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二つの奉納額

新選組でその名をとどめたのは天然理心流の剣術である。戊辰役などの戦いでは刀から銃に変わっていくが、剣術が普及する時代の象徴として、奉納額と言われる看板があった。

◇八坂神社奉納額
      <写真はその奉納額で八坂神社で保管され、特別な催し以外は非公開>

Tennen2401安政5年(1858)8月、日野宿の天然理心流一門によって、日野鎮守の八坂神社本殿南側の*?間(びかん)に大小二振りの木剣をかけた奉納額された。縦 50㎝ 横80㎝で欅(けやき)の一枚板で作られている。
冒頭に近藤周助、門人として佐藤彦五郎、井上源三郎ら17人、発起人として島崎勇を名乗った近藤勇、幼名愡次郎を名乗る沖田総司、総勢26人の名前が記入されている。

この奉納額は日野宿でも人目に付く神社に掲げ、日野宿における天然理心流の隆盛を誇示し、当地における剣術は一門でありと既得権を示す看板の役割でもあったようだ。門弟獲得の草刈り場にならないよう宣告し、他流派による進出を防いていた。
土方歳三は未だ名前を連ねていなかったが、この奉納額も目に触れ、当然刺激にもなり、翌安政6年3月、神文帳に名を連ね、正式に天然理心流の門下になる。
*母屋(もや)に指し掛けて作られた小屋根。またその下の部分

◇府中六所宮奉納額
万延元年(1859)9月に願主近藤周助で作られたと言われている。この時点で勇は宗家に襲名する前であった。奉納額は既に存在していない幻の奉納額である。
大きさは、富沢日記の完成予想図から縦330㎝ 横633㎝ 約13畳と言われるう巨大なものである。使用した材木は檜の糸柾(いとまさ)と言う目の細かいものである。
      <その巨大さを二つの奉納額で大きさを対比してみた>

左側は六所宮、右側が八坂神社である

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書かれた門人は約1200人と言われている。
奉納額の制作は相原村の名主であり、芝増上寺の山門に寄与したことから名字帯刀を許された青木勘次郎が担当した。青木は天然理心流二代目宗家の近藤三助の弟子で邸内には青木道場を持っている。多摩豪農のネットワークの一員であり、近藤周助、勇にも仕え天然理心流の有力な支援者の一人であった。

書は谷保村の本田覚庵が10日間六処宮に通って書いたが、完成間際では六処宮で徹夜になったと言われる位に、大変な作業であった。
八坂神社の奉納額は日野宿限定でその存在を表したが、六所宮は武州一円に広げ、その存在を誇示したものであった。
この奉納額は府中六所宮(現大国魂神社)に掲げられた。

<奉納額処分>
しかし、その巨大な奉納額は短命で処分されてしまった。
慶応4年(1868)3月、近藤勇は甲陽鎮撫隊を編成して甲州に目指すが勝沼で破れたことが府中に知らされた。奉納額は逆賊とされた近藤勇の名前が大きく書かれているので処分しなくてはならないと言うことで、板垣退助以下西軍が府中へ来る前に、慌てて下ろされ処分されてしまった。

勇は 流山で捕まり4月25日板橋で処刑されるが、勇が新選組に入る前、天然理心流の一門として名声を究めた象徴である巨大な奉納額も歴史の渦の中、消してしまうのである。
<今あるのは奉納額を支えた高さ55㎝の金剛力士座像の片われだけである。>

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