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かく戦えり、「真田一族」 その一

大河ドラマ「軍師勘兵衛」も何れ、関が原の戦いに山場を迎えるが、歴史旅で信州の上田、松代へ行った折りに天下取りに真田家が武将として同地方にどっかりと居すわっていた。その真田家を代表するヒーロの「真田昌幸」とその家族が皮肉にも関が原の戦いに東軍、西軍に分かれそれぞれ参加し、その結果が行く末に大きく影響した。

徳川との戦いに2度も制覇した真田家は関が原の戦い以降の顛末について、実にドラマッチクであり大変、興味を引いた。
ドラマで何処まで紹介されるか、判らないが、真田の上田と松代にまたがる、その顛末を整理してみた。

◇乱世に独立を図った真田
「真田昌幸」は「武田信玄」に属し「信玄」の卓越した陣法と民政を身に付けた一人であったといわれている。

信玄の子勝頼が「織田信長」によって滅ぼされてしまう。、その「信長」は本能寺で非業に死ぬと、武田の信州旧領は無主の国となり東海の徳川家康と小田原の北条がそれぞれ草刈り場のように兵を入れてきた。そんな背景の中、「昌幸」は千曲川流域に独立国を作ろうとした。「六文銭」「六連銭」の旗印が有効になったのはこの時からと言われている。
             <「六文銭」の幟が旗向く、背後は上田城跡>

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◇徳川襲来から守った上田城
天正11年(1583)「真田幸村」の父「昌幸」が上田城を築城した。当初から天守閣を持たない平城で現在は3つの隅櫓(すみやぐら)と石垣が本丸堀が残っている。石垣も少なく要塞兼備とは言えないが、周囲の河川や城下町を含めた全体が極めて秀れた構造で、圧倒的数の多い徳川軍を2度も追い払った戦国の名城である。

1)最初の戦勝
天正13年(1854)武田氏滅亡直後、「徳川家康」は「昌幸」に対し武田の旧領の沼田領の明け渡しを迫ったが父祖伝来の土地として断った。徳川軍は上田城で、矢玉を浴びせられ、神川まで敗走したが、複雑な城下町にも伏兵や罠が仕掛けられ、、増水した神川に流され多くの将兵が死亡した。攻め寄せた7千の徳川勢に対して2千の真田勢は巧妙な戦術で真田の死者40名余りに対し徳川方は1千数百名を出す大敗となった。

2)2回目の戦勝
慶長5年(1600)「徳川秀忠」率いる徳川本隊3万8千を中山道、それ以外を東海道に分けて西上し関が原の合戦に向かう途中再び、上田へ押し寄せた。
徳川の大軍を迎え討った真田勢は僅か2千5百ほどで「昌幸」は虚空蔵山(こくぞうさん)に伏兵を置いて「秀忠」本陣を急襲上田城の城兵が討って出て徳川軍は大混乱に陥った。「秀忠」は上田城攻略を諦め、抑えの将兵だけを残して中山道を西上したが木曽路の行軍に手間取り、関ヶ原合戦に遅参すると言う大きな失態を残した。

         <押し寄せる徳川方を2度も跳ね返した上田城跡>

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◇関が原の戦いで破れ、徳川配下に立場が逆転
父「昌幸」の妻は石田三成の妻と姉妹)と弟の信繁(妻が三成配下の武将大谷吉継の娘)は三成らの西軍に付いたのに対し、長男の信幸後の「昌幸」(徳川家康の養女を妻)は家康の東軍に参加し、親子が敵味方になり、徳川秀忠軍に属して上田城攻め(第二次上田合戦)に参加する。戦いの前に父の説得に赴いたが、結局失敗に終わったとされる。
関が原の戦いで「三成」が東軍に破れ、徳川の天下となる。
敵味方に分かれた真田家は豊臣方であった「昌幸」と子の「幸村」は紀州・高野山麓の九度山(くどやま)に流された。

「信之」は元和8年(1622年)10月、信濃国松代藩に加増移封され、13万石(沼田3万石は継承)の所領を得る。
関ヶ原の合戦にて、東軍が勝ったため、真田に散々痛めつけられ、遺恨のあった上田城は徳川軍に徹底的に破却され堀も埋められた。

