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「山岡鉄舟」日野をめぐる

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新選組まつりも終わった5月の日曜日に未だ大きなイベントが残されていた。
山岡鉄舟研究会(以下研究会)の皆さん総勢24名を新選組日野をご案内することであった。
当日の案内コースは研究会や当ブログでも紹介されており、記事の重複は避け、コース案内を担った立場から触れて見たい。

□益満休之助から生まれた奇縁
そもそも、鉄舟と日野との繋がりは文久3年(1863)徳川家茂公の上洛時の京の治安維持に江戸の浪人を集め浪士組として上洛するが、清川八郎の献策を具体化する「浪士取締役」を担ったのが鉄舟であった。その後、浪士は江戸に帰還するが、京の治安維持に残留したのが後の新選組となる。
一方、鉄舟は江戸城無血開城をなし遂げた立役者であるが、それを影で支えたのが薩摩の浪士益満休之助である。益満は幕府側に捕まり処刑されるところ勝海舟に救われ鉄舟の駿府行きを支援する。上野戦争では再び新政府側で戦い戦死する。その数奇な運命は拝の関心時ではあったが、研究会の矢澤さんがお見えになった折に他に来館者おらず時間の経つのを忘れ、延々と語りあってしまった。そんなご縁から、研究会の関心事である新選組日野のご案内の実施に繋がった。

□コース案内
当日は幕末の面影を残す日野地区と土方歳三の墓のある満願寺地区、最後は高幡不動でそれぞれモノレールを乗り継いでのタフなコースであった。
ヘッドマイクと携帯スピーカーを下げ、説明資料とタイムスケジュールを手に迷路のような市街地を安全に時間通り廻ることが大きな課題でもあった。
更に研究会の看板にふさわしく、研究者や幕末史に造詣の深い方々の集まりだけに、場所案内に留まる内容の薄い説明では耳を貸してくれないであろう。既に半年前にスケジュールを決定し、廻るコースも決まっていたが、日野宿の舞台を背景にあれも、これも台詞が頭の中を駆けめぐり、余り整理が付かないまま、当日に臨んでしまった。
限られた時間に現地ならではの口伝も含めたコアーな話も披露した。

□日野宿の中心部

           <正面の本陣家屋は下佐藤家、右側のマンションは上佐藤家>

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江戸から諏訪に通じる甲州街道は全部で45宿であったが、日野宿は本陣、脇本陣が居並び参勤交代を迎い入れる形式であった。
甲州街道を挟んで向かい側に右手のマンションが本陣で、その左隣が脇本陣である。
現在でもその姿を留める都内唯一の本陣形式の建物である。
両家とも名主を勤め、佐藤姓であるが、血縁関係はなく、マンション側は京に位置することから上佐藤、脇本陣は下佐藤と識別呼称されている。
幕末期には新選組との繋がりに深い関わりがあった事は知られている。
明治14年、明治天皇は京都行幸に次いで、多摩村連行寺向ヶ丘御猟地へ兎狩りに行幸された折りにも休憩されている。
玄関前にて「金華山」と呼ばれる御愛馬に乗馬され、近衛騎兵が警護される中、薄雪白き、麦田圃の畦道を騎馬軍服姿で勇ましく猟場へ目指した。鉄舟も乗馬し、後を追った。二人の躍動感溢れる姿が、目に浮かぶ。

一方、上佐藤の佐藤隼人は美濃国(岐阜)で斉藤道三に仕えた武士てあったが、道三戦死で日野に来た一人であった。
永禄10年(1567)滝山城主北条氏照から囚人を貰い、用水作りを着手し、今日総延長は約177kmの日野用水に至る。水に恵まれ市域は稲作が盛んで「多摩の米蔵」と言われている。
その用水は現在でも手厚く護られ、街中に清水が流れ、鮎の俎上がこの付近でもあり話題になった。そんな先人が残された遺産が今日でもしっかり護れている。

                <今日に伝える用水路>

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□幕末が詰まった裏道

        <右角がヤンメ地蔵、背後が欣浄寺、その奥が井上一族の家>

0101甲州街道から北側に入った狭い路地の一角が、まさに由緒ある幕末ロードである。
右角にある地蔵堂が目の病にお利益があるヤンメ地蔵である。幼い時代近くに住む沖田総司は義姉のミツに連れられて、この地蔵にお参りしたと言われている。
その背後に幼稚園を弊営している欣浄寺がある。この広場が天然理心流の稽古場の一つとして利用された場所である。

