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「壺伊勢屋事件」で犠牲となった日野剣士「山崎兼助」

壺伊勢屋事件」で犠牲となった日野剣士「山崎兼助」の幻の墓石が見つかった
これまでのブログ記事を含め追ってみた。
◇2011年4月29日のブログ記事
大捕り物騒動、「壺伊勢屋事件」
大政奉還後、益々勢いを得た薩長はその矛先を倒幕に向けて動き出す。
西郷隆盛は「江戸の薩摩屋敷を根城に薩摩浪士隊は江戸の周辺地で騒動を起こして幕府勢力の分散化を図り、京都方面での討幕派の計画を支援し援護する。幕府を挑発して討幕の口実を得る」と言う事であった。
薩摩藩江戸屋敷で益満休之助を中心に、各地から脱藩浪士を集め幕府の関東地を動乱に陥れるべく画策していた。
上田務以下同志4人が甲府城を乗っ取る心つもりで三田の薩摩藩邸を出立し、甲州街道を甲府に向かう。一行浪人が上布田で宿泊後、八王子宿に入り、妓楼「柳瀬屋」と「壺伊勢屋」に入宿する。
浪士を取り押さえる幕府側は人数を二手に分け、壺伊勢屋は日野勢がそれぞれ担当する手筈を決めた。
「壺伊勢屋」の浪士等は最初に起きた「柳瀬屋」での銃砲音の夜討に気づき、壁際に身を潜め身構えた。
日野勢は「山崎兼助」「馬場市次郎」を先頭に立ち、階段を駆け上がるところ、6連発の短筒で一斉射撃し、最初に踏み込んだ「馬場市次郎」は浪士の短筒に討たれてあえなく即死する。
日野剣士の「山崎兼助」は背中を討たれる重傷を負い、事件の翌々日亡くなってしまう。

◇2009年12月17日のブログ記事

            <山崎兼助が住んでいた佐藤家長屋>

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どうだんつつじ」と「壺伊勢屋事件」
亡くなった一人「山崎兼助」は佐藤家の長屋に住み、「馬場市次郎」とも一緒に「大昌寺」に埋葬された。
「市次郎」は馬場家の墓にあり、墓誌に生々しい事件当日の日にちが、読み取れる。
一方「兼助」の墓石は梅の樹の近くに埋葬されたと言われているが、その所在は判らなかった。
一緒に住んでいた家族は居なくなってしまい、無縁になってしまった。

◇2014年5月の発見
◇兼助に関わるこれまで
「山崎兼助」は「先誉勇進信士」の法名の墓石で大昌寺の梅の樹の近くに丁重に葬られた。。
「兼助」には当時6歳位の女児と妻が居たが、その後、行方不明となり、「佐藤彦五郎」家と「馬場」家で墓参を続けて、いたようであった。
「聞き書き新選組」ではそのような表記がされているが、はてさて、その広い敷地の中で、僅かに残された梅の樹と戒名から見つけ出す事は出来なかった。

◇兼助の墓との出会い
歴史好きが集まり、幕末史を追う会が行われており、会員の一人が兼助の末裔であった。
御高齢ともあって、名を留める程度の会員であったが、ある日、兼助のことを、ぽつりと語られ、毎年墓参されている事実を伺い、大変驚いた。
兼助が壺伊勢屋事件で亡くなり、大昌寺で埋葬され立派な墓石も立てられた 。しかし縁者も判らないまま、無縁に近い状態に なってしまった。兼助の縁者が墓石を見付け、運び出し住職の了解のもと、大昌寺から流泉寺に安置された。
縁者の先祖探しの想いが、通じて、兼助が手招きして、招き、漸く先祖帰りが叶ったのでは なかろうか。
早速、兼助と一緒に戦い最も関わりの深い佐藤彦五郎末裔の資料館館長佐藤福子様に報告した。
こうして、山﨑の縁者と、福子館長と会の有志で山﨑家の墓参りをすることが出来た。
命日は明治元年12月28日とされ、浪士襲撃の三日後に亡くなっている。
山﨑の縁者から 兼助没後、後家となった「かめ」は行方知れずとされたが、引田の宮川家に再婚されている事実も判った。これで長年来積もり積もった、ことが吹っ切れた。
◇ 辿り着いた兼助の墓

