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新選組を支えた典医「松本良順」

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松本良順は西洋外科の先駆けとなる蘭学塾を開き、順天堂を起こした佐藤泰然の次男として生まれる。幕府の奥医師で泰然の親友松本良甫の養子になり幕医の道を歩む。

長崎に出てオランダ軍医ポンペに西洋医学を学び、長崎養生所設立に尽力した後、蘭方医として神田和泉橋の医学所の頭取となった。

良順は父親の後を追うように、立場は異なるが蘭学医で名声を高め、方や佐倉の藩医に対して、将軍直々の典医になった。

元治元年(1864)近藤勇は医学所の良順を訪ね、西洋諸外国の軍備と近代化の様子とアジア侵略の模様など聞き、知見を深め、医者として、知識人として、近藤との絆が生まれる。

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慶応元年(1865)5月、将軍家茂が征長部隊を率いて上洛の途についた。幕府典医頭の良順は将軍侍医として随行した。
この家茂公上洛時に近藤の招きで、良順は壬生から西本願寺に移った新選組屯所を訪ねた。

西本願寺の屯所は総勢百七、八十豪傑、野心家の集まりとして梁山伯に入るようだと良順は感嘆している。一方、局長幹部が居る前に寝たままの者も居り、無礼と指摘した。しかし近藤は寝ている者は皆病人との説明し、良順は驚き、早速治療した。

厨房に溢れる残飯を見て、再利用して豚、鳥を飼い、食用にすることを勧めるなど医者の立場から生活面での具体的な指導をした。

慶応3年(1867)11月新選組を離れていった御陵衛士は新選組に対立する意識を持ち、近藤勇の暗殺を計画するなど先鋭化した。この御陵衛士の情報を掴み、怒った新選組は油小路で伊藤甲子太郎と御陵衛士を殺害した。

生き残った御陵衛士の残党は何とか伊藤甲子太郎の仇をうちたいと機会を狙っていた。
同年12月18日、 近藤が鴨川東岸に出て、伏見街道を南下することを察知した御陵衛士の阿部十郎以下は伏見の薩摩藩邸で小銃を二丁借り、伏見街道の空き家に潜み待ち構える。その前を近藤は馬上で、それに従う馬丁と島田魁、横倉甚五郎、井上新左衛門の3人だけで通過しようとしていた。
伏見街道墨染付近で、御陵衛士撃った弾が近藤の右肩に直撃する。近藤の体は大きく揺らいだが馬首にしがみつき逃走し何とか伏見奉行所に駆け込んだ。

近藤は右の鎖骨から上斜脊髄付近にかけての銃創された。翌日会津藩と大坂城の将軍家から医師が派遣されたが、設備無く、治療できず駕籠で大阪に下った。沖田も病身で以後は大阪町奉行の屋敷で療養する。

慶応4年鳥羽伏見の戦いが勃発する。幕府軍、利に非ず、総大将となるべく慶喜が大坂城から江戸へ退去し、事実上敗退する。

幕府軍が大阪から撤収する中、新選組も続き、療養中近藤と沖田は富士山丸で江戸に帰り神田和泉橋の医学所に入った。

近藤は肩銃創の重傷を負ったままであったが此処医学所で松本良順から骨片の摘出手術を受ける。裂けた骨を摘出後、此れまで日本に無かったオランダ製のスポイトで洗浄して見事完治させた。この骨片は近藤愛用の印鑑と共に大切に松本家に保管されていたと言う。

良順は近藤との繋がりから医者として新選組絡みで色々広く支えている。
沖田総司の労咳治療は京の新選組屯所から江戸の医学所、浅草の今戸まで渾身的に行っているが、総司は病魔に勝てず、遂に亡くなる。

戊辰戦争では、歩兵頭格医師として幕府陸軍の軍医、次いで奥羽列藩同盟軍の軍医となり戊辰役が北上する間、良順も同行する。

この間、良順は会津から庄内に入り、榎本武揚の手紙によって仙台にやってきた。

榎本が勧める蝦夷に渡ることを賛成できず、歳三にも相談する。歳三から 「前途有用な人材なり、宜しく断然ここを去って、江戸に帰るべし、もし不幸にして縛りに就くも、西軍の将士皆君を知れり。何ぞ危害を加えることあらんや・・・」

歳三は蝦夷行きを最早固めているが、良順の身を案じて江戸に帰ることを勧める。良順はオランダ船に乗って横浜に戻って縛りにつくが、維新後明治2年赦免され陸軍軍医総監に就任する。

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