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調布みなさん、日野案内

            本陣に集まった調布史談会の皆さんImage1
観光協会の紹介で3月15日(日)調布史談会主催の日野史跡巡りの案内をやり遂げた。
最も気にかけるのは天候であるが、事前予報では所により、雨も予想されたが当日は薄曇りで温かい街歩き日和であった。
そんな好天に後押しされ、参加者も10数人の予定が膨れ上がり31人も参加された。
この大人数に該当では声も届かず、急遽ヘッドマイク付の携帯スピーカーを借りて備えた。
これだけの人数が集まると、群れの移動集散、説明場所の確保、トイレなど色々問題が頭をよぎる。一人ではどうすることも出来ない、スタッフの皆さんの支援で無事に何とか回すことが出来た。

         長蛇の列に集散も一苦労する

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メインは何と言っても本陣であるが、当日は資料館の開催日もあって、一般客で満員、普段出来ない外部からも時間を割いて案内した。

◇日野宿本陣跡(上佐藤家)
日野宿本陣のもう一つ上佐藤家はマンションに置き替わってしまったが、建物沿いに残される玄関口にのみマンションとは異質の和風の門が見える。
一介の油売りの斉藤道三が美濃国の守護職に上り詰める国盗り物語。

家督の継ぎ争い道三は息子に破れ戦死する。道三に仕えた武士の一族3人が東国へ流れ、その一人が日野に落ち着いた隼人がご先祖であった。北条氏照から囚人を貰いうけ今日の用水作りの基礎を造った立役者。

周辺の落ち武者や野武士を追い払い、村を護り、甲州道の建設に尽力し、村人の推挙で名主となる。、

◇日野宿本陣(下佐藤家)
・明治天皇京都
明治13年明治天皇京都行幸で休憩され、国の中核を担う人物が随行している。
明治天皇をその錚々たる随行者に如何に大きな出来事であったかを紹介する。
折しも大河ドラマ「花燃ゆ」百姓上がりの利助は後の伊藤博文であった。

松下村塾生の一人で品川御殿山の英国公使館焼き討ち、要人の暗殺など過激な尊王攘夷の志士志であった。
禁門の変などで、仲間が倒れる中、維新に生き残る。海外渡航で開国論に目覚め、長州閥の有力者の木戸の後ろ盾や、英語に堪能なことから総理大臣まで上り詰めた人物であった。

太政大臣三条実美(さねとも)は薩摩藩・会津藩などの公武合体派が画策した八月十八日の政変で失脚した尊王攘夷派の7人の公家の1人。長州系が京都を追放され太宰府へ3年間の幽閉生活。七郷落ちで有名。維新以降は新政府の中枢となる。
 
・行幸の碑の下に御膳水が果たして何処か?
明治天皇が行幸の折、お茶に、この御膳水の水が供された。その場所は碑の近くの塀の裏にあり、井戸枠があったが、朽ちてしまい、現在、鉄板で蓋が掛けられている。
御膳水については直接飲用されることもあって、宮内省から何回も調査し、問題なしと此処が選ばれ井戸が掘られた。

・時代の流れを反映した人の流れ
参勤交代の大名。壺伊勢屋事件で薩摩の浪士捕縛での日野剣士達。旧幕府側、最後の生き残りを掛けた甲陽鎮撫隊。明治天皇。時代を追って本陣から見送った歴史の拠点に熱い眼差しが向けられた。

(本陣~有山邸~大門通りを経て大昌寺へ)
◇大昌寺
・きらめく葵御紋
大昌寺ではに徳川家の檀家寺の芝増上寺の末寺であることから、屋根上で、お馴染みの葵御紋がきら星のように輝いている。
・壺伊勢屋事件
壺伊勢屋事件で薩摩浪士捕縛に参加した佐藤彦五郎、以下の多数の日野剣士が此処に眠る。
「お~い」と声を掛ければ血気盛んな剣士たちが直ぐに集まる様な距離にある。
彦五郎宅の長屋に住み、犠牲になった一人、山﨑兼助も此処で葬られ、行方知れずであったが、砂川の流泉寺で見付けた。

かっては宿内遥か浅川まで時を告げた巨大な鐘楼が土台から持ち上げられていた。
折しも本陣、上段の間の曳き家が思い起こされる。

                    持ち上げられた鐘楼は櫓の上に

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(大昌寺~宝泉寺~西の地蔵)
・お地蔵さん前で「天道」「人間道」「修羅道」「畜生道」「餓鬼道」「地獄道」
六つの地蔵さんが控える。
何れあの世に世話になるなら
どの道が良いなどと身勝手な思いも寄せて
ご案内も終演となる。

          お地蔵さん前で最後の案内

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・ああ~感動の拍手
杖を付ながら、何とか群れに追いついて頂くなど、最後まで無事にご案内。
地蔵さんの前で下手なご案内にも、拍手で締めて頂き
「この一瞬に案内冥利につきるなあ~」と感動を頂き、お別れする。
駅の乗降客が行き交う中で、この群れと拍手に、じろじろ見られたが(笑い)
やり終えた達成感に満足であった。

