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日野宿本陣と三味線

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日野宿本陣や佐藤資料館に嵐や杏さんが来て,紹介される姿がTVで放映された。話題になり、新選組に無縁であった嵐フアンも含め、来館者も増えその影響の大きさを改めて、思い知らされた。
その紹介で三味線のおき台に関わり、誰が三味線を使ったか、と言う設問があった。

三味線で忘れてはならないのが土方為次郎である。「聞き書き新選組」から引用してみた。

◇土方為次郎
土方歳三の長兄為次郎は目の不自由なハンデイキャップを持っても、豪胆にして智略に富みかの近藤勇も彦五郎と三人が向かい合って座る鼎坐し、肝胆(心の底)から、相手の存在を引き立たされる間柄であった。
俺は目明きでであれば畳の上では死ねない。

つまり病気や老衰で家庭において死ぬことはないと言っていた。
青年時代は府中宿にて一夜の花を愛しての帰途、多摩川出水、渡船途絶に遇い、衣類を頭上に結びつけ、めくらめっぽう濁流に飛び込み、抜き手を切って、生家所在の石田に泳ぎ着いたと言う。
そんな猛勇の為次郎も雷嫌いで、少しでも遠雷が聞こえ始めると、好きな酒杯をあおって高いびきで寝入ってしまった。
浄瑠璃義太夫に堪能であった。

◇三味線の道具の買いつけから生まれた歳三の許嫁
戸塚村に佐藤家遠縁の親戚『糸竹』と言われる三味線屋があり於琴と言うこの家の一人
娘が土地評判の万年小町である。
片手間商売の三味線屋も製作は主人の腕で、店先の客受けから三味線の調子調べ、性能を最大に発揮する、ひと節音締めは於琴しか出来ない大事な役回りであった。

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為次郎が浄瑠璃道楽、撥(ばち(銀杏の葉の形をし、弦を引っ掛けて離す小道具))、駒糸(こまいと)や三味線の買いつけはこの家であった。
目を患う人物が聞き探った美音の美人で、長唄は既に杵屋の名取り、太棹(棹の太さによって3種に分けたうちの最も太いもの。胴も大きく、また弦も太い。義太夫節などに用いられる)を執っても中々聴けた と言う。

為次郎の三味線が縁で、歳三も看板娘に出会いが生まれ、気を引かれた。
新選組副長となった歳三は暇を求めて帰郷し、立身出世して、故郷に錦をかざることを済まし江戸に帰る途中で戸塚村へ寄った。
為次郎がら聴いた話に佐藤彦五郎は『糸竹』に運び、歳三の縁談として於琴を迎い入れる話を進め挙式の段階迄となった。しかし、肝心の歳三は

「天下多事、何か一事業を遂げて名を挙げたい。暫く、自由にしておいてくれ」と言うことで、此処は許嫁とした。
しかし、そんなご縁も、実らぬまま、 歳三は戊辰役で北の地で散ってしまう。

◇佐藤家でも起居した為次郎
慶応4年(1863)の3月、甲陽鎮撫隊として近藤勇以下新選組隊士が江戸で急遽編成し、甲府へ目指す。日野宿佐藤邸で一行を迎い入れる一人が為次郎であった。
為次郎は生涯独身で石田村の生家と佐藤家で起居を相半ばしていた。
義弟の彦五郎や歳三が剣道に打ち込んでいるのが羨ましく、目が不自由の身では慰めがてら浄瑠璃稽古始めた。

甲陽鎮撫隊一行が佐藤家を出発するおり、式台から見送っている。

勝沼戦争で甲陽鎮撫隊を破った新政府軍は甲陽鎮撫隊を駆逐し甲州街道を東に上り、11日八王子に到着した。
佐藤家も彦五郎以下家族はそれぞれ、各地に逃避した。
佐藤家は留守居役の日野義順と井上忠左衛門は捕らえ無理に連れられていく、為次郎
は目が不自由であることから拘引は許された。
とあるように当日、為次郎は佐藤家に居た。

◇響きわたる唄

        <居間に掲げられた三味線>

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「東路に、ここも名高き、沼津の里♪♪。」

で始まる 「沼津の段」が最も十八番で三味線を主とし、その撥(ばち)裁きは実に堪能なものであった。
そんな撥裁きに自慢の喉から生まれる、練り上げられた為次郎の浄瑠璃が佐藤邸から
朗々と響き渡ったのであろう。
浄瑠璃に全く無縁であるが、その一節だけでも聴いてみたい。

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かく戦えり、「真田一族」 その二

かく戦えり、「真田一族」 その一 より

             <松代城跡>

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◇)転封された「信之」の抵抗
徳川秀忠は関ヶ原の戦いを前に、真田父弟らの戦闘で遅参したことや、大坂の陣におい真田軍を苦しめたことから「信之」は「秀忠」に睨まれることが多く、そのために献身的に幕府の公役を務めたといわれる。松代への移封は加増されているとは言え「秀忠」の嫌がらせの一つとされている。