<その二>に続く

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京都弾丸ツアー

           <「弾丸ツアー」、実現に高幡不動、五重の塔下、屯所へ集合>Image211

◇新選組縁の京へ
京都では佐幕派の人物を天誅として暗殺するなど、尊皇攘夷派の志士浪士の乱暴狼藉はやりたい放題で幕府も手を焼いていた。

京都の浪人を制圧するため、江戸の浪人を集めその任に尽かせようと、庄内藩の郷士清川八郎の献策が取り入れられた。
文久3年(1869)2月、こうして集められた浪人は300~350人と言われ、後の新選組の母体をなす近藤勇、土方歳三達も参加した。

浪士組234人と言われる大部隊は2月8日伝通院を出立し、中山道を進み、碓氷峠や木曽の山間、渓谷を越え135里(約527キロ)を16日間かけての長旅で京に到着する。
途中で「俺の泊まり場所が無い」と街道で火をつけ暴れまくった芹沢鴨を修めるのに三拝九拝するなど、一筋縄ではなっかた旅であった。

それから約150年、彼らが約半月かかった旅は約3時間弱で、結んでくれる近代交通が実現した。開業後、大きな事故もなく、世界の最先端を誇る超高速の新幹線で遠いかの地行きも気軽に行き来できる時代を迎えた。
そんなインフラを活用し、新選組の旗揚げとなる京に残された足跡を辿る事にした。
走馬灯のように、高速で移り行く車窓に、浪士組の旅姿を思い浮かべる暇もなく、あっと言う間の乗車時間で実現出来る。

◇身の丈で可能な1泊2日
参加した浪士組は
「浪人きたり候ときは、二人扶持(一人扶持は一日米五合の支給)に金十両、幕府より、下され、候よう承る・・・。」と幕府から支給されている。
150年後、観光を目的とする旅のため、当然、幕府からの扶持もなく、関わる費用は限られた小遣いを捻出し、充当しなければならない。
時は金なり、前述の高速化を実現した新幹線代が旅行費用に大きく重くのしかかる。稼ぐ当てもない身分で身の丈で、出来る贅沢は精々1泊2日の早出、遅着の称して「弾丸ツアー」なのである。

◇さてその行き先は
既に新選組の活動拠点となる代表的な場所は知識も浅く頼りない一人旅であったが、拠点は回り、悔いを残さず周り切れた。今回は地縁者も居り、何回も同地を訪れ土地勘を持つ、人など、心強い参加者も含め10数人の旅である。
折しもこの時期に東軍慰霊祭があり、連泊してそちらに繋げる参加者もいるが、主体はとんぼ返りである。学習院への攘夷決行の建白から、新選組と袂を分け東下した清川八郎組と同様で京を後にする。

一日目はこんな所)
「彦根城」
折しも大河ドラマ軍神黒田勘兵衛の戦国ロマンに寄せて「彦根城」を眺めるのも一計であろう。
「草津本陣」
本陣に携わる身分として、本陣建屋は気になる所。中山道と甲州街道の合流点で和宮の旅跡を残す下諏訪宿を見学したのは3年前であった。一連の本陣巡りに外せないのが、中山道と東海道の合流点である「草津本陣」であった。

同じ江戸巡りにここを分岐し和宮は中山道、篤姫は東海道を通り江戸城へ目指した。規模の大きい行列に、残された遺稿の姿を体が動くうちに確かめたい。

        <どうしても見たかった会津藩屯所金戒光明寺>

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二日目は新選組)
金戒光明寺ー壬生寺ー八木邸ー光縁寺ー島原・輪違屋・角屋など選ばれた。新選組の生い立ちから始まる活字では伝わらない生の舞台を確かめられればと代表的な一部であった。
道中、歳相応に歩きも不自由な参加者もあり、ジャンボタクシーに身を委ねる。

◇夢をかけ具体化
少数とはいえ、京の都へのグループ旅行。果たしてどんな史跡の巡り合わせが、生まれるか、夢膨らませながら、新選組縁の高幡不動の境内で打ち合わせを行った。
こうして知恵を絞り、生まれたのが上述の称して「弾丸コース」である。関わる時間設定と費用を積み上げ骨子は何とかまとまる。
集約後、「殉節両雄の碑」「歳三像」を前に京行きを告げ、旅の安寧祈願を祈った。
酷暑は避け、10月に実施する。