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勝沼で戦った幕兵がキリストの世界へ

◇結城無二三

Img0991111甲陽鎮撫隊に参加した結城無二三がキリスト教の世界に入る。その変化に富んだ生涯を追ってみる。

弘化2年(1845)甲州で誕生、幼名は有無之助。
結城無二三は16歳で江戸に出て、幕末の攘夷派は志士の思誠塾や幕府の講務所で文武を習。父の死で帰郷後京に上がって見回り組に入り、*慶応2年(1866)に新選組に移籍したとされている。
但し、歴史作家山村竜也氏は後述の長男の書かれた私本で書かれたもので、裏付けもなく、新選組隊士ではないと、言い切っている。
唯一、結城との繋がりは新選組が甲陽鎮撫隊が出来、近藤が甲州に詳しい者を探して欲しいと言うことから、結城との出会いが生まれた。

結城は生まれは甲府で甲州に地理に詳しく、大砲の心得があったと自ら名乗り出た。
慶応4年(1868)甲陽鎮撫隊に加えられ、地理嚮導兼大砲差図役および軍監と言う肩書を与えられた。

と言うことで、結城は新選組隊士ではないが、甲陽鎮撫隊で参加している。

◇勝沼戦争で幕軍惨敗

甲州街道の勝沼から江戸(東京)方面の姿。戦場となった柏尾の陣の日向平そして 、甲州街道を挟んで反対側の岩崎山も戦場となる

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幕軍はフランス製の最新鋭の砲を持ってきた。雷管が付いているがその使い方を知っているのが、結城無二三だけであった。
結城は甲州の出身と言うことで、当日、村々の人を塩山の寺に招集をかけ説明会を開いていた。その最中に戦争が始まってしまった。
戦線に残った連中は昔の大砲しか知らず、雷管をセットせず、そのまま撃ってしまった。爆発せず、そのまま地面に放置されてしまった。
三方から攻め、数で圧倒する新政府軍に甲陽鎮撫隊が惨敗し、その日のうちに鎮撫隊は江戸に退却するが結城は駿河方面へ逃した。

◇開明の世界、乳業に取り組む
結城は沼津兵学校に入り西洋式学問を学び、教師としての山岡鉄舟と知り合う。
山岡、勝海舟の勧めで伊豆大島で日本では習慣のない牛乳飲料のため乳牛の飼育を計画するが、甲府盆地で農民騒動が起こり、計画を中止し甲州に戻る。
明治9年、妻を娶り甲府で、乳牛の飼育に取り組み成功する。

◇俗世界から縁切る、反骨精神
この成功事例に、突然県庁で同じく牛乳を始め出した。
開明の事業を私人に手を着けられ、県庁で関係しないとあっては政府へ対して面目が立たぬという趣旨であった。
結城は尊皇攘夷の旗を掲げていた政府が恥かしくもなく開明屋に早変り、寄ってたかって自分を圧迫するのかと、不平が一時に勃発し、直ちに県令のところへ押しかけた。

激論した上、牛を売って牛小屋を叩き潰して、さっさと御代咲の山の中へ引き込んでしまった。
己は敗軍の将であり、明治政府の治下で仕事をしようというのがそもそも間違いと、深く決心し、勝沼より南方方向の大積寺という人里離れた山にこもり、俗世界と縁を切る。
世間では武士が大積寺の山へ入って仙人になる修業をしていると評判になる。

◇危急に救われキリストの世界へ
明治11年、人里離れた山中で夫婦とも病気にかかり、医者にもかかれず窮したところ支那訳の『聖書』を一冊持ち、キリスト教の聖書の詩篇で祈ったところ、快方に向かう。
これを機会に結城は英語と歴史を教える傍ら布教活動を行う、カナダの宣教師イビーを訪問する。伝道所は現在の日本基督教団甲府教会である。
明治12年洗礼を受け教会の伝道師としての道を歩み二年間、山梨県下を巡る。
明治13年単身上京して麻布の東洋英和学校へ入る。既に若くない、結城の全く経験のない分野の学習も伴い苦労するが、熱意で克服する。勉強の傍ら牛込教会を引き受けて伝道を行った。

◇厳しい布教活動

布教活動は大きな障壁もあり、結城に襲いかかった。
明治16年結城39歳、全国にわたり耶蘇退治の運動が勃発した。浜松はこと激しく布教活動として講義所の演壇で演説する結城にめがけて石が飛んでくる荒れた世界で、暗澹たるものであった。
関係者危険だからと家の者と一緒に奥の部屋へ閉じ籠って、投石から身を守り、内で讃美歌を歌う悲惨なものであった。
石は結城にあたるが平然と構え、投石で洋燈は消えても暗闇の中で演説を続けていた。
激しい妨害の中で、その熱意に耶蘇は嫌いだが、同情するものが現れ、投石防禦に廻ってくれる者もいた。
そんな厳しい布教活動の中で熱意が徐々に受け入れられ評判を呼び結城を慕って京都から訪ねてくる者もいた。
以来各地で献身的伝道を行う。

晩年の韮崎での生活は恵まれず厳しい暮らしであったようだ。そんな困窮生活の中で息子に教育を続けさせた。

明治45年(1912)病没する。
結城を指導した宣教師イビーはカナダで訃報を聞き「ああサムライ結城無二三」と絶句した。

幕末から維新にかけて、一戦士が未知の分野の乳業の世界へ、政府の横やりで、挫折するも、反骨精神で更に布教の世界など千変万化に富んだ生涯であった。

幕末から維新へ様変わりする環境に挑戦的に生き抜いた、結城の姿に、心響く。、「無二三」とは「俺ほどの豪傑は天下に二人も三人も居ない」という意味で名乗ったと言われる。

(参考資料)

*歴史読本2002年「結城無二三の足跡」山村竜也著
**結城の長男結城禮一郎著した私本「お前たちのおぢい様」(中央文庫・絶版)

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