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墓石は欠損もなく、表面に斑文もなく、明治元年(1868)以来の風化も少なく、戒名もしっかり、残されていた。「先譽勇進信士」は浪士捕縛に壺伊勢屋に真っ先に飛び込み、散っていった兼助の心生きを見るようであった。
墓石を前に特攻隊のような一縷な姿を思い浮かべながら、晴れて実家で安らかに眠る仏様に手を合わせた。合掌
流泉寺は江戸時代初期の新田 開発に来た人たちの菩提寺として、慶安3年(1650年)に建立された由緒ある寺である。兼助の実家、山﨑家の菩提寺である。
◇山﨑家の家紋は「寝笹」

          <寝笹家紋>

Tuboiseya3a05_2           <下がり藤家紋」>Tuboiseya3a06







山﨑家の家紋は「寝笹」であるが、何故か兼助の墓石は「下がり藤」になっている。
推測ではあるが、兼助が亡くなった時に佐藤彦五郎と関係者の手によって法要が進められた。関係者の手で墓石も建立されたが、家紋が判らなかったが、「下がり藤」が付けられた。
何故「下がり藤」か素朴な疑問から当時一緒に活躍した日野の剣士の墓で 「下がり藤」
と関係するのではと、市内の墓地で、くまなく探し求めた。
その結果、探し当てたのが大昌寺で玉川居)祐翁こと中村太郎吉の中村家が「下がり藤」であった。中村太郎吉は武州一揆の打払い、この壺伊勢屋事件にも参加した一人で、兼助とも行動を共にした仲間である。仲間の殉死に、立派な墓石の建立に一役買ったものと推測する。何故「下がり藤」を付けたかは太郎吉に聞けば、判るであろう。

詳細は「ようこそ幕末の世界へ」 参照ください

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鉄道遺産と勝沼戦争

      <旧中央本線(東)大日影トンネル>Img_888211

中央本線の笹子越えして間もなく勝沼である
一面の畑はブドウであり、鉄道駅名も「勝沼ぶどう卿」である。
この勝沼には鉄道おたく、鉄ちゃんに留まらず惹きつけられ中央本線(東)大日影トンネルが時代を支える鉄道の遺産として、そっくり残され、見学できる。閉じられた暗闇の異境の空間に走り抜ける列車を思い浮かべ冒険心が湧いてくる。
こんな話では幕末とは無縁な鉄の物語になってしまうが、このトンネルは戊辰役で東で最初の戦いの場であった、勝沼戦争の戦場に大変近い場所である。

勝沼をわが町と仰ら、郷土史に造詣の深い方に特別に案内して頂き、無縁と思われた勝沼戦争と鉄道施設の関わりを教えて頂き、驚いた。地元ならではの話、触れて見たい。

◇大日陰・深沢トンネル山間部は柏尾戦場に隣接
大日陰トンネルと深沢トンネルが建設された深沢は旧勝沼町の西端、旧大和村と接する急峻な山間地である。谷底を流れる深沢川は山間を流れ、甲州街道近くで、日川に合流する。
この合流点付近の深澤川に掛けられたのが柏尾橋で、勝沼戦争で戦火を開いた拠点である。
東西を結ぶ甲州街道はこの深い深澤川越えが必要であり、幕府軍は柏尾橋を落とし、官軍を阻止する陣を構える、格好の立地である。戦いに破れたものの、甲府行きを諦め、急遽ここに陣を構えたのも流石と思える。

因みに現役を退いた大日陰トンネルは遊歩道で整備され、30分ほどの異郷の世界を楽しめる。深沢トンネルは自然の冷気でワイン貯蔵庫としてワイン造りに活用されている。

◇大日陰・深沢トンネル山間部の難工事
両トンネルの工事は笹子トンネルほどの規模でないが、周辺の土木工事も含めて技術的に難しい工区であった。深沢川の急峻な谷に仮橋を架け、トンネルの残土を埋めながら既存の水路を確保するための河川隧道も同時に造られた。橋下はるかに見える河川トンネルは鉄道トンネルと同じレンガが使われ、当時のまま今なお役割を果たしている。