「信之」は温厚な人物だったといわれるが、屈辱的な松代移封には不服を持ち、検地資料などの重要書類を焼き捨てた上でさらに上田城の植木や燈籠などを全て引き抜き、持ち去ったと言われる。
松代へ移封した後「信之」は倹約しながらも、九度山へ配流された父弟にも生活が困らぬよう自費で生活援助を行っていた。
「信之」が松代へ移封になった時、父の形見として、本丸の石垣の、高さが2.5m、幅が3mもある「真田石」持って行こうとしたが動かぬ巨大石に諦めたと言われている。

◇信濃の雄藩として引き継がれる
真田氏が上田より松代に移藩してから廃藩までの10代250年間、殖産を興し文武をすすめ、その治政に見るべきものがあった。安政2年(1855)に「文武両道」を目指す にふさわしい文武学校が開校し多くの人材を輩出し、近代日本の発展に大きく寄与した。
明治維新の際、当藩は比較的早くから倒幕で藩論が一致し、戊辰戦争には新政府軍に参加した。明治4年(1871年)廃藩置県により松代県となり、その後、長野県に編入された。

◇真田の名声
1)「司馬遼太郎」も絶賛する「真田昌幸」
上田城を造ったのは「真田昌幸」であるが、「昌幸」を時代を越えたヒーロとしていまだに地元に根強く慕われているのは何故であろうか。「司馬遼太郎」は上田に訪れ、「街道を行く」で「真田昌幸」を「司馬遼」流の独特の表現で以下のように絶賛している。
「昌幸」が近隣の家康嫌いで、その勢力を牽制して貰うこともあって上方の豊臣方と手を組む。秀吉の死後も情勢の変化に流されず亡き秀吉に忠実であったことは律儀者の信州人に好まれるところであろう。関が原の前後に「石田三成」と締盟し、勢力拡大を図ったが「三成」が破れ徳川の天下になり、「昌幸」と子の「幸村」は紀州・高野山麓の九度山(くどやま)に流された。
「昌幸」の場合は知能的に最も優れているといっていい。かれは義経や正成と同様、政略や調略を用いて敵を腐敗させたり、利を与えて敵の有力者を寝返らせたりするような手を用いず、徹底的に軍事的でその巧緻さはそれを芸術的に楽しんでいるのではないかと思わせるほどであった。このあたりも、代表的信州人という印象を後世にまであたえる由縁である。

2)真田赤備え兜

             <赤備え兜>

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二度に亘り徳川の大軍の攻撃を退けた真田の「智勇」は天下に響き大阪夏の陣において武具を赤で統一し「真田赤備え」部隊を率いた真田幸村が被った朱色で鹿角型の兜が「赤備え兜」である。幸村公は「愛」と「義」の捨て身の活躍で「日本一(ひのもといち)の兵(つわもの)」と称された。自ら信じる道を民とともに歩んだ真田一族の熱き「和」と「仁」の心、真田魂が宿る真田杉の切り株を「赤備え兜」がお守りしている。 ・・・「真田神社奉賛会」
輝き、鮮やかな真っ赤な色は大変目立ち、人々の燃える血に闘争心が植えつけられる。

その姿は現代でもスタンドを埋めつくす某球団の、チームカラーが目に焼きつく。「赤ヘル」はすでに戦国乱世の時代「赤備え兜」で先陣をきっていた。

3)六文銭
                <真田家の式台で掲げられる、六文銭の幟>

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六文銭の旗はかっての海野氏が用い、真田が継承した。千曲川沿いの豪族、郷士、農民達は海野氏の後裔と信じているために、この旗のもとに集まる習慣を持っている。千曲川統合のステータスシンボルとして六文銭が人々の心に強い結束力が自然と沸いてくるのであろう 。
六文銭は正確には六連銭(これは六道銭からきている)と言われる。

専門的になるが「六道」とは、仏教において命あるものは迷いの世界で現世とあの世の境界を繰り返すことを輪廻転生と言われている。その輪廻する迷いの世界が六道と言われ地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天の6つの世界のことを言う。
この六道に苦しみを救ってくれる仏様が寺や街角で見かける「六地蔵」である。
我々が住む、近隣にあるお寺の境内にはこの六地蔵があり、街道筋にも見かけられ身近な所に鎮座されている。
死後の最初の行き先であろう六道に銭を持たせれば清く成仏できるだろうと、「六道銭」ができたようである。
信濃の名族滋野氏の流れの海野氏から生れ、その支流の真田氏が戦国武将で使われ真田の六連銭で有名となった。三途の川は地獄道・畜生道・餓鬼道を表す様で、六道銭を持たせれば戻る場合も安心なのであろう。

現世を振り返り、散々悪行を繰り返し、何とか生き延びたが、そろそろお迎えの時期に、六道銭の備えもしなければと思い立つのである。

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