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新選組の踏み跡その3

◇旧幕府軍,蝦夷地へ
慶応4年(1868)8月、品川沖を出発した榎本艦隊は旗艦開陽丸以下回天、蟠龍(はんりゅう)、長鯨、神速、鳳凰、回春、大江、七隻の大艦隊で仙台に寄り、旧幕府軍の敗残兵を乗船させ、蝦夷に向かう。
上陸地点は箱館は既に国際開港場で、外国船が係留され中でのトラブルを避けるため、噴火湾中央部の鷲の木海岸が選ばれた。明治元年(1868)10月20日、榎本武揚、大鳥圭介、土方他2000人以上と言われ陸兵が上陸した。
21日人見勝太郎以下32人は峠下村(現七飯町)で待ち構えた 新政府軍と戦い、函館戦争の火蓋が切られた

<榎本軍の鷲の木海岸の上陸を示す記念碑が建っているが、海岸側は函館本線が走り、噴火湾の姿は遮られている>Img_91241

◇五稜郭、無血入城
上陸後は、本隊と二つの先行隊で編成し、函館へ向かった。
土方が率いた衝鋒(しょうほう)隊、額兵隊他と島田魁の新選組は海岸線沿いに進む。一方、大鳥圭介が率いる伝習隊他と安富才助の新選組は内陸部の七重を経て南下する。峠下(とうげした)で、蝦夷地での初めての戊辰の火蓋が開かれた。松前軍、津軽軍とも実戦経験のない函館府の兵は旧幕府軍の攻撃を受けて大野、七重へ退却する。

夜が明け雪降る中で函館府側は、抵抗を諦め五稜郭、更に青森へ撤退した。10月25日こうして旧幕府軍は抵抗もないまま五稜郭へ無血入城した。11月1日、旗艦開陽丸、祝砲を上げ、意気揚々と函館港へ入港する。

◇ 140年振りに姿を表した奉行所
元々函館山麓にあった奉行所は元治元年(1864)五稜郭内に完成し、蝦夷地の統治や開拓、諸外国との交渉など幕府の北方政策の拠点でもあった。戊辰戦争で、旧幕府軍により約半年間占拠されたが、新政府軍の奪還により五稜郭は開城され、戊辰戦争も終焉を迎えた。函館戦争後の明治4年(1871)に開拓使により奉行所庁舎は解体されてしまった。140年経過した2010年に復元され、当時の奉行所の姿を再び見る事が出来た。

◇松前城奪取
10月28日、歳三率いる隊は五稜郭を出発し、松前に目指すが宿営地に松前藩兵の夜襲など会い苦戦する。
松前城の手前福島村本村で日旧幕府軍は松前城の守備兵400名と銃撃戦となるが、回天他軍艦が砲撃、敵前上陸を敢行して福島村は旧幕府軍に制圧される。
旧幕府群は松前城攻撃前には沖合の軍艦を寄せつけなかった城下の筑島砲台を鎮圧し、海上からの砲撃を可能とした。
松前城では藩兵400名、上磯、青森からの兵155を加え、旧幕府軍の対決に備えた。門内には野砲を並べ、門を開け閉めして砲火を浴びせる奇策に旧幕府軍も苦戦した。旧幕府軍は激しい白兵戦の上、城内に進入、天守閣にも殺到し松前藩兵を駆逐した。
松前城を占拠した旧幕府軍は遊撃隊長人見勝太郎が松前奉行になって占領行政を担当する。
土方は川原町の済衆館と言う医学校を宿舎に白馬に跨がる颯爽とした姿で松前城へ登城したと言われている。

緒戦の松前の戦いは終わった。松前城は6カ月間、旧幕府軍の手に落ちる占領される。
新政府軍反抗に旧幕府軍は総動員され松前城を砲台で固め、台地上に胸壁銃座を縦横に設け襲来に備えた。
新政府軍は甲鉄、朝陽、丁卯、陽春、飛龍の5艦が松前城と海岸砲台を砲撃し援護される中、松前藩は城中に突撃し、松前城は奪還された。

