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凝縮された幕末の浦賀を巡って

2015年、大河ドラマ「花燃ゆ」がいよいよ走り出した。
旺盛な知識欲に沸く吉田松陰は鋭い触覚を効かせ、実に行動的で全国を走り、吸収していく。脱藩までして、その真っ直ぐな生き方は、幕藩体制など伝統を護る武家社会が受け入れられず悲劇が生まれる。

全国行脚の一つが、浦賀であろう。

032300961その浦賀港は相模湾に面し、波浪から護られるた自然の立地から、船舶ドックとして、近代造船の道が切り開かれる。一方、ペリーが浦賀沖にやって鎖国政策にピリオドがうち、日本の近代化が始まる。
その浦賀には幕末史がたっぷり詰まり、何度か足を運んだ場所である。当ブログでも既に紹介しているが、「花燃ゆ」を機会に改めて触れてみたい。

◇駅前で歓迎
浦賀港を目の前に、京急浦賀駅の前が一番賑やかな場所である。
ロータリーの一角の壁に貼られた馬鹿でかい絵(案内看板)がいやでも目に飛び込んでくる。 黒船来航にいち早く神田お玉ケ池の「象山書院」からいち早く駆けつけた象山と、吉田松陰とこの宿で落ち合い、日本の将来を熱く語り、翌日黒船を見に行く。
衝撃的な黒船来航は日本を大きく変えて行く、衝撃的な出来事であった。
幕末史を飾る一頁をこの看板が物語り、自然とその雰囲気が漂ってくる素敵な街である。
町を挙げて歴史・文化を大事にしている様子がこの看板にして直に伝わって来る。

◇徳田屋旅館跡
黒船来航に沸く当時の徳田屋 旅館は黒船見たさに、各地からやってきた泊まり客で廊下もあふ れる位に一杯となる。早耳でしかも行動がじつに機敏な象山は浦賀に一番乗りであったらしく、海防に心砕く象山の姿勢が良く表れている。
その由緒ある徳田屋旅館は1923年(大正12年)9月1日相模湾沖を震源として発生したマグニチュード7.9の関東大地震で倒壊し、今はその影もなく、碑を残すのみである。
10万5千人余の犠牲者が生まれ、目の前の震源地に一溜まりも無かったのであろう。

◇横須賀市道2073号線

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駅前から浦賀港沿いに外海に向かうと途中に渡し船がある。
この航路は横須賀市道2073号線 と言われ、浦賀の港を横切って、東岸と西岸を結ぶ重要な交通機関なのだ。
渡し船の歴史は古く江戸時代まで遡る ことができ、大正時代は3~4の業者が経営するほど盛んな時代があった。
お客さん数人を載せ、ものの数分で渡ってしまうが、海上から対岸の風情を確かめるのも一景である。

◇咸臨丸

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1)太平洋横断
日米通商条約批准に開国の機運の中、無謀とも思える、太平洋横断を行う事が急務であった。オランダから購入した軍艦「咸臨丸」は最初に太平洋を横断したはこの浦賀から出航している。
「「気合だ~、気合だ~、気合だ~」海軍伝習生から軍艦奉行への出世の道に掛けた「勝海舟」は過酷な冬の太平洋を航海に当たって、決死の覚悟の程が、断食して安全祈願をした。
その碑が「叶神社」に建っている。

2)清水港での悲劇
咸臨丸は酷使して故障が頻発する蒸気機関を取り外され、ただの3本マストの「運送船」に格下げされてしまう。
自力走行出来ない、咸臨丸は回転丸に引かれ、榎本武揚らに率いられる幕府艦隊の船として江戸を脱出して蝦夷に向かった。外洋で海が荒れ、回転丸との綱が切れ咸臨丸相模湾に漂う、一帆船になってしまいは駿州 清水港に吹き寄せられる。
新政府軍は清水港に停泊している咸臨丸に追討の軍艦を差し向け、戦いを挑み、白旗を掲げ降伏の意志を示す咸臨丸に乗り込み、無抵抗な乗組員を次々に惨殺する。非道な扱いに36の遺体が清水港に浮き、新政府軍に弓を引いた賊であるとして後難を恐れ遺体は海上に放置されたままで何日も港に浮いていた。

次郎長は「死ねば仏。仏には官軍も徳川もない」と小舟を出し、子分を動員して遺体を集め、向島の砂丘に葬った。
元浦賀奉行所同心である春山弁蔵は日本初の洋式軍艦鳳凰丸など設計に従事した有能な技術者であるが、咸臨丸副長として乗船し犠牲になった一人である。
顕正寺に墓石がある。

