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新選組の踏み跡その1

1863(文久3年)3月、江戸で招集された浪人集団が 幕府将軍警護のために京都に向かう。清河八郎の起案で攘夷の護りにつきたく大半が江戸帰還するが、近藤勇以下が京に残留する。会津藩預かりで『新選組』として 改名、京都市中を見回り役として、治安維持に当たり、その名は全国に知れ渡る。
倒幕の嵐が遂に戊辰戦争にまで繋がり、新選組は会津藩下の幕府軍として第一線に立ち、新政府軍と戦う。京から、戦線は東へ、関東から東北、更に蝦夷まで戦線は移って行くが、函館で落ち、約6年間の短い期間で新選組の幕を閉じる。
徳川幕府から明治新政府に移り変わる、時代の変遷の中に 散っていった新選組を追っ掛けて見た。
その軌跡を辿って合間を見ては場所別に廻り、概略ではあるが、新選組路線を繋ぎ合わせることが出来た。
この間おおよそ10年近くかかってしまったが、新選組が歩んだ踏み跡を何とか徒破出来た 。
その節目となる代表的な部分をピックアップしてみた

◇新選組発足の拠点となった

      <壬生村浪士屯所となった八木邸>

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1863(文久3年)3月、江戸で招集された浪人集団が 幕府将軍警護のために京都に向かう。所が清河八郎の起案で攘夷の護りにつきたく大半が江戸帰還するが、近藤勇以下が京に残留する。『浪士組』として、組織化され、会津藩預かりで『新選組』として 改名、京都 市中を見回り役として、治安維持に当たり、その名は全国に知れ渡る。会津藩預かりで将軍の警護を宿舎となる八木源之丞邸で壬生村浪士屯所とし、新選組が誕生した。

◇池田屋事件
尊攘激派浪士により、御所に火を放ち親幕派の要人を倒し、孝明天皇を連れ出す計画を発覚し、その会合が行われた、池田屋へ近藤勇以下が襲撃し浪士と乱闘になる。この『池田屋事件』をきっかけに、長州藩は2000名の兵を上洛させ、禁門の変(蛤御門の変)をおこすなど新選組の名が一気に知れ渡る。

◇戊辰戦争勃発

     <新政府軍の本営となった城南宮。薩長軍は此処で幕府軍を迎え撃った>

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旧幕府軍と新政府軍が合いまみえ、鳥羽・伏見の戦いで戊辰戦争が始まる。新選組は近代装備した薩摩軍の前に挑み新選組も銃をとり応戦したが、装備は古く新選組本来の刀槍では勝負にならず武器の近代化の前に刀槍の時代は終わる。

◇潮流は新政府側に
戊辰戦争で薩長の勢いに押され幕軍総崩れの中、15代将軍慶喜は松平容保、松平定敬兄弟を随従させ、夜隠に乗じて自ら、大坂城から、開陽丸に乗り込み突如、大阪を逃れ品川に何の前触れもなく慶喜は戻ってきた。
慶喜を失った旧幕府軍は大阪での抗戦を諦め所隊の解散を命じた。諸藩兵は本国へ戻り、新選組は旧幕府軍と共に江戸へ帰還する。慶喜ら一行は江戸湾に着いた開陽丸から小舟に乗換、この「お上がり場」から江戸城に帰り、その後蟄居する。

        <浜御殿にある歴代将軍の「お上がり場」>

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◇勝沼戦争
近藤勇が江戸に帰り、生き残りの新選組隊士を中心に甲陽鎮撫隊を編成し、東征軍の江戸城進攻を阻止するために甲府城へ向かう。しかし、甲府は既に新政府軍に落とされ、鎮撫隊は勝沼 で布陣し東征軍と戦ったが 2時間程で破れ江戸へ敗走する。

       <柏尾山中腹から臨む。右側が中央高速、左側が甲州街道、その甲州街道付近が勝沼戦争の舞台となった>

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◇近藤勇、板橋で処刑

      <近藤勇らが屯所にした流山の酒造業長岡屋(現酒類問屋秋元)>Ngrym503_2 慶応4年(1868)4月、新政府軍により江戸城無血開城したが、新政府の処置を不満とする幕府兵は江戸を脱走し、抗戦した。
勝沼で破れた新選組は江戸に戻り、会津に赴いて徹底抗戦しようとしたが、永倉新八や原田左之助ら数人が近藤の元を離れていく。

近藤勇以下は千葉、流山に移り隊士を含め、訓練している最中に新政府軍に包囲され、近藤勇は捕縛され、板橋に連行された。勇は五兵新田から大久保大和を名乗っていたが、新政府軍側に新選組の近藤勇が割れてしまい、土方の助命嘆願努力も実らず、板橋で斬首された。

<その2に続く>

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