松前城は幕府から北辺警備の命令を受け安政元年(1854)に日本最後の旧式築城として完成した。北海道唯一の城郭である。城内に砲台を備え、天守閣は強固な構造で既に西洋式の重火器を用いた近代戦に備えていた。
天守閣は本丸御門を残して焼失したが、本丸御門は重要文化財に指定された。

   <天守閣は昭和36年(1961)に鉄筋コンクリート作りで再建された>

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◇「開陽丸」江差で沈没
旧幕府軍は館を陥落させ更に、大滝山を突破し江差に達する。榎本武揚は函館から開陽丸に搭乗、江差を海上から砲撃し陸兵を支援する。江差弁天島愛宕山の台場に向けて砲撃を加えたがなんの反応もなく、上陸させ江差を占領した。
開陽丸は江差港外に投錨したが夜になって風波激しく、押し流され暗礁に乗り上げ、沈船する。。
旧幕府軍の旗艦とし2500トンのて[開陽丸]が沈船によって艦隊としての海軍機能は半減したことを榎本武揚や土方歳三が悔しがった。

   <「開陽丸」の発掘調査は継続的に行われ、平成2年(1990)、復元された。>

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メインマスト高さは45メートルノッポ姿は江差町の町中から見られ、シンボリックな存在になっている。
近代的な艦船としてオランダから運ばれ、殆ど偉力を発揮すること無く消えて行ったのは、後の戦艦大和と同じような運命の先駆けでもあった。
「歳三嘆きの松」という古木が江差の高台に建つ檜山奉行所跡の前にある。此処で榎本とともに沈没する開陽を眺めながら歳三が幹を叩いて悔しがったのだと言われている。恐らく榎本、歳三が奉行所を歳三と榎本が奉行所を宿舎としたために生まれた伝説とも言われている。

◇新政府軍反撃開始
4月9日新政府軍1200人が日本海側の乙部海岸からから新政府軍は上陸した。上陸後、乙部に参謀本部を設置し臨戦態勢を整えた。新政府軍の一隊は内陸部を二股口、中山峠を経て函館に向かう部隊と一隊は江差を奪回後、兵を更に二分し稲穂峠から古内に向かう山道を進む部隊と海岸線を松前城に向かう部隊に別れ、それぞれ進軍した。

迎撃態勢のない江差は海から艦砲射撃が加えられ、新政府軍に簡単に抜かれ全軍が松前に退却した。新政府軍上陸の報が五稜郭に届き、歳三は伝習歩兵隊、衝鋒隊230を率いて二股口に出陣し、半日以上の銃撃戦で新政府軍は撤収する。

乙部沖に「甲鉄」「春日」など黒船来襲を思わせる光景となった。村民は大挙して漁船を出し、軍艦に対して情報を伝え新政府側に加担し、上陸支援した。<乙部海岸には新政府軍の上陸地点に軍装で使われた帽子がかけられた 碑が建っている。

◇湾岸中央部へ進撃
江差から五稜郭へ目指す新政府軍は山越えも一つのルートとして進軍した。二股口では旧幕府軍が死守、消耗した弾薬は3万5千発共言われ、激しい連射に過熱し銃身を、桶に水で冷やしながらの消耗戦であった。
16時間の戦闘も決着付かず新政府軍軍は一端引き返したが、旧幕府軍も司令部からの撤退命令から、橋頭堡を引き揚げた。

松前は陥落し、一進一退を繰り広げていたが戦線も、湾岸中央部へ移って行くが、旧幕府軍の「千代田形」は弁天台場沖で座礁し新政府軍の手に落ち、旧幕府軍の軍艦は「回天」と「幡龍」のみになってしまう。

