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井伊直弼の青春期を過ごした「埋木舎」

35万石の城下、江州彦根で井伊直弼の青春期に過ごした空間を訪ねてみた。
紹介する前提となる直弼が関わった事件を整理してみる。

◇「安政の大獄」
ペリー来航で開国を迫り、強力な武力を背景に、威嚇砲撃で江戸市民始め、国内を恐怖に陥れた。開国か攘夷か騒然たる世論の波に幕府の基盤も揺るぎだした。
安政5年(1858)4月、大老になった直弼は大老の職権のもと紀伊慶福を将軍経嗣と定め、一橋慶喜を押す水戸成彬らと激しい対立する。さらに勅許も持たずに独断でアメリカと修好条約を結んでしまう。
これに反発し、「直弼専横」を叫ぶ非難の声が渦巻き水戸藩など尊攘派志士を煽り立て、京では反幕運動が起こる。
幕府の体制維持のために、直弼は大老としての使命感から力で弾圧し、切腹、死罪、獄門など極刑は8人にわたり、連座する者女子供含め100余人もの大量処刑が行われ「安政の大獄」と言われている。以来、直弼は、執行した幕閣としてダーテイなイメージを背負いこんでしまった。
◇「桜田門外の変」
安政7年(1860)3月、大雪の中、行列が桜田門にさしかかったおり、水戸主体の浪士の集団が襲撃し、大老井伊直弼の首が落とされた。
当該ホームページで  桜田門外の変   を紹介している。

明治維新後も横浜開港の功績から、直弼の銅像が建てられたが、安政の大獄の犠牲者の吉田松陰を信奉する人物の怨念から、銅像の首を落された。
当該ホームページで  横浜開港と攘夷活動 を紹介している。

□青春期を過ごした「埋木舎」
<大久保家は彦根初代藩主井伊直政以来井伊家を側近として維新まで支え、維新後「埋木舎」は井伊家から大久保家に贈与された>

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直弼は文化12年(1815)、彦根城11代藩主直中の14男として誕生する。両親を失い、17歳で300俵の捨扶持(すてぶち)で城下の屋敷の部屋住みに入る。『世の中をよそに見つつも 埋もれ木の埋もれておらむ 心なき身は』世に出ることなく、埋もれ木のように扶持果てる己の運命に託して、この住まいを「埋木舎」と名付けている。
14男と言う重い宿命にとても藩主の見込みはなく、養子も、持参金持ちなら未だしも、そんな資産もなく、不成功で終わってしまう。悶々と一生埋もれてしまうのであろうかと言う正直な気持ちでの「埋木舎」とも思える。
しかし、直弼は彦根の清涼寺で座禅を続けるかたわら、茶道・和歌・能・謡曲は達人の域に国学・書・陶芸の他剣道・柔術・馬術・弓術など文武両道の修練を一日僅か4時間の睡眠で励んだ。
直弼は幕閣としての重要なポストである大老職は横死するまで僅か2年余りであった。抜擢されまで、直弼の人格形成に15年間、幅広く、研鑽し励んでいる。
      <直弼の人間形成に重要な役割を果たした空間>

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◇茶道
     <一期(一生)に一度だけしかない出会いを大切にしようとする茶の湯の名言が井伊直弼の「茶湯一会集」から生まれている>

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茶道は埋木舎に茶室を建て茶の湯の研鑽を続けに「入門記」を著し、自ら学んだ見識から石州流の一派を宣言する。生涯における直弼の茶名は「宗顔」とも「無根水」とも号す。
46年の生涯でもっとも愛したのは茶の湯で当代随一の人物共言われている
既に非業の最期を予見したのか戒名まで準備しており、本人の意志として、この茶名「宗顔」が使われているところに拘りをもっている。

◇居合術
居合術は「新心新流」を創設し「勝を保つためには滅多に刀を抜いてはならぬ」いって「保剣」としている。こうした武術の備えながら「桜田門外の変」では駕籠の中で、最早これまでと、自分の死を予見していたように、討たれている。

