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甲州街道に残る本田家屋敷

               <甲州街道沿いにある本田家屋敷>Img_48991

甲州街道を江戸を起点に西に下り、府中宿、多摩川越えで日野宿に達する。
この多摩川を挟んで西側が日野宿、東側が谷保天満宮があり、近くの甲州街道沿いに本田家の屋敷がある。
現代では多摩地域と東京を通じる物流を担う輸送路の一つとして、激しく車両が行き交い
激しい粉塵や排気ガスに晒されながら、、時代が変わっても、尚、健気に屋敷が残っている。
□本田家
誉れ高い本田家は戦国時代からルーツが繋がるが、川越時代は四代将軍の馬の先生であったが、谷保に移ってから4代将軍には書を教えているなど、医者と書家で名を残している。

11代目本田覚庵は江戸に遊学、江戸の文化を吸収している。本業は医者であるが、書の作品を多数残し、とりわけ関東一と言われている砂川十番組の巨大な大幟は有名である。
覚庵は土方歳三の父親であるの義諄(よしあつ)の妹、「チカ」を嫁として迎えている。同じく姉妹の「マサ」は佐藤家へ嫁ぎ、本田家、土方家、佐藤家は親戚関係にある。
13代目本田定年は覚庵の2男で青春時代に幕末の乱世を迎えたことが定年の生涯を決定したと言われている。
そんな背景から本田家は11代目から縁者との繋がりから、江戸周辺の要人など、人脈が広がっていく。
日野の佐藤彦五郎、小野路の小島鹿之助らと交友があり、土方歳三と糟谷良順兄弟とは親戚関係にあり、天然理心流の近藤周助、勇とは剣術の仲間である。
広い交遊関係から勝海舟、高橋泥舟、山岡鉄舟など幕末の要人も同家に訪れている。

           <同家を迎い入れた山門>

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◇本田覚庵日記
本田家に残る文書で万延元年(1860)2月~文久3年(1863)12月まで連続するものである。医者であり、更に書家として有名な『覚庵』で広い人脈と交遊関係をもっている。同記録から、土方歳三は25歳から登場し、14回通い、内2回宿泊している。近藤勇は26歳から登場し、7回通い、内2回宿泊している。
その他、佐藤家から彦五郎、源之助、土方家から喜六や近藤周助、井上松五郎など通っており、几帳面に記録が残されて居る

◇日記から伝えるもの
1)剣術
土方歳三は書の手習いと同時に、近藤勇等共に谷保天神辺りでの剣術稽古で立ち寄ったものと思われる。
文久元年8月27日に勇の襲名試合である府中六社宮試合で覚庵は勇へ祝儀一分を贈っている覚庵は府中六社宮の神主である『猿渡』氏と大変深い付き合いがあり勇の襲名試合の開催を尽力された一人である。覚庵は六処宮での巨大な奉納額の書の作成に谷保村のが10日間六処宮に通って書いたが、完成間際では六処宮で徹夜になったと言われる位に、大変な作業であった。
2)医者として
医者としての姿土方歳三の兄である喜六は病気のため通い、覚庵も3日間連続往診に石田へ往診に着ており、その手厚い看護も叶わず万延元年(1860)9月4日亡くなっている。
覚庵は佐藤家にも度々訪れているが、文久元年(1861)11月8日石田の歳三病気に付き、日野佐藤家へ行くと記録されている。
歳三が大変な患いの身にありながら看護してもらえるのは既に喜六が亡くなった実家よりノブさんが頼りだったのか、歳三が佐藤家に寄りつく事実が明らかに判る

◇東山道軍通過の様子
勝沼の戦いで勝利した西軍の先鋒は信州高嶋諏訪因幡守で慶応4年(1869)3月12日通過、13日土州一行、14日因州勢が通行。15日には新宿に到着、大木戸に入った。
12日の通行の際、一行は高札場の棒杭を抜き取り高札を外し、後日、新たに書き換えたものに変えるから、是を懸けることはならないと厳重に言い置いていった。
抜き取り外された高札に代って「天朝御料 江川太郎左衛門 支配所」と大書されたものが掲示された。
その脇に「徳川慶喜の天下之形勢不徳止ヲ察し大政返上将軍職辞退」と記され、続けて朝廷が幕府にとって代わったと言う内容のことが書かれていた。4月4日その意を西の内紙に認め、高札場に張り出すようにとの江川役所から触れられた。

◇建物を前に
歳三や勇が足しげく通った本田家であった。
この本田家の前を意気揚々と東山道軍通過してゆく。時代の移り変わりを告げていくようで、その姿を建物は黙々と眺めていたのであろう。

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