« 「山岡鉄舟」日野をめぐる | トップページ | 新選組の踏み跡その3 »

新選組の踏み跡その2

◇小山宿で旧幕府軍勝利
                  <小山宿脇本陣(本営となった本陣は無い)>

Img_27041
新政府の処置を不満とする幕府兵は江戸を脱走し、会津に赴いて徹底抗戦する。
旧歩兵奉行大鳥圭介が総監、司令官は会津藩士、秋月登之助(本名江上太郎)、配下に入った新選組から参謀役に土方歳三(以下土方)が就く。北上を開始すると小山から宇都宮、今市、大田原と、下野を中心に新政府軍と激しい攻防戦が繰り広げられた。戊辰戦争で敗走が続く旧幕府軍が一矢を報いたのが小山での戦いものであった。
小山宿で勝利した大鳥の軍は飯塚宿から鹿沼に向かった。
秋月登之助や土方らの部隊は鬼怒川の東岸の大沼(真岡市)浅瀬を伝って渡河し「満福寺」に宿泊する。この時の新選組隊士は土方以下島田魁、漢一郎、中島登、他総勢7人であった。
大鳥軍は本営を本陣をに置き、本陣前に敵将7名の首級を晒し高揚を図った。幕府に恩義ある旧譜代の彦根藩や館林、笠間、壬生藩など、新政府側に付き、旧幕府に刃向かうことが、大鳥には許せなかった。
国道265号線「小山宿通り」沿いに脇本陣のみ残す。

◇宇都宮城攻防戦
                   <再現された宇都宮城の櫓(やぐら)>

Img_90201
旧幕府軍は宇都宮藩守った宇都宮城を攻撃した。簗瀬橋で田川を渡り城下の下河原門に殺到し、白兵戦が繰り広げられた。
土方は逃げ腰になった自軍の兵を斬り士気を鼓舞し、一日で城を落とした。
敗軍の報に新政府軍の薩長土連合の部隊が壬生城に集結し、宇都宮に襲来する。宇都宮城は奪還され再び新政府側に戻る。
土方は市街戦で足を負傷し、第一線から離れ、今市から、会津に向かう。
この間、土方は、八王子千人同心として日光勤番をしていた同郷の土方勇太郎を呼び寄せ、面会をしている。土方は涙を浮かべ、「宇都宮の戦いで逃げようとした兵を手撃ち、不憫なので日光で墓石の一つも建ててくれ」と頼んだと言われている。

◇安塚の戦い
                <激戦地、安塚に残される墓が僅かに残される>

Img_26281
宇都宮城が新政府軍に奪還される前、姿川を挟んだ、安塚集落で両軍合わせ、8、90名の戦死者が出ている激戦があり連勝続きの旧幕府軍が破れる。この戦いに勢いを得た新政府軍が宇都宮を奪還する、大きな転換期を迎える安塚の戦いであった。
栃木街道の淀橋に近い場所で鬱蒼とした樹木を背後に「戊辰役戦死の墓」がある。
安塚村の農民が遺棄された34の旧幕府軍兵士の屍体を、拾い集め、葬り石碑を建てた。明治政府から埋葬許可を取るために新政府軍、旧幕府軍と合葬と偽った。明治6年以前に建てられ、風化が進み、崩れ落ちている初代の碑と明治13年(1880)の建立された二代目が並んでいる。

◇会津で斉藤一が指揮
土方は宇都宮を後に日光経由で会津入りする。医師の進めで、東山温泉の会津藩の共同湯にて治療に専念する。
土方は山口次郎こと斉藤一に新選組隊長を命じ、新選組は再編成され白河街道(現国道294号)から赤津、福良、三代、勢至堂峠を経て白河迄出陣する。新選組は会津藩兵に加わり白川城を護るが激戦後新政府軍に奪取され勢至堂峠近くの牧之内に退却し、会津へ道を引き返す。
会津若松の七日町の通りに歳三が宿営した清水屋はコンクリート建ての大東銀行に変わり、碑が当時の場所を伝えている。