□何故このような執行に駆り立てられたのであろうか
埋木舎時代に文武両道、茶道・和歌・能・謡曲は達人の域に達した人物が、暴挙とも思える行動に駆り立てられた のであろうか。
直弼は中でも茶を愛し、研鑽続け、お茶を通じて、誰の話でも聞けると言う「一期一会」を残している。しかし、いざ大老という要職に付いたときに取り巻きに優秀なブレーンが居らず、独断先行で走った。大老として、政治的な修養はないまま、いきなり政治的な表舞台に立たされこうした結果が生まれたのではなかろうか・・・。
個人的な修養はあっても、必ずしも政治的力量に繋がらないのは現代でも、同じで、民意を裏切られる。

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玉川上水の偉業を伝えた「殉節両雄之碑」

先人が残した偉大な遺産の一つ玉川上水を小平監視所から上流に向かって、多摩都市モノレールの玉川上水駅まで歩いてしまった。元々目標もない気ままな散策、豊かな水流と川沿いに残された木立の自然に魅せられ約2時間歩いてしまった。

周りは閑静な住宅、学校、所々に、散策に、休憩で訪れる客用に飾りのない自然に同化した喫茶店が、散在する。都市開発が進む中、首都圏に繋がる、この長い巨大な水路が、自然が護られているのも、特異な場所である。

     <周りは鬱蒼とした樹木の中、満々とした水量が勢い良く流れる。これが約400年の生きた遺産に触れる事ができる>

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   <荒々しい、土壁の開水路、階段を降りると玉川用水の深部まで降りることもできる。自然の冷気がなんとも心地良い>

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上水沿いには桜の木が多く植えられ、江戸期から戦前にかけて多くの花見客で賑わう「小金井の桜」は大正13年に国の名勝に指定されている。花見客に堤を踏み固めてもらうのも、あったようである。
玉川上水は、かつて江戸市中へ飲料水を供給していた、江戸の六上水の一つである。多摩川の羽村から四谷までの全長43kmが翌承応2年(1653)に築かれた。一部区間は、未だ現役として東京都水道局で活用されているところが凄い。

◇こんな遺産は誰の手から生まれたのであろうか
                          <保科 正之像>

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江戸時代初期の大名、陸奥会津藩初代藩主『保科 正之』である。「会津藩たるは将軍家を守護すべきと」遺訓を残し忠実に守ったのが、幕末で馴染みの藩主・松平容保であり、佐幕派の中心的存在として最後まで薩長軍と戦った。

正之は藩政にも力を注ぎ、産業の育成と飢饉時の貧農・窮民の救済、藩士の子弟教育などに尽力、同時代の水戸藩主徳川光圀、岡山藩主池田光政と並び江戸初期の三名君と賞されている。
4代将軍家綱の輔佐役として支え、玉川上水を開削し江戸市民の飲用水の安定供給に貢献している。
当時、江戸開府で人口増加に水不足が深刻であった。
当時の作事奉行が武州羽村から水路を堀り、多摩川の水を引くと提案した。この提案に幕閣、井伊直孝が防衛上の理由から反対したが、正之は「江戸城は天下の府城、その天下は民あってのこと・・・」と説いて玉川上水を開削させたのである。
其処に住む民の立場で問題を吸い上げ、今日の大都市となる、インフラを整備する先見性と手腕にこんな所でも、改めて名君と言われる由縁と納得する。

◇「殉節両雄之碑」にも、こんなことが書かれている
                        <高幡不動にある「殉節両雄之碑」>

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高幡不動にある「殉節両雄之碑」は元より幕府のために戦い散っていった近藤勇と土方歳三の両雄を讃える碑であるが、碑文の冒頭に玉川上水により、両雄が、産れ、育ったと紹介されている。
「殉節両雄之碑」と玉川上水との意外な結びつきに驚きを隠し得ない。
碑文は小野路村の小島為政が詩した「両雄士伝」をもとに仙台藩の儒者大槻盤渓が撰文し、篆額はは会津の松平容保、書は幕府典医の松本順の筆である。