◇悲憤のヒーロー
「中島三郎助」は西浦賀の奉行所の浦賀奉行所与力の役宅で誕生し、文武を磨かれた。
武術は、槍術の宝蔵院高田流、砲術は高島流砲術、剣術は天然理心流・北辰一刀流を学んだ。武州一円に広まった天然理心流が浦賀にも広まったのだ。学問は、漢学者の下で俳句・和歌・漢詩の素養も身に付けた。
次々と浦賀に来航してくる異国に幕府の窓口として裁き、時には開国と通商を迫る外国船を退去させた砲撃技術も持ち、頭脳ばかりか腕前も優れ、八面六臂の活躍であった。
奉行所の一応接掛の身分に乗船を拒否されたが、役職を偽り、最初に黒船に乗り込み、目の前の最新技術の艦内をくまなく見て周り、根掘り葉掘り聞きまくり、アメリカ人には煙ったかれたが、その旺盛な探究心から日本で最初の洋式帆船「鳳凰丸」が誕生した。日本初となるドライドッグを浦賀に築造し、咸臨丸の船底の修理とコーキング(ひび割れなどを埋める作業)を無事に完了させる。

「三郎助」は「勝海舟」・「榎本武揚等」と共に、長崎の海軍伝習所に派遣され、海軍士官として修業と造船技術を身につけ、江戸海軍操錬所教授方として海国日本の造船・操船の第一人者、礎を築いた先駆者である。
「三郎助」は幕臣として意志を貫き戊辰戦争で旧幕府軍として参加、函館で子供達と三人一緒に戦死している。
千代ガ岱陣屋で榎本からの撤収の呼びかけを拒絶し、大量の火薬を詰めた大砲に跨り、引き寄せた敵もろとも自爆せんとししたが、雨のために点火が成らず、やむなく刀を振りかざし敵陣へ乗り込み白兵戦を挑む、壮烈な最期と言われている。

          <「三郎助」以下親子三人の墓>0323007311
大政奉還後の戦国の騒乱、主家報恩のために、弁天台場で亡くなった土方歳三と重なる。
「私がさきに昌宣と死を共にしなかったのはもっぱら慶喜公のむじつの罪を雪(そそ)ぐ日のあることを期しているからである。今このような状況になってしまった以上、いさぎよく戦死するだけである。今このような状況になってしまった以上、いさぎよく戦死するだけである。仮にゆるやかな処分によって命を永らえたとしても私はどうして復(ふたた)び地下の昌宣と顔を合わせることが出来るであろうか」と歳三が残している。・・・殉節両雄の碑から

「三郎助」親子3人は、浦賀港を見渡せる東林寺に眠る。

凝縮された幕末の浦賀は「ようこそ幕末の世界」 史跡巡りマップ「三浦市」で紹介されてます

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勝沼戦争を左右した歴史・文化

慶応4年1月鳥羽伏見の戦いで破れ大坂城から脱出した徳川慶喜は江戸城に入城し、大広間で御前評議が行われた。主戦、・恭順の二つに割れ激しい応酬があった。
結局結論の出ぬまま幕臣間の調整失敗などあって、自決するなど城内外に思わぬ混乱を招いた。
結局、慶喜が和平恭順を表明し、以来、幕閣は大揺れに揺れた。
慶喜ら27名は官位と剥奪と幕府領は直轄とする令が朝廷から出され、幕閣は姿を消した。当面幕府の責任は勝麟太郎と大久保一翁の二人となった。
大久保一翁から新選組は上野警備を命じられたが、一方では近藤、土方が情勢分析し、甲府城を手に入れ、慶喜を向かい入れ幕府再建を図ろうと計画した。
彼らに甲州出兵の出番が与えられ、東山道を江戸へ進撃する倒幕軍を甲州城勤番武士と共に甲州城で迎え撃つと言う計画であった。

しかし、その甲州城も新政府軍側に無血で開城し、あっと言う間に勝沼も落され、新政府軍の江戸城進出に歯止めがかからなかった。
その伏線に甲府盆地一帯の所謂「国中」と言われる地域に根を張る、武田信玄の遺臣の子孫の先祖を敬う歴史、風土が幕府に距離を置き、官軍になびいた歴史背景が大きく影響したと考えられる。
勝沼戦争の子細は既に当ブログでも書かれており、歴史・文化が戦争に繋がる具体例を書いてみた。

      <武田信玄の遺稿が残される、武田神社にて>

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◇偽勅使事件
甲陽鎮撫隊が甲府へ向かう時期の直前に重なるように偽勅使事件があり、甲府城を巡る大きな事件があった。
  慶応4(1868)年正月、小沢一仙は名前を小沢雅楽之助と変え、同志をつのり、高松実村という公家を頭にたてて、「高松隊」を名乗って挙兵する。
   甲州人たちは戦国時代の武田信玄を唯一無二の御領主様と思っおり、開府以来の徳川家の天領というのに、幕府との繋がりは希薄であった。この時期の甲州は、草莽ゲリラによる関東騒擾の影響から、治安が悪くなっていた。 
そんな背景から天皇のご威光を背負って官軍鎮撫雅楽之助は神主、武田氏ゆかりの郷士、お百姓、甲州商人など、武家以外のあらゆる階層を付随させ甲府に入城する。
 我らは天朝様より甲州鎮撫を仰せつかる年貢半減、甲州金の独占採掘許可など勅使と城明け渡を迫った。