「や~、とう~」と言った掛け声が響きわたり、時代を担う若者たちが新選組や新徴組、或いは千人同心として時代の嵐の中に入っていった。
巷間伝わる新選組隊士が育ったと言われる佐藤家の長屋の佐藤道場は慶応2年(1866)の開設であり、既に京を舞台にいる新選組と結びつけるのは矛盾がある。佐藤道場の稽古は農兵隊や志を持つ若者と言われている。
その先が井上源三郎の生家である。
八王子千人同心を代々勤め源三郎の兄は、七代目として将軍家茂の警護で上洛している。弟源三郎も浪士組として参加、後の新選組の六番隊隊長として活躍するが鳥羽伏見の戦いで戦死している。松五郎の息子泰助も新選組へ入隊、家族ぐるみ幕府に身を注いでいる。
井上家の斜め向かいが井上家の分家で幼少時代の沖田総司と母親替わりに面倒を見た義姉のミツが暮らしていた。
分家の林太郎はミツと結婚し、沖田家に養子入りした。林太郎は千人同心として上洛している。嘉永5年(1850)に、父元常が亡くなり、翌年、林太郎とミツとの間に子供が誕生する。
総司はそれまで親代わりに面倒を見ていた松五郎により11歳で試衛館道場に預けられる。

□日野に残した鉄舟の書
高幡不動の奥殿で名前が紛らわしいが山岡鉄舟から奉納されてある屏風が展示されてあった。
更に、今回特別に佐藤資料館の佐藤福子館長の許しで特別に開館して頂いたが、同家の保存書類から鉄舟の掛け軸を探して頂き、今回展示頂いた。
今回のコースから外れたが甲州街道を挟んで本陣の向かい側に普門寺があるが、今年の1月に本堂が消失した。同寺の有力な檀家の一つ高木家で、高木長次郎は浪士組上洛に参加している一人である。長次郎の次男浜の助は明治3年(1870)土淵姓を名乗り、「英(はなぶさ)」と改名し分家して日野八坂神社の宮司となる。
明治5年(1872)山岡鉄舟の門人として谷中の春風館に弟子入りし、玄関番から始めたと言う。
そんな繋がりから、鉄舟が日野に訪れた時、八坂神社神官の土淵家と高木家へ度々訪れたようで、各種の掛け軸や刀剣など譲られている。
日野にも鉄舟の足跡が多数残されているようである。

□鉄舟と徳川慶喜の涙
高幡不動の殉節両雄の碑は近藤勇、土方歳三の賊名を晴らし忠勇を讃える顕彰碑で当時の時代背景から新政府が中々認められず建立に10年以上かかった。
「篆額(てんがく)」は当初、徳川慶喜に依頼したが、碑文を読みただただ涙を流し、応ぜつ松平容保が揮臺した。

江戸城無血開城の立役者は鉄舟である。
慶喜は鉄舟を呼び、「二心はない。朝命に絶対にそむかぬ」と交渉役を頼んだ。
鉄舟は江戸開城について駿府の官軍の渦巻く営中へ行き、西郷隆盛と面談する。
大総督官(有栖川宮)からの五箇条の条件を西郷隆盛から示された。
一、城を明け渡すこと
二、城中の人数を向島に移すこと
三、兵器を渡すこと
四、軍艦を渡すこと
五、徳川慶喜を備前へ預けること
「謹んで承りました。四箇条は異存はありませぬが、主人慶喜を備前へ預ける一条は何としても承服できません」と抗議した。
西郷は語気を強め「朝命ですぞ」と大上段から浴びせた。が、鉄舟は怯まない。
結局、西郷は折れ、五条は取りさげた。、
西郷の格言に「生命も名も金もいらぬ人は始未に困る。そんな人でなければ、また天下の大事は成らぬものです…」とあるのは、山岡鉄舟を評したものといわれる。
慶喜の流した涙は、もとより碑文の忠勇で散っていった両雄でもあるが、身を投げ救った幕臣の一人鉄舟でもあったことも、改めて思い起こした。

□最後に

         <歳三像の前で鉄舟研究会の皆さん>

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拙い説明でも、終始耳を傾けて頂いた寛容さに救われ、何とか廻りきれ、最後の高幡
不動の「殉節両雄之碑」で完結した。やり終わった達成感と、皆さんの拍手に感動さえ生まれた。「おつかれさまでした」

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