(本文意訳)
冒頭からこんな話から始まる
「多摩川はその源を武州と甲州の境に発して東へ流れ、青梅郷のいくつかの村を過ぎて、川の勢いは次第に速く水は清らかで美味である。
その昔幕府が羽村に上水用の堰(せき)を設け、その水をはるか江戸まで引いて百万の人々の生活に役立たせたが、それは大変立派な事業であった。
そして人並み優れた素晴らしい男である近藤昌宣と土方義豊は、またその多摩川の両岸の生まれである。・・・」

玉川上水の偉業、碑文を撰文した仙台藩の儒者大槻盤渓が、書き伝えたかった大事なことなのであろう。

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勝沼戦争を追う(その2)

◇いよいよ戦場付近に近づく A
大善寺より更に東側、甲州街道は緩斜面を上りきり山間部に入る。
正面の小高い山の手前で道が分岐し、県道217号深沢等々力線に繋がり、渓谷に入っていく。
車が数台並んで走っているが、分岐点付近で深沢入口の標識がもう直ぐの所である。
北側に柏尾山、甲州街道の沿いの南側にほぼ並行して日川(にっかわ)が流れる。この日川を挟んで南側、道を挟んで右側は岩崎山の裾野である。
沢が流れる、深い峡谷で街道とは名ばかりで人馬のすれ違いもままならぬ山道がくねくねと続いている場所に官軍と甲陽鎮撫隊が対座する陣形が敷かれた。
甲陽鎮撫隊は甲州勝沼柏尾山の東側に位置し、沢を前にした渓谷で、大砲2門を中心に、銃隊が周辺に配置し、陣取り、東下する官軍を向かえ撃った。
その陣形に沢を挟んで反対側に官軍の主力である土州・因州隊が正面から向き合う。
この間地図によると30間と言われるので僅か5~60mの鼻の先まで迫っての戦いであったと想像する。
一方、日川の南側の岩崎山の中腹から渓谷を見下ろせる位置から諏訪兵が 、甲陽鎮撫隊の側面から挟撃する。
他の土州藩の一隊は谷新兵衛が率い北方菱山(現ブドウ郷駅側)を迂回し深澤部落から敵の背後を衝かせる事に行動を開始した。

◇戦闘場所へ

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深沢入口の分岐点に到着する。
左側が県道217号深沢等々力線で、正面に続く道が甲州街道である。角の部分が小さな広場になっており、小さな刀を下げた可愛い近藤勇の全身像が立ち、勝沼戦争の拠点であったことを案内している。
鳥羽伏見の戦いで幕軍は破れたとは言え、京の街を見回り、不貞浪士からも、震え上がらせ治安維持に活躍した。会津藩からも評価され、会津藩お抱えの新選組の局長に、似つかわぬ、軽い風体の像であった。

◇ぶどう畑に立つ会津藩士の墓碑

Image111111分岐点から県道217号深沢等々力線を先に進むとぶどう畑があり、中に会津藩士の柴田八郎兼吉の墓碑がある。
官軍側で因州藩士で名うての鉄砲の名手木村伊助はぶどう畑の囲みから飛び出し、幕軍陣地に狙い撃ちした。
それに呼応するように、会津藩士の柴田市朗(八郎墓碑)が飛び出し、大善寺の東門に身を寄せて共に撃ちあった。
柴田と木村は共に傷つきながらも撃ちあったが、無防備で標的になり、幕軍は木村に官軍は柴田に銃口を向けて一斉に撃ちだしたので柴田は胸を木村は腹を射抜かれ共に戦死した。
戦後木村の遺体は勝沼上宿の常行寺に埋葬しようとしたが住職が後難を恐れて承知しなかったので下宿の護念寺に五両収めて葬った。柴田の遺体は大善寺住職が白山渡馬頭観世音の碑のある敷間北方舊(きゅう)甲州街道に沿った樹影に埋葬した。今も墓碑は残っている。
そんな話が地元の生き残りから聞き書きとして、残されている。