◇東京と山梨が繋がった
明治5年(1872)新橋~横浜間に日本で最初の鉄道が開通してから、東京と山梨を結ぶ鉄道敷設計画に県人の大きな期待が寄せられた。
鉄道は殖産興業のシンボルであり、人々の願いであった。当時の鉄道は東京から八王子まで私鉄の甲武鉄道が完成していた。この敷設に塩山出身の実業家雨宮啓次郎らが出資し、て大きな役割を果たしている。
これを国が買収し八王子以西は国の甲武鉄道として工事が進められ県境の小仏峠、笹子峠を越え、明治29年(1896)の着工から5年の歳月を費やし、明治36年(1903)に甲府まで開通した。

◇雨宮啓次郎
弘化3年(1846)に甲斐国山梨郡牛奥村(現・甲州市塩山牛奥)長百姓のの次男で誕生する。
少年時代から季節商いなどに従事し一財産築く。明治当初、アメリカ、ヨーロッパを外遊し、実業家としての識見を深める。日本の代表的な日本製粉株式会社の前身製粉工場の事業。軽井沢の開墾開発事業。甲武鉄道の社長に就任。64歳で没するまで鉄道・海運・石油・貿易など活躍する。
此処までの話に、雨宮の地位確立の立身伝になってしまうが、実は勝沼戦争に参加している。

◇幕府軍として戦闘に参加

          <柏尾の戦場となった場所。右側が甲州街道、江戸方面>

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慶応4年(1868)3月、大久保大和(剛)こと近藤勇が率いる甲陽鎮撫隊が、勝沼にやってきた。
名主長、百姓などの村役人を介して、鉄砲の心得ある猟師や勇武の者を集め、応分の報酬や武士身分の扱いから幕軍の参加を呼びかけ、当宿内に元より、隣村にも声をかけ、人集めした。
幕軍の呼びかけに、かなりの人数が駆けつけたがその中に雨宮と言う二人の青年が招集を掛けられて、募集に応じた。
翌日、戦いが始まり、実戦に参加した。
深沢川と言われる深い、峡谷を挟んで銃隊が周辺に配置し官軍と甲陽鎮撫隊が対座する陣形が敷かれた。激しい戦いがあり、柏尾橋に火をつけ、この橋を越えられないと言うことで戦況が膠着状態になった。
その後、日川の南側の岩崎山の中腹から渓谷を見下ろせる位置から諏訪兵が 、甲陽鎮撫隊の側面から、一方山越えして甲陽鎮撫隊の背後から挟撃する。
幕府側があっけなく破れ、それぞれ江戸方面へ逃走する。雨宮達は、官軍の捕縛を恐れ二週間は山に逃げ込み、家に帰って来た。

◇「使えなかった大砲」

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幕府軍はフランス製の最新鋭の砲を持ってきた。雷管が付いているがその使い方を知っているのが、結城無二三だけであった。甲州の出身と言うことで、当日、村々の人を塩山の寺に招集をかけ説明会を開いていた。その最中に戦争が始まってしまった。
残った連中は昔の大砲しか知らず、雷管をセットせず、そのまま撃ってしまった。
爆発せず、高い殺傷能力は発揮できなかった。戦後、そのまま地面に放置されてしまい、それを掘り起こし回収されている。
収拾された砲弾等は個人宅のお宝になっている。
その一つが雨宮敬次郎の親戚の家に大砲弾が保管されてあり、敬次郎が持ってきたと言われている

◇戦争体験からの目覚め
雨宮敬次郎は若気の至りで、戊辰の戦争に参加して、幕府があっけなく破れたことを自分の目で見ている。
世の中大きく変わっていくことにいち早く目覚め明治になって根津喜一郎の教えに従って鉄道事業に手を出す。
実戦を体験し、大砲弾を抱えていた若者が、中央線の建設に大きく関わっていくのである。

◇戦いの足跡
勝沼ブドウ卿駅は、菱山と言われる一角で甲府盆地を俯瞰できる、高い位置位置にある。
戦う前に篝火が焚かれ、幕軍の威容を膨示する格好の場所である。一方では官軍制圧の鍵を握ったのが因幡藩兵が菱山の猟師の案内で菱山ルートで山越えしている。深澤川沿いのルートから、幕軍を背後から攻撃し、勝敗を決定づけた。

勝沼ブドウ卿駅から大日陰トンネルを潜り、深澤川沿いの国道217に行けば柏尾の古戦場に辿り着く。途中で憤死した会津藩兵の墓碑がぶどう畑で確認出来る。
ゆったりと産業遺産のトンネルと勝沼戦跡を確かめ、先人が残したものを思い巡らされてみたい。

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