徳川幕府を潰滅に追い込んだ、薩長主導の官軍は、王政復古の新国家を運営の財源の確保が必要で、相楽総三らをつかって「年貢半減令」を触れさせ諸国の鎮撫に走った。
  一方三井・鴻池ら天下の豪商が財政面を面倒みることになり、当座の資金難は解消された。しかし、「年貢半減令」は米相場の利益が減り援助が望めなくなり、弊害となる。

  触れ歩いた年貢半減を取り下げは、新政府の威信に関わり出来ない。このため、鎮撫軍の工作部隊は「偽官軍」、年貢半減も「虚報」と言ういうことにして、 世直しに夢を賭けた草莽の志士たちは、片っ端から「処分」されていく。

慶応4年2月。東海道官軍総督(西郷隆盛)の使者として、土佐藩士黒岩治部之介ら3名が甲府入りし、高松実村と小沢一仙を呼び出して詰問する。
  高松隊は正式な官軍の認可なく挙兵をしたことで、「偽勅使」の罪名とされ、慶応4年3月14日、小沢一仙は、甲府の山崎刑場で斬首される。享年39才。

◇板垣退助の先祖は武田の家臣
一方、新政府軍側の板垣退助は戊辰戦争では土佐勤王党の流れをくむ隊士を集めた迅衝隊総督として土佐藩兵を率い、東山道先鋒総督府の参謀として従軍し、天領である甲府城の掌握に向けて出発した。
板垣退助(旧姓乾)は天保8年4月17日(1837年5月21日)、土佐藩上士(馬廻格・300石)乾正成の嫡男として、高知城下中島町に生まれた。
乾家は武田信玄の重臣であった板垣信方を祖とした家柄である。
慶応4年(1868年)2月14日が祖先・板垣信方の没後320年にあたるため、「甲斐源氏の流れを汲む旧武田家家臣の板垣氏の末裔であることを示して甲斐国民衆の支持を得よ」と、岩倉具視等の助言を得て、板垣氏に姓を復した。
この策が講じて甲州勝沼の戦いで甲州に受けいれられる土壌から、戦わずして甲府城の接収を円滑に実施した。

◇甲府城無血開城
甲府に居た部隊は官軍の本隊が来る前に、偽勅使事件で幕府から離れた。官軍は武田の遺臣団に協力要請し、武田神社、武田八幡など神主系が動き、無血のまま入城を果たす。
土地柄、幕府との繋がりは希薄なことを背景に甲府から、進軍を円滑に進め、勝沼での戦いに有利に展開した。
逆に幕府軍は倒幕軍を甲州城勤番武士と共に迎え撃つと言う目論見は消し飛んでしまい、地元の支援もなく戦わざるを得なかった。

◇新政府軍の行動

<甲州道、勝沼宿本陣跡、今も残る槍かけの松。この前を新政府軍が通過し、歴史の変化を松は見守る>

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<甲州道から正面、柏尾山はもうわずか、この背後に甲陽鎮撫隊が控え、激戦が繰り広げられる。一部のはげ山は鳥居平野焼きが、毎年10月に行われ、大文字焼きを思わす、光景が感動を呼ぶ>

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板垣退助が新政府に提出した毛筆の文書から当時の新政府h軍の行動記録を辿って見る。
板垣退助の報告書・・・現防衛研究図書館
3月1日 板垣は東山道軍総督に甲府攻略を進言し諏訪に着陣。因州、土州兵(因旛、  土 佐)と嚮導役の諏訪兵計3小隊を前哨兵として甲府に差し向ける。
3月2日板垣軍甲府へ向かう。
3月4日甲府に到着した先発の前哨兵は城代の佐藤駿河守と交渉し甲府城の受け 取りを完了する。その夜、鎮撫隊を夜襲するも失敗。
3月5日全政府軍、約1500名甲府城に到着。
3月6日甲府より谷守部、片岡健吉らが兵を率いて勝沼へ出発し鎮撫隊と戦う。
      甲府で旧幕府方、協力者を捕縛。
3月7日会津藩士、大崎壮助処刑
3月8日甲府城と捕虜を真田氏に託す。
3月9日新政府軍、甲府城を出発
3月11日武州八王子に到着
3月14日内藤新宿に到着

◇板垣退助の残したもの
甲州勝沼の戦いで大久保大和(近藤勇)の率いる新選組を撃破した。その後、江戸に転戦した際も、旧武田家臣が多く召抱えられていた八王子千人同心たちの心を懐柔させるのにも絶大な効果があった。
龍馬の桂小五郎宛ての書簡には乾退助を紹介する記述があり、また退助も龍馬の脱藩の赦免に奔走するなど、互いに面識はあったようである。
千葉さな子が開業した鍼灸院は、自由党員の小田切謙明をはじめ数多くの患者を紹介するなど、龍馬の縁者には何かと面倒をみている。

甲府市朝日町の「妙清山清運寺」の小田切家の墓所になんと「佐那」の墓がある。

当ブログでも、龍馬のもう一人の妻「千葉佐那」で紹介している。

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