◇三方から攻められ幕軍敗退
幕軍は遠路はるばる運んだ大砲2門も、大砲を操作出来る者が居なく、打った所で不発弾で、殆ど役立たずであったようだ。これに対する官軍側の大砲も余り役立たず、両軍とも火砲の出番はなかった。
放置された不発弾は周辺に散乱し、一部は地元の人が持ち去り床の間に飾られた。
正面勝沼の関門に谷千城の部隊が現れ、発砲する。
障害物がない柏尾橋は格好の標的になり迂回しブドウ棚の中に散開し、鉄砲弾で攻めたてた。
南方岩崎山は数に物言わせて諏訪兵が幕軍を圧倒し、岩崎山を奪取した官軍は更に進んで日川の渓谷を渡り柏尾の陣地を側面から一斉射撃を開始し衝いてくる。
谷新兵衛が率いる土州藩は迂回し深澤部落から幕軍の背後から衝いてくる。
幕軍は数で圧倒する官軍に三方から挟撃され、遂に此処から退却し、再び甲州街道を東に江戸に向かった。
幕軍は人家に火を放ち、 黒煙は当初西軍を悩ましたが、風向きが変わり、鎮撫隊側に吹き上げ、目もあけられぬ状態になった。


◇謎の池田七三郎の墓碑

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日川の渓谷を越え、岩崎山の狐原と言われる山中に幕府軍兵士として池田七三郎の墓碑がある。人里離れた山の傾斜地に歴史研究家、釣洋一先生にツアー旅行で案内していただいた。『明治元年三月六日柏尾の役で官軍と戦い戦死した幕府軍兵士』とある。
新選組在籍中の名を池田七三郎と名乗った稗田利八と言う人物が居るが、戊辰役では箱館まで戦っている。池田七三郎を名乗るが、新選組とは別の人物か、この山中で亡くなった人物は果たして誰なのか謎に包まれている。

◇最後に
勝沼戦争に関する史実や、土地の呼称はベールに包まれたままである。
冒頭、勝沼の戦場近くに知友いることは紹介しているが、この知友を通じて事実のギャップを埋めるのは難しかった。拝が思うほど同卿における、冷めた事件だったのかもしれない。

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勝沼戦争を追う(その1)

甲州市の勝沼にはブドウ園を持つ知友がおり、毎年収穫を迎える時期に招かれ熟成したブドウを頂きにお邪魔する。知友宅は勝沼戦争の戦場から数百メートルの近くにある。
一方、勝沼ブドウ卿駅の近くに産業遺産となった旧大日陰トンネルもあって、鉄ちゃん心をくすぐる。そんなこともあって、関わり合いの深い勝沼には良く来る。

山梨を御坂山地と大菩薩嶺を境とした東西に分け、西半分の甲府盆地を中心とする地域を「国中」と言い、東半分の相模川と多摩川の上流域および富士山北麓や大月市などの地域を「郡内」と言う。
都心と甲府を結ぶ大事な流通経路の甲州路にある笹子トンネルがあり、このトンネル挟んで東を「郡内」、西を「国中」と言っても良いのではなかろうか。
単に地域の呼称を東西に分けただけならば、何処にもありそうな話であるが、両者は方言など、自然や文化においても大きく異なっている。
「国中」と「郡内」には生活習慣、その他もろもろ違いがあり、両者の間には県内の山より高い壁が存在し、競いあっているようにも見える。
互いのライバル意識から、両者が同席する宴席等で酒の勢いで、高揚すると激突する場面に第三者として居合わす我々も戸惑う場面さえある。
在職時代に同じ職場で近隣に住むが、出身は故郷山梨の「国中」と「郡内」である。職場の宴会で、宴も盛り上がって来ると、「おい、国中」「なんだ郡内」と始まる。
二人は、職場でも地位を持ち、社会的にも信頼される真面目人間であるが、一方では悪しき伝習の郷土愛が、こんな形で奮発してしまうのである。

