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玉川上水の偉業を伝えた「殉節両雄之碑」

先人が残した偉大な遺産の一つ玉川上水を小平監視所から上流に向かって、多摩都市モノレールの玉川上水駅まで歩いてしまった。元々目標もない気ままな散策、豊かな水流と川沿いに残された木立の自然に魅せられ約2時間歩いてしまった。

周りは閑静な住宅、学校、所々に、散策に、休憩で訪れる客用に飾りのない自然に同化した喫茶店が、散在する。都市開発が進む中、首都圏に繋がる、この長い巨大な水路が、自然が護られているのも、特異な場所である。

     <周りは鬱蒼とした樹木の中、満々とした水量が勢い良く流れる。これが約400年の生きた遺産に触れる事ができる>

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   <荒々しい、土壁の開水路、階段を降りると玉川用水の深部まで降りることもできる。自然の冷気がなんとも心地良い>

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上水沿いには桜の木が多く植えられ、江戸期から戦前にかけて多くの花見客で賑わう「小金井の桜」は大正13年に国の名勝に指定されている。花見客に堤を踏み固めてもらうのも、あったようである。
玉川上水は、かつて江戸市中へ飲料水を供給していた、江戸の六上水の一つである。多摩川の羽村から四谷までの全長43kmが翌承応2年(1653)に築かれた。一部区間は、未だ現役として東京都水道局で活用されているところが凄い。

◇こんな遺産は誰の手から生まれたのであろうか
                          <保科 正之像>

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江戸時代初期の大名、陸奥会津藩初代藩主『保科 正之』である。「会津藩たるは将軍家を守護すべきと」遺訓を残し忠実に守ったのが、幕末で馴染みの藩主・松平容保であり、佐幕派の中心的存在として最後まで薩長軍と戦った。

正之は藩政にも力を注ぎ、産業の育成と飢饉時の貧農・窮民の救済、藩士の子弟教育などに尽力、同時代の水戸藩主徳川光圀、岡山藩主池田光政と並び江戸初期の三名君と賞されている。
4代将軍家綱の輔佐役として支え、玉川上水を開削し江戸市民の飲用水の安定供給に貢献している。
当時、江戸開府で人口増加に水不足が深刻であった。
当時の作事奉行が武州羽村から水路を堀り、多摩川の水を引くと提案した。この提案に幕閣、井伊直孝が防衛上の理由から反対したが、正之は「江戸城は天下の府城、その天下は民あってのこと・・・」と説いて玉川上水を開削させたのである。
其処に住む民の立場で問題を吸い上げ、今日の大都市となる、インフラを整備する先見性と手腕にこんな所でも、改めて名君と言われる由縁と納得する。

◇「殉節両雄之碑」にも、こんなことが書かれている
                        <高幡不動にある「殉節両雄之碑」>

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高幡不動にある「殉節両雄之碑」は元より幕府のために戦い散っていった近藤勇と土方歳三の両雄を讃える碑であるが、碑文の冒頭に玉川上水により、両雄が、産れ、育ったと紹介されている。
「殉節両雄之碑」と玉川上水との意外な結びつきに驚きを隠し得ない。
碑文は小野路村の小島為政が詩した「両雄士伝」をもとに仙台藩の儒者大槻盤渓が撰文し、篆額はは会津の松平容保、書は幕府典医の松本順の筆である。

(本文意訳)
冒頭からこんな話から始まる
「多摩川はその源を武州と甲州の境に発して東へ流れ、青梅郷のいくつかの村を過ぎて、川の勢いは次第に速く水は清らかで美味である。
その昔幕府が羽村に上水用の堰(せき)を設け、その水をはるか江戸まで引いて百万の人々の生活に役立たせたが、それは大変立派な事業であった。
そして人並み優れた素晴らしい男である近藤昌宣と土方義豊は、またその多摩川の両岸の生まれである。・・・」

玉川上水の偉業、碑文を撰文した仙台藩の儒者大槻盤渓が、書き伝えたかった大事なことなのであろう。

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