3年(1870)土淵姓を名乗り、分家として「英(はなぶさ)」と改名し、僅か15歳で日野八坂神社の宮司となる。
明治5年(1872)山岡鉄舟の門人として弟子入りし、玄関番から始めたと言う。
明治21年レンガ製造所を設立するが、明治23年(1890)に急死し、レンガ製造所も閉鎖される。
因みに製造された煉瓦50万個の一部は多摩川、浅川の鉄橋で現代でも使われている。

<山岡鉄舟との関わり>
新選組以来山岡鉄舟と懇意としており、山岡鉄舟が日野に訪れた時、八坂神社神官の土淵家と高木家へ度々訪れたようで、各種の掛け軸や刀剣など譲られている。
山岡鉄舟は誰でも頼まれるとすぐ書いたが、しっかり対価は貰ったようで、鉄舟居士の禅書として宿内に多数出回ったようである。

<最後に>
何時起きるか、判らない火事は時代を越えて、常について廻る。一瞬にして焼き尽くし、失うものは大きく、改めて火事の恐ろしさを見て、身の引き締まる思いがする。
被災された方々には見舞申し上げると共に、歴史を語り伝える象徴として、早期の復元を待ちわびたい。

詳細はこちらで紹介されています。ご覧ください

万願寺の渡しから日野宿へ

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