そんな「郡内」からやってきた新選組は「国中」の勝沼で戦ったのである。

◇新選組と新政府軍が戦った

慶応4年(1868)3月、大久保大和(剛)こと近藤勇が率いる甲陽鎮撫隊が「郡内」から「国中」に抜けて、勝沼にやってきた。元々、甲府行きを目指したが、甲府城は既に江戸城を目指す土佐軍に落とされ、勝沼で陣を構え、新政府軍と一戦を交えた。

◇明日の戦いに備え篝火を焚く

甲陽鎮撫隊の幕軍は4日に勝沼に到着する
4日の夜の勝沼付近の一帯は戒厳令が布かれ抜き身の見張り兵が各入り口を固めていた。
当時、近くに住む住民の幼少時代に見た戦慄的な状況を以下の様に語り伝えている。
甲州道沿い勝沼に隣接する等々力の万福寺(甲州市勝沼町等々力)境内では抜き身の刀を掲げた侍が五六人飛び出してきたので、そのまま震え上がって逃げ帰ったと言う。

幕軍は各戸口を固めると共に、幕軍の命令で、応分な報酬を与えると人夫をかき出し篝火を炊かした。
この幕軍のと触れに町民は時ならぬ収入に、大した金儲けが出来ると乗り、我先に本陣に殺到し隊士の云う通りドンドン燃やしたものであった。

この篝火は、戦時陣容を外部に示し、攻め入る官軍に視覚の面から攪乱させるともに併せ、迎え撃つ側が不意に襲撃されないよう人数が少ない幕軍の偽装工作であった。
甲州街道を東下する官軍に対して篝火は甲州街道に接する等々力から南の祝(いわい)から北方面の高台の菱山方面まで峰と宿は焚かれた。

甲府盆地を俯瞰する高台からの篝火は官軍を威圧する効果を狙ったようであるが、甲府の町民はこれを見て幕軍の大部隊の攻勢から明日の甲府での戦争を恐れた。

<勝沼ブドウ卿駅付近から、甲府盆地を俯瞰する。遥か甲府盆地から篝火が人々の心も
揺らしたのであろう>

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◇官軍勝沼に襲来

東西に甲州街道が走り、甲府から勝沼に結ばれる。
官軍の大部は甲府城に守り 、前進したのは 正面に『谷守部(千城)』が隊長で山地忠七が副長で土州、因州 の兵500人である。
土州兵は土佐藩士でなく、土佐の郷士で組織された「迅衝隊(じんしょうたい)と言う草莽部隊であった。寄せ集めでなく土佐の板垣の指揮のもと正規のオランダ式戦闘訓練された集団であった。

その官軍は勝沼宿本陣前を駆け抜け柏尾山付近で陣を構える幕軍に向かう。現在、勝沼宿本陣跡には「本陣槍掛の松」と言われ、大名や公家が泊まると目印に槍を立てかけた老松が、往時の姿を僅かに残している。
<この老松が目の前を通りすぎる一連の部隊を眺め、変わり行く時代の変化を見守っている。街道の先方が官軍がやってきた甲府側>

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◇大善寺を戦火から護る

甲州街道を更に東進すると、左側に大善寺、背後の山裾が見えるが柏尾山である。
戦時前に勇は柏尾山大善寺住職箕出行守から面談受け、住職から伝来からの寺の遺産を守りたく戦場から外すよう懇願される。
間もなく官軍が襲来する。戦時に官軍は圧倒的な数の編成から、土州軍の一部の部隊は北方菱山を迂回し、柏尾山へ展開する。

柏尾山の高所から俯瞰する位置から、幕軍の陣地をめがけて撃ち下ろした。苦戦に陥ったが勇側は柏尾山の官軍には応戦を控え、寺を戦火から護った。
<付近の民家は火が放たれたが、大善寺は火から護られた。街道に大善寺があり、その背後が柏尾山>

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戦場の様子は次回(その2)に掲載する。

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