◇会津城下天寧寺に退避
新選組を含めた旧幕府軍が母成峠が破れ、会津城下に退避する。新政府軍が猪苗代城下まで進出する中,新選組は城下の旅籠や天寧寺に駆け込んだ。近藤勇の処刑は何時しか会津に知らされ、土方の懇請によって松平容保から勇の法名「貫天院殿純忠誠義大居士」を授けたと言われている。土方は法名を刻んだ勇の墓を建立した。

◇白川口と小峰城
                   <一日で数百人が亡くなった激戦地の白川口>

Img_33761
会津の前線基地でもあった白川の小峰城は新政府軍と旧幕府軍と一進一退を繰り返すが、新政府軍が奪還する。
奥羽越列藩同盟を結成し、小峰城は同盟軍のステータスであったが、落城は戊辰役の大きな転換点であった
5月1日、近代兵器の違いを持って700名の戦死者が出たが、その大半が東軍の死者であった。
津軽藩士で菊地央(たのむ)が新選組に入ったが、薩摩側に寝返りした。近藤勇が逮捕され、面通し、勇を確認通報した人物。央は津軽藩で射撃の名手で、攻めて来た時に斉藤一からの命令一発で仕留められ22歳の若さで亡くなった。

◇1カ月の籠城鶴ヶ城の攻防戦
               <生生しい弾痕跡を残す鶴ヶ城(現在修復)>

Turuga511


鶴ヶ城を巡り、両軍多くの犠牲者を出しながら、戦い、新政府軍は鶴ヶ城を包囲した。新政府軍は10万人に及び城内に砲撃し、城内は2000人の犠牲を生み、残る兵士も3000人となってしまった。
一方の会津軍は弾薬、食料乏しく、疲労困憊に9月19日、「容保」ついに開城を決意し、 追手門に「降参」を大書した白旗を掲げられ戦いは終わった。
西郷頼母一族の自害し、銃弾の中薙刀で迎え撃つ中野竹子など、婦女子おも巻き込む悲惨な1カ月の籠城戦であった。

◇斉藤一、会津に残留し、蝦夷行きと訣別する。
            <弾痕跡も生々しい石塔、背後の赤い建屋が如来堂>

Img_35131



新選組は母成峠継いで滝沢峠も新政府軍の手に落ち、8月23日会津若松城下に突入した。新選組は城への退却が最早不可能になり、塩川村に転進する。歳三は援軍を求め、大鳥圭介に新選組を預け、会津を離れた。
新選組は戦死者、離脱者が生れる中、斉藤一は大鳥圭介に旧幕府軍が仙台に向かわず、会津での玉砕を主張する。
「今落城せんとするを見て、志を捨て去る、誠義にあらず」と言って、同調する隊士と会津に残った。
斉藤をはじめ、久米部正親、池田七三郎、荒井破魔男ら13人の隊士と、合流した旧幕府軍の兵卒合わせて20人で越後街道沿いの如来堂にに本営を布陣した。新政府軍が攻めてきたが、敵に囲まれ、大半が戦死する。斉藤一他は如来堂をそれぞれ脱出し、降伏する。
石塔や地蔵さんに蜂の巣のように生生しい銃や砲弾の痕跡が、凄まじく、激しい戦いの跡が衝撃的であった。
戦いの様子をそっく、残し、後世に伝える如来堂鶴ヶ城籠城終了。
土方、配下の新選組は「大江丸」に乗船 蝦夷へ向かう。

<その3に続く>

|

« 「山岡鉄舟」日野をめぐる | トップページ | 新選組の踏み跡その3 »

06、戊辰戦役(蝦夷除く)」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 新選組の踏み跡その2:

« 「山岡鉄舟」日野をめぐる | トップページ | 新選組の踏み跡その3 »