旧幕府軍は圧倒的な数と軍艦など近代装備の新政府軍の前に崩れていく。
新政府軍の先陣は一気に湾岸中央部へ進撃している一方、旧幕府軍は五稜郭への撤退命令が下された。

   <松前、茂辺方面から函館湾を奥深く、函館市街地に戦線は変っていく。鋭角な山容の駒ヶ岳がはっきり見える>Img_9384111

◇新政府軍総攻撃
旧幕府軍は五稜郭北、西の大川方面、函館市街に守備陣を配置する。
一方では、弁天台場に新政府側のスパイが潜入し砲7門のうち6門の発火口にクギを打ち、砲を不能とし、新政府軍軍艦の進入を容易にした。実行した斉藤順三郎は捕まり3日間砲門に縛りつけられた後に斬首される。

総攻撃を察知した10日の夜、武蔵野という妓楼で、旧幕府軍の幹部が集まり、別れの杯を交わした。11日、夜明けをもってそれぞれの部署に戻ろうとすると艦砲射撃の音が鳴り響いた。
砲撃を合図のように新政府軍の奇襲部隊が函館山背後と弁天台場側の山瀬泊(現入船町)から上陸し戦闘になる。

市中は分断され台場は孤立するなど、敵兵を迎えた旧幕府軍は混乱し、新選組を含めた旧幕府軍は函館山で弁天台場で多数戦死する
函館山は市街地を俯瞰出来る、自然立地から軍事戦略上の要所である。

◇土方歳三(以下歳三)の最後
一本木を挟んで旧幕府軍と新政府軍は数次にわたる戦闘が繰り広げられる。千代ケ岡陣屋で額兵隊二小隊を率いた歳三は大野右中と一緒に一本木関門に向かう。一本木関門では市中戦で敗れ伝習士官隊が引き揚げたてくる。歳三は彼らを立て直し、額兵隊と共に反撃を試みようとする。
折しも、海戦中の旧幕府軍、幡龍の放った一弾が、敵艦朝陽の弾薬庫に命中し、朝陽は轟音をあげて沈没する。
歳三は「この機を失するべからず」歳三は大野に額兵隊、伝習士官隊を率いて反撃することを命じる。敵兵も朝陽の爆発に虚をつかれたのか異国橋方面に退却する。
歳三は関門を離れ一本木浜に向かった。弁天台場近くの浜に乗り上げて回天から脱出しようとした乗員の援護を行い五稜郭方面に退避させた。再び歳三が関門に戻った時に、馬上の歳三の腹部を一発の銃弾が貫いた。

歳三戦死の報は五稜郭に届けられ、使者が一本木に駆けつけ、隊士の立川主税、沢忠助とともに遺体は五稜郭に運ばれ、その一角に埋葬された。

◇一本木関門
旧幕府軍は函館山と五稜郭を繋がる半島の一角を柵を設け、この間の出入りに制限をかける関門を作った。一本の柏の大木から「一本木」と呼ばれている。歳三の最期の地は諸説あるが、一本木関門とするのは新選組隊士の立川主税(ちから)の戦争日記である。「七が浜へ敵後ヨリ攻来ル故ニ、土方是ヲ指図ス・故ニ敵退ク。亦一本木ヲ襲ニ敵丸腰間貫キ墜ニ戦死シタモウ」と記されている

◇称名寺
弁天台場のあった函館ドックから山側に登った所に称名寺がある。戊辰戦争が蝦夷地に展開され、新選組も戦線を北に移動するが新選組の最後の屯所となってしまった。歳三の供養碑がある。

◇函館山山中の碧血碑へ
     <立待岬側から、奥深い山道に入り鬱蒼とした樹林の中に碧血碑がある>

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碧血碑は歳三や新選組隊士を含め約800人の戦死した旧幕府軍兵士の霊を弔うために榎本ら生き残った幹部たちが明治8年(1875)に建立した。碑石は東京から船で運ばれたもので、碑の題字は大鳥圭介とされている。

