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島原の角屋と新選組

            <島原の角屋、現在は文化美術館とて公開>

Simabara01_2昨年(2014年)京の弾丸ツアーで印象的な一つが島原の角屋であった。新選組と角屋を触れてみた。
歌舞音曲の遊宴の町を称して花街と言うそうであるが、豊臣秀吉の頃から古き歴史を持っていたが、その居住まいとして、御所に近いとか、風紀を乱すなどから転々の繰り返しで、あった。寛永18年(1641)現在地の島原(京都市下京区)に落ち着いた。
京の島原にその花街に代表する揚屋(料亭)が「角屋」であった。
各藩の武家屋敷の大宴会を「角屋」他の揚屋が担ったが、幕末になると「角屋」勤皇派の久坂玄端、西郷隆盛坂本龍馬など密議に使われ、一方では新選組も使われ、変転する幕末の舞台になっている。
明治維新以降は大型宴会の需要もなくなり、土地の足場の悪さもあって、島原の街全体の灯が消えかかり、かっての隆盛を極めた役割は終えた。
「角屋」は揚屋を止め、昭和60年までお茶屋業で細々と宴会業務を行っていた。唯一「輪違屋」だけがお茶屋業で、営業を続けている

        <輪違屋>

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◇芹沢鴨 の暴挙
この時期に水口藩の公用方が会津藩邸に壬生浪士の乱暴狼藉の取り締まりを申し入れる。怒り狂った芹沢は公用方の召し捕り屯所連行を隊士に命令するが、詫び状を書いて収めた。
一浪士に出した詫び状は外部に知れたら大変な事になり、島原の角屋で浪士一同を招き、酒宴を開き、何とか詫び状を回収した。遍く暴挙と越し引けた公用方であった。
酒宴の席で座敷に芸者ばかり、仲居が居ない事に腹を立て鉄扇で瀬戸物、膳、更に厨房の食器まで破壊の限りを尽くし、挙げ句の果て7日間の営業停止を申しつけ、立ち去った。
留まることのない暴挙に会津藩も芹沢一派の処分を命じた

新選組隊士は総出で島原の角屋に繰り込み、宴会を開き、夜もふけるころ、泥酩状態、芹沢は腹心の平山五郎平間重助と共に駕籠で八木邸に戻る。芹沢に芹沢に手込めされ情婦にされてしまったお梅が、平山には桔梗屋の小栄、平間には輪違屋の糸里待っていた。三人はそれぞれの女と寝入った。
土方歳三以下が踏み込み、芹沢は太刀を浴びせ絶命、お梅も首を斬られ、平山も首を落され、何人かは逃げた。
芹沢らの死は表面上「病死」、隊内には長州浪士の闇討ちとして処理された。

◇歳三のモテ自慢
文久3年(1863)11月「同郷の松本捨助の入隊に壬生まで訪れたが帰郷させた」と小野路の小島鹿之助に手紙を送った。追伸にモテ振りをさらし、島原では花君太夫、祇園では芸者三人、北野では君菊、小楽という舞妓さらに大阪の新町で若鶴太夫ほか、北の新地では多すぎて書ききれないと、述べ「報国の心を忘る婦人かな」と結んでいる。

◇伊東甲子太郎、新選組離脱の同道者を画策
慶応3年正月伊東甲子太郎は自らの腹心と永倉新八、斉藤一を誘って島原の角屋に登楼する。元日は遊廓が休みで、酒だけを準備させ、アヒルを持参した。新選組相手に酒だけでは済まないと芸者を呼んでもてなし、20人程の隊士も押し寄せ大宴会になったが、日が暮れ殆ど帰隊し、伊東、永倉、斉藤の3人となる。
公然とした隊規破りに本来、切腹と決まっていたが、謹慎処分となった。伊東は新選組から離れ斉藤、永倉に同道したい旨のサインを送ったものであろうと、歳三も気づいていた。この謹慎期間に斉藤は新選組を離れ伊東の元へ走り、内偵の密約を負わされた。
御陵衛士は薩摩に接近し、実績を求められ、近藤の殺害計画を立てることを、内偵した斉藤が発覚した。
歳三はこの情報を聞き、激怒し伊東始め御陵衛士の殺害を計画する。
伊東は近藤の休息所に行き、酒宴をあげ、帰途の途中の油小路で待ち伏せした宮川信吉や大石鍬次郎に斬り付けられ、絶命する

◇角屋では刀をお預け

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武士道の必須道具である刀は武士の魂とも分身のような大事な存在であるが、物騒な刀は玄関で預けられる。
預けられた刀は刀掛で、一時預かりし、専用のタンスに保管される。
外来には全く無防備、丸腰で酒宴の席に望むことになる。
部屋は分けられているものの勤皇・佐幕と先鋭化された集団が一つの屋根の下で会合を持つことは、一触即発の乱闘事件が生まれなかったのは、刀取り上げが役立ったのではなかろうか。
しかし、そのルールも新選組は会津藩、預かりの「御用改め」の役割から、帯刀した。
角屋内部には一階にも二階にも廊下や座敷の柱に、深い刀傷が歴史の傷として残される。
その時の意のままにならず感情の赴くまま、多少の酔いも手伝って、刀に手をかけ てしまったのであろうか・・・。