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甲州街道に残る本田家屋敷

               <甲州街道沿いにある本田家屋敷>Img_48991

甲州街道を江戸を起点に西に下り、府中宿、多摩川越えで日野宿に達する。
この多摩川を挟んで西側が日野宿、東側が谷保天満宮があり、近くの甲州街道沿いに本田家の屋敷がある。
現代では多摩地域と東京を通じる物流を担う輸送路の一つとして、激しく車両が行き交い
激しい粉塵や排気ガスに晒されながら、、時代が変わっても、尚、健気に屋敷が残っている。
□本田家
誉れ高い本田家は戦国時代からルーツが繋がるが、川越時代は四代将軍の馬の先生であったが、谷保に移ってから4代将軍には書を教えているなど、医者と書家で名を残している。

11代目本田覚庵は江戸に遊学、江戸の文化を吸収している。本業は医者であるが、書の作品を多数残し、とりわけ関東一と言われている砂川十番組の巨大な大幟は有名である。
覚庵は土方歳三の父親であるの義諄(よしあつ)の妹、「チカ」を嫁として迎えている。同じく姉妹の「マサ」は佐藤家へ嫁ぎ、本田家、土方家、佐藤家は親戚関係にある。
13代目本田定年は覚庵の2男で青春時代に幕末の乱世を迎えたことが定年の生涯を決定したと言われている。
そんな背景から本田家は11代目から縁者との繋がりから、江戸周辺の要人など、人脈が広がっていく。
日野の佐藤彦五郎、小野路の小島鹿之助らと交友があり、土方歳三と糟谷良順兄弟とは親戚関係にあり、天然理心流の近藤周助、勇とは剣術の仲間である。
広い交遊関係から勝海舟、高橋泥舟、山岡鉄舟など幕末の要人も同家に訪れている。

           <同家を迎い入れた山門>

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◇本田覚庵日記
本田家に残る文書で万延元年(1860)2月~文久3年(1863)12月まで連続するものである。医者であり、更に書家として有名な『覚庵』で広い人脈と交遊関係をもっている。同記録から、土方歳三は25歳から登場し、14回通い、内2回宿泊している。近藤勇は26歳から登場し、7回通い、内2回宿泊している。
その他、佐藤家から彦五郎、源之助、土方家から喜六や近藤周助、井上松五郎など通っており、几帳面に記録が残されて居る

◇日記から伝えるもの
1)剣術
土方歳三は書の手習いと同時に、近藤勇等共に谷保天神辺りでの剣術稽古で立ち寄ったものと思われる。
文久元年8月27日に勇の襲名試合である府中六社宮試合で覚庵は勇へ祝儀一分を贈っている覚庵は府中六社宮の神主である『猿渡』氏と大変深い付き合いがあり勇の襲名試合の開催を尽力された一人である。覚庵は六処宮での巨大な奉納額の書の作成に谷保村のが10日間六処宮に通って書いたが、完成間際では六処宮で徹夜になったと言われる位に、大変な作業であった。
2)医者として
医者としての姿土方歳三の兄である喜六は病気のため通い、覚庵も3日間連続往診に石田へ往診に着ており、その手厚い看護も叶わず万延元年(1860)9月4日亡くなっている。
覚庵は佐藤家にも度々訪れているが、文久元年(1861)11月8日石田の歳三病気に付き、日野佐藤家へ行くと記録されている。
歳三が大変な患いの身にありながら看護してもらえるのは既に喜六が亡くなった実家よりノブさんが頼りだったのか、歳三が佐藤家に寄りつく事実が明らかに判る

◇東山道軍通過の様子
勝沼の戦いで勝利した西軍の先鋒は信州高嶋諏訪因幡守で慶応4年(1869)3月12日通過、13日土州一行、14日因州勢が通行。15日には新宿に到着、大木戸に入った。
12日の通行の際、一行は高札場の棒杭を抜き取り高札を外し、後日、新たに書き換えたものに変えるから、是を懸けることはならないと厳重に言い置いていった。
抜き取り外された高札に代って「天朝御料 江川太郎左衛門 支配所」と大書されたものが掲示された。
その脇に「徳川慶喜の天下之形勢不徳止ヲ察し大政返上将軍職辞退」と記され、続けて朝廷が幕府にとって代わったと言う内容のことが書かれていた。4月4日その意を西の内紙に認め、高札場に張り出すようにとの江川役所から触れられた。

◇建物を前に
歳三や勇が足しげく通った本田家であった。
この本田家の前を意気揚々と東山道軍通過してゆく。時代の移り変わりを告げていくようで、その姿を建物は黙々と眺めていたのであろう。

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