碧血とは
「義に殉じて流した武人の血は3年経つと碧色になる」という中国の故事によるものである。

□終わりに
「新選組の足跡」として、自ら歩き彼らの残したものを追ってみた。
新選組の生い立ちから、戊辰戦役の終焉迄、幕末の意志を貫き、南北に長い列島の縦断を駆け抜けたエネルギーに改めて感服する。上洛から戦死まで、武士よりも武士らしく生き抜き、散って行った歳三に代表される新選組の5年間であった。

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新選組の踏み跡その2

◇小山宿で旧幕府軍勝利
                  <小山宿脇本陣(本営となった本陣は無い)>

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新政府の処置を不満とする幕府兵は江戸を脱走し、会津に赴いて徹底抗戦する。
旧歩兵奉行大鳥圭介が総監、司令官は会津藩士、秋月登之助(本名江上太郎)、配下に入った新選組から参謀役に土方歳三(以下土方)が就く。北上を開始すると小山から宇都宮、今市、大田原と、下野を中心に新政府軍と激しい攻防戦が繰り広げられた。戊辰戦争で敗走が続く旧幕府軍が一矢を報いたのが小山での戦いものであった。
小山宿で勝利した大鳥の軍は飯塚宿から鹿沼に向かった。
秋月登之助や土方らの部隊は鬼怒川の東岸の大沼(真岡市)浅瀬を伝って渡河し「満福寺」に宿泊する。この時の新選組隊士は土方以下島田魁、漢一郎、中島登、他総勢7人であった。
大鳥軍は本営を本陣をに置き、本陣前に敵将7名の首級を晒し高揚を図った。幕府に恩義ある旧譜代の彦根藩や館林、笠間、壬生藩など、新政府側に付き、旧幕府に刃向かうことが、大鳥には許せなかった。
国道265号線「小山宿通り」沿いに脇本陣のみ残す。

◇宇都宮城攻防戦
                   <再現された宇都宮城の櫓(やぐら)>

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旧幕府軍は宇都宮藩守った宇都宮城を攻撃した。簗瀬橋で田川を渡り城下の下河原門に殺到し、白兵戦が繰り広げられた。
土方は逃げ腰になった自軍の兵を斬り士気を鼓舞し、一日で城を落とした。
敗軍の報に新政府軍の薩長土連合の部隊が壬生城に集結し、宇都宮に襲来する。宇都宮城は奪還され再び新政府側に戻る。
土方は市街戦で足を負傷し、第一線から離れ、今市から、会津に向かう。
この間、土方は、八王子千人同心として日光勤番をしていた同郷の土方勇太郎を呼び寄せ、面会をしている。土方は涙を浮かべ、「宇都宮の戦いで逃げようとした兵を手撃ち、不憫なので日光で墓石の一つも建ててくれ」と頼んだと言われている。

◇安塚の戦い
                <激戦地、安塚に残される墓が僅かに残される>

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宇都宮城が新政府軍に奪還される前、姿川を挟んだ、安塚集落で両軍合わせ、8、90名の戦死者が出ている激戦があり連勝続きの旧幕府軍が破れる。この戦いに勢いを得た新政府軍が宇都宮を奪還する、大きな転換期を迎える安塚の戦いであった。
栃木街道の淀橋に近い場所で鬱蒼とした樹木を背後に「戊辰役戦死の墓」がある。
安塚村の農民が遺棄された34の旧幕府軍兵士の屍体を、拾い集め、葬り石碑を建てた。明治政府から埋葬許可を取るために新政府軍、旧幕府軍と合葬と偽った。明治6年以前に建てられ、風化が進み、崩れ落ちている初代の碑と明治13年(1880)の建立された二代目が並んでいる。