島原の角屋と新選組は「ようこそ幕末の世界」 史跡巡り島原と駆けめぐる志士たちで紹介されてます

 

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新選組を支えた典医「松本良順」

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松本良順は西洋外科の先駆けとなる蘭学塾を開き、順天堂を起こした佐藤泰然の次男として生まれる。幕府の奥医師で泰然の親友松本良甫の養子になり幕医の道を歩む。

長崎に出てオランダ軍医ポンペに西洋医学を学び、長崎養生所設立に尽力した後、蘭方医として神田和泉橋の医学所の頭取となった。

良順は父親の後を追うように、立場は異なるが蘭学医で名声を高め、方や佐倉の藩医に対して、将軍直々の典医になった。

元治元年(1864)近藤勇は医学所の良順を訪ね、西洋諸外国の軍備と近代化の様子とアジア侵略の模様など聞き、知見を深め、医者として、知識人として、近藤との絆が生まれる。

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慶応元年(1865)5月、将軍家茂が征長部隊を率いて上洛の途についた。幕府典医頭の良順は将軍侍医として随行した。
この家茂公上洛時に近藤の招きで、良順は壬生から西本願寺に移った新選組屯所を訪ねた。

西本願寺の屯所は総勢百七、八十豪傑、野心家の集まりとして梁山伯に入るようだと良順は感嘆している。一方、局長幹部が居る前に寝たままの者も居り、無礼と指摘した。しかし近藤は寝ている者は皆病人との説明し、良順は驚き、早速治療した。

厨房に溢れる残飯を見て、再利用して豚、鳥を飼い、食用にすることを勧めるなど医者の立場から生活面での具体的な指導をした。

慶応3年(1867)11月新選組を離れていった御陵衛士は新選組に対立する意識を持ち、近藤勇の暗殺を計画するなど先鋭化した。この御陵衛士の情報を掴み、怒った新選組は油小路で伊藤甲子太郎と御陵衛士を殺害した。

生き残った御陵衛士の残党は何とか伊藤甲子太郎の仇をうちたいと機会を狙っていた。
同年12月18日、 近藤が鴨川東岸に出て、伏見街道を南下することを察知した御陵衛士の阿部十郎以下は伏見の薩摩藩邸で小銃を二丁借り、伏見街道の空き家に潜み待ち構える。その前を近藤は馬上で、それに従う馬丁と島田魁、横倉甚五郎、井上新左衛門の3人だけで通過しようとしていた。
伏見街道墨染付近で、御陵衛士撃った弾が近藤の右肩に直撃する。近藤の体は大きく揺らいだが馬首にしがみつき逃走し何とか伏見奉行所に駆け込んだ。

近藤は右の鎖骨から上斜脊髄付近にかけての銃創された。翌日会津藩と大坂城の将軍家から医師が派遣されたが、設備無く、治療できず駕籠で大阪に下った。沖田も病身で以後は大阪町奉行の屋敷で療養する。

慶応4年鳥羽伏見の戦いが勃発する。幕府軍、利に非ず、総大将となるべく慶喜が大坂城から江戸へ退去し、事実上敗退する。

幕府軍が大阪から撤収する中、新選組も続き、療養中近藤と沖田は富士山丸で江戸に帰り神田和泉橋の医学所に入った。

近藤は肩銃創の重傷を負ったままであったが此処医学所で松本良順から骨片の摘出手術を受ける。裂けた骨を摘出後、此れまで日本に無かったオランダ製のスポイトで洗浄して見事完治させた。この骨片は近藤愛用の印鑑と共に大切に松本家に保管されていたと言う。

良順は近藤との繋がりから医者として新選組絡みで色々広く支えている。
沖田総司の労咳治療は京の新選組屯所から江戸の医学所、浅草の今戸まで渾身的に行っているが、総司は病魔に勝てず、遂に亡くなる。

戊辰戦争では、歩兵頭格医師として幕府陸軍の軍医、次いで奥羽列藩同盟軍の軍医となり戊辰役が北上する間、良順も同行する。

この間、良順は会津から庄内に入り、榎本武揚の手紙によって仙台にやってきた。

榎本が勧める蝦夷に渡ることを賛成できず、歳三にも相談する。歳三から 「前途有用な人材なり、宜しく断然ここを去って、江戸に帰るべし、もし不幸にして縛りに就くも、西軍の将士皆君を知れり。何ぞ危害を加えることあらんや・・・」

歳三は蝦夷行きを最早固めているが、良順の身を案じて江戸に帰ることを勧める。良順はオランダ船に乗って横浜に戻って縛りにつくが、維新後明治2年赦免され陸軍軍医総監に就任する。

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