◇会津で斉藤一が指揮
土方は宇都宮を後に日光経由で会津入りする。医師の進めで、東山温泉の会津藩の共同湯にて治療に専念する。
土方は山口次郎こと斉藤一に新選組隊長を命じ、新選組は再編成され白河街道(現国道294号)から赤津、福良、三代、勢至堂峠を経て白河迄出陣する。新選組は会津藩兵に加わり白川城を護るが激戦後新政府軍に奪取され勢至堂峠近くの牧之内に退却し、会津へ道を引き返す。
会津若松の七日町の通りに歳三が宿営した清水屋はコンクリート建ての大東銀行に変わり、碑が当時の場所を伝えている。

◇会津城下天寧寺に退避
新選組を含めた旧幕府軍が母成峠が破れ、会津城下に退避する。新政府軍が猪苗代城下まで進出する中,新選組は城下の旅籠や天寧寺に駆け込んだ。近藤勇の処刑は何時しか会津に知らされ、土方の懇請によって松平容保から勇の法名「貫天院殿純忠誠義大居士」を授けたと言われている。土方は法名を刻んだ勇の墓を建立した。

◇白川口と小峰城
                   <一日で数百人が亡くなった激戦地の白川口>

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会津の前線基地でもあった白川の小峰城は新政府軍と旧幕府軍と一進一退を繰り返すが、新政府軍が奪還する。
奥羽越列藩同盟を結成し、小峰城は同盟軍のステータスであったが、落城は戊辰役の大きな転換点であった
5月1日、近代兵器の違いを持って700名の戦死者が出たが、その大半が東軍の死者であった。
津軽藩士で菊地央(たのむ)が新選組に入ったが、薩摩側に寝返りした。近藤勇が逮捕され、面通し、勇を確認通報した人物。央は津軽藩で射撃の名手で、攻めて来た時に斉藤一からの命令一発で仕留められ22歳の若さで亡くなった。

◇1カ月の籠城鶴ヶ城の攻防戦
               <生生しい弾痕跡を残す鶴ヶ城(現在修復)>

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鶴ヶ城を巡り、両軍多くの犠牲者を出しながら、戦い、新政府軍は鶴ヶ城を包囲した。新政府軍は10万人に及び城内に砲撃し、城内は2000人の犠牲を生み、残る兵士も3000人となってしまった。
一方の会津軍は弾薬、食料乏しく、疲労困憊に9月19日、「容保」ついに開城を決意し、 追手門に「降参」を大書した白旗を掲げられ戦いは終わった。
西郷頼母一族の自害し、銃弾の中薙刀で迎え撃つ中野竹子など、婦女子おも巻き込む悲惨な1カ月の籠城戦であった。

◇斉藤一、会津に残留し、蝦夷行きと訣別する。
            <弾痕跡も生々しい石塔、背後の赤い建屋が如来堂>

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新選組は母成峠継いで滝沢峠も新政府軍の手に落ち、8月23日会津若松城下に突入した。新選組は城への退却が最早不可能になり、塩川村に転進する。歳三は援軍を求め、大鳥圭介に新選組を預け、会津を離れた。
新選組は戦死者、離脱者が生れる中、斉藤一は大鳥圭介に旧幕府軍が仙台に向かわず、会津での玉砕を主張する。
「今落城せんとするを見て、志を捨て去る、誠義にあらず」と言って、同調する隊士と会津に残った。
斉藤をはじめ、久米部正親、池田七三郎、荒井破魔男ら13人の隊士と、合流した旧幕府軍の兵卒合わせて20人で越後街道沿いの如来堂にに本営を布陣した。新政府軍が攻めてきたが、敵に囲まれ、大半が戦死する。斉藤一他は如来堂をそれぞれ脱出し、降伏する。
石塔や地蔵さんに蜂の巣のように生生しい銃や砲弾の痕跡が、凄まじく、激しい戦いの跡が衝撃的であった。
戦いの様子をそっく、残し、後世に伝える如来堂鶴ヶ城籠城終了。
土方、配下の新選組は「大江丸」に乗船 蝦夷へ向かう。